二案か三案か

わずか一案だけを会議にはかる、あるいは誰かに提案する。一案主義とは、採択か不採択かの是非評価だけを迫る方法である。進退を覚悟した、まさに勇気ある一案? 必ずしもそうとはかぎらない。単にその一案を過信しているだけかもしれないし、アイデアが出ないためやむなく一案だったのかもしれない。いずれにしても向こう見ずな話である。

できれば二案あるほうがいい。一案よりは二案のほうがよさそうである。しかし、この二案主義に対しても異論が出ることがある。二案をそれぞれA案とB案と称するとき、これはA案かB案かを迫る方法にほかならない。つまり、一案に対してイエスかノーを決めるのと同じではないかという見解だ。一案がノーになるケースと「A案かつB案」が却下されるケースは、いずれも不採択。一案がイエスになるケースと「A案またはB案」が容認されるケースはいずれも採択。二者択一的という点では、なるほど同じような意思決定のように見える。

ゆえに、せめて三案ということになるのか。三案主義は評価の基準を多様化してくれそうだ。そもそも〈案〉は計画や着想段階のものであり、ある種の「推量的習作」なのである。そうであるなら、実際行動に先立つ、蓋然性の高そうな選択肢は多いほうがいい。「多い」というのは、一案や二案に比べてより多いという意味だ。一案や二案よりも多い最小の選択肢が、三案というわけである。実際、「にぎりと上にぎり」のように二項対立しているよりも、「会席コース松、竹、梅」のほうが中庸があって選びやすい。


以上のことから、「二案よりも三案」と結論づけたいが、話はそう簡単ではない。選択肢の多さだけで案を評価するのなら、三案よりも四案を、さらに、四案よりも五案を歓迎することになってしまう。選択肢の多さは無責任に案を水増しすることにならないか。選択に幅があることによって安心感が得られることは認めよう。しかし、だからと言って、結局は絞らねばならないのだ。選択肢が多ければ多いほど、絞り込む過程のストレスは高くなる。

よく時代に目を配らねばならない。多様性の時代の自由は選択の苦悩をもたらす。際限なくオプションを追い求めるよりも、最初から「これかあれか」と方向性を見据えておくのはどうか。はじめにきつい選択をおこない、次いでその採択案の修正オプションを増やしていくという方法である。意思決定に迅速性が求められる今日、「三案よりも二案」という考え方のほうが有力と言ってもよい。

「二、三の」という慣用があるから、「二案も三案も同じではないか」という見方もありうる。しかし、ぼくの経験上、二案と三案は近似的ではなく、それどころか、大きく距離を隔てた関係にあると思われる。「二、三案で」と依頼された時点で、二案か三案かをはっきりさせるべきであり、できれば二案を説得するのがいい。二案と三案は、提案動機において根本的に異なっているのである。

消極的な選択

「高度情報化」には少々古めかしい響きを感じるようになったが、相変わらず油断も隙もない現象である。あっという間に話題やニュースを次から次へと急流に乗せて記憶の彼方へと追いやってしまう。もちろん、尖閣諸島問題のようなこじれた事件は日々更新されるので、日中関係という大きな水脈でとらえることはできる。しかし、国内の政治経済的な事柄は、たとえそれがマクロ的な類であっても、喉元過ぎれば何とやらの様相を呈する。

「消極的な選択」が取りざたされてからまだ一ヵ月も経っていない。にもかかわらず、ぼくがその話を持ちかけても周囲の誰も反応しなくなった。いや、反応どころか、すっかり忘れてしまっている。はるか遠い昔の思い出ですらかすかに再生できるというのに、つい先日の一件に対して「そんな話、あったっけ?」という具合なのである。

菅直人が民主党の代表に再選されてから今日で丸三週間が過ぎた。選挙の翌日、一部の新聞が「菅直人再選は消極的な選択」と書き、この論調を真似たのかどうか知らないが、テレビの報道でも同様のコメントが繰り返された。党員もサポーターも、地方議員も国会議員も、菅直人の支持者はみんな「やむなく投票」した、という主張である。これを「小沢一郎に対する積極的な拒否の裏返し」と分析していた紙面もあった。マスコミが事前におこなった世論調査も「菅のほうがまし」という結果だったのか。


ちょっと待てよ、とぼくは立ち止まる。消極的な選択に何か問題でもあるのだろうか。ぼくたちがやむなく――場合によっては、嫌々――何事かを決めるのは、なにも民主党の代表選に限った話ではない。ぼく自身の過去の投票実態を振り返ってみれば、積極的に選択したケースは圧倒的に少ないことがわかる。選挙を棄権すべきではないと殊勝な心掛けをしているので、選挙当日に投票会場に行くか期日前に投票を済ませる。そして、ほとんどの場合、消去法的に候補者を選んできた。

考えてみれば、そんなものなのである。自分が理想とする候補者がそこらじゅうにいるわけがないのだ。市長選や知事選になれば選択肢も減る。この人でなければいかんと言い得るのは後援団体に属する熱烈なシンパだからであって、無党派であれ特定の党の支持者であれ、平均的な有権者はたいていの場合、消極的な選択をしていると思われる。「五十歩百歩だが、それなら百歩のほうを選んでおくか」という決め方がだいたいの相場なのではないか。仕事上の決断でも、そんな選択が少なくない。

腹が減ったが、時間がない。後先考えずに飛び込んだ店のランチが三種類。解凍系のコロッケ定食に旬外れの煮魚定食、それに昨日も食べた豚の生姜焼き定食。こんなとき、入った手前、Uターンして出るに出れず、不承不承席に着いて「一番悪くなさそうなランチ」を消極的に選択するではないか。実際、そんな店で「ふ~ん」とため息ついて、「コロッケ定食でいいや、、、」と注文している客が案外多いのである。明らかに積極性はない。

それで、何か都合が悪いのだろうか。ぼくたちの日々の意思決定では諸手を上げて賛成という場面のほうがむしろ少ないのだ。とびきりの高望みをしているわけではないのに、やっぱりぼくたちにはそれなりの理想像があるし、あってしかるべきだろう。その理想像にぴったりの人物や食事に頻繁に出合えるものではない。居直るつもりはないが、消極的選択でいいのである。少なくともそれは拒絶ではなく、選択なのだから。 

好き嫌いのスタンス

日常生活の大小様々な意思決定の主役が理性的判断などと言うつもりはない。もちろん服飾品にしても文房具にしても、どんなものを用いるかにあたって各人それぞれが理に適ったものを使っているはず。しかし、理性そのものが支配的であるわけがない。日々の意思決定には、好き嫌いという、本人にはきわめてわかりやすい感覚のスイッチが働く。オンかオフの行方が決まってから理性による自己説得という手順になるものだ。

とは言え、好き嫌いは不安定である。「何色が好き?」と聞かれて「白」と胸を張って答える人がいないわけではないが、何から何まで白で装うのは非現実的だ。わが国のしきたりに従えば、葬式に白ずくめはまずい。黄色のシャツが好きだからといって、男性で黄色の靴も好きという人を知らない。茶色が嫌いでも、コーヒーが好きなら茶色の液体を口に入れる。

敢えて一色ということになれば、ぼくは青色を好むが、身に着けるときはさほどではない。と言うよりも、芸能人でもあるまいし、青に執着していては日々の衣装や仕事着に困る。青を好む性向はおおむね青を基調とした風景や絵画に対してであって、カーテンや調度品が青いのは願い下げだ。但し、水性ボールペンや万年筆のインクはすべて青色である。まあ、こんなふうに何から何まで好き嫌いを貫き通せるものではない。


広告の仕事をしていた頃、あるスポンサーの部長が「ここのところは赤がいいねぇ。ぼくは赤が好きだから」と洩らした。好き嫌いの尺度である。広告のデザイン要素と絵画は少し違う。好きな絵は好き、嫌いな絵は嫌いでいいが、広告という、複数スタッフが関わって制作される企業の媒体は市場に働きかけて何らかの効果を出さねばならない。この色がいい、このコピーがいいなどと私的嗜好性だけで制作を進めるわけにはいかないのだ。全員一致の科学的根拠を踏まえよなどと言っているのではない。企業として説得や効果に関して何がしかの指標や基準があってはじめて、妥当と思われる色使いなり文章なりが決まるのである。そんな面倒なことが嫌ならば、有名デザイナーやコピーライターに丸投げすればよろしい。

禅宗に「五観ごかん」という教えがあり、その三つ目に「しんを防ぎ 過貪等とがとんとうを離るる」がある。心を正しく保ち、過った行ないを避けるために貪りの心を持たないという意味である。要するに、くだらぬ好き嫌いに拘泥するなということだ。五観の偈は「食事五観文」とも呼ばれ、特に食事に関する戒めを説く。ここで道徳的な説教を垂れるつもりはない。あれが好きだ、これは嫌いなどと食材に文句を言っているようでは、世の中生きていくうえでさぞかし数々の障害物にぶつかるだろうと思われる。なぜなら、嫌いなことが好きなことを圧倒しているからだ。

幸いにして、たしなみの頻度を別にすれば、ぼくの食の嗜好は偏っていない。出されたものはつべこべ言わずに何でも食べる。同様に、対人関係にも好き嫌いを持ち込まない。ぼくにとっては人物の好き嫌いなどよりも意見の相違のほうが関心事なのである。たとえば議論の際、好き嫌いだけで主張をされては困るが、理性の前段階に感覚というものがあって、そこに好意と嫌悪の情が介在することをぼくも認める。しかし、なぜ好きかなぜ嫌いかを説明するのは容易ではない。説明不可能なことを議論の対象にしても空しいばかりである。 

今日は会読会の日である。みんなそれぞれの気に入った書物を一冊選び読んでくる。ここまでは好き嫌いの判断でいい。しかし、その書評を仲間に公開する段になれば、理性的処理によって解説ないし啓発しなければならない。好き嫌いの次元で講評するような話に熱心に耳を傾ける気はない。好き嫌いにはコメントできぬ。これはぼくの嫌悪感の表明ではない。せっかくの書評にぼくは大いに関わりたいのである。 

ジレンマから逃れるジレンマ

発音通りなら「ディレンマ」なのだが、違和感があるのでジレンマと表記することにする。ジレンマは三段論法の一つで、両刀論法とも呼ばれる。「Pを選べばXになる。Qを選んでもXになる。選択肢はPQの二つだけ。だから、どちらを選んでもXになる」。PQの板ばさみ。進退これきわまってにっちもさっちもいかない状態を意味する。

仮にXという同じ状態にならなくてもジレンマは起こりうる。「Pをしたら罪。Qをしたら恥。罪も恥も避けねばならぬ。ならばPQも選べない」という具合。たとえば、清水の舞台から飛び降りても「バカ」だと笑われるし、引き返してきても「臆病者」と罵られるという場合。飛び降りるか引き返すかもジレンマなら、バカと臆病者ならどっちがましかという答も出ない。

どうにも決断しようがないと思われる場面であっても、外圧や強制力などが加わるので、仕事上では選択せざるをえないこともあるだろう。結果さえ問わなければ、ジレンマなど恐くも何ともないはずだ。しかし、もはや結果を選べる状況ではないからこそジレンマなのだ。なにしろすでに結果そのものが絶望的なのである。それはまるで二枚のクジがあって、どっちを引いても「アウト」と書いてあるようなもの。いや、「アウト」などという意味不明なメッセージなら恐くはないだろうが、ジレンマのクジの紙切れにはもっと不吉な未来が記されている。


それでもなお、死をも恐れなければジレンマなどへっちゃらだろう。PでもQでも目をつぶって運命にしたがう覚悟があれば、ジレンマなど簡単に無意味化できる。あるいは、「えいやっ!」と選べるならば、それはまだジレンマと呼ぶ事態ではないのだろう。ジレンマは、二者択一ゆえに苦しみを生み、しかも選択肢のマイナス因子が完全に拮抗するために、選択者を立ち往生させてしまう。ゆえに、ジレンマを迎えた時点でアウト。選択すらできずにアウト。セーフになるにはジレンマを回避するような生き方をするしかない。

いま、ここで潔く迅速に意思決定をしていれば、ジレンマと無縁でいることができる。要するに、いずれの選択をしてもゆゆしき事態にならない時点で、さっさと右か左かを決めてしまうのだ。モラトリアム人間がジレンマ状態に陥りやすいのは想像に難くない。だからぼくは、モラトリアム人間たちに「今なら成功の目がある。万が一、選択が間違っていても小さな後悔と自責で済む。先送りし続けると、二つの選択肢の結論が同じになってしまう」と助言する。わかりやすく言えば、成否の分かれ道は、一日過ぎるたびに否への一本道へと変化していく。

ジレンマを迎えてはいけないのである。ジレンマは何としてでも回避せねばならない。こう強く主張するぼくにモラトリアム人間が尋ねてくる――「どうすればジレンマを回避することができるのか?」 この問いは、さらなるアドバイスをしようとするぼくからことばを奪い、ぼく自身をジレンマの陥穽に投げ落とす。なぜなら、ジレンマを回避する切り札は「潔い迅速な意思決定」ただ一つにもかかわらず、モラトリアム人間はこの「潔い迅速な意思決定」を先送るからである。つまり、彼らは選択肢が一つしかないことをも決めないのだ。「これしかない道」を今日選ばないことによって、「どちらに行ってもダメな二つの道」を明日舗装する。これがジレンマ生成のしくみである。 

打たれ強い無難主義

先週末の私塾のテーマは『解決の手法』。そのテキストの第2話「現実、理想、解決型思考」の冒頭を次のように書き始めている。

漠然と考えたり意識が弱かったりすると、問題に気づくことなく、無難に日々を過ごしてしまう。ゆえに、そういう人は問題解決の経験が少ないため、方法を変えることもない。現代人は目先にとらわれた、単発で短期的な思考に偏重している。時代を象徴する新しい問題や状況に対して、人間らしく対応することができない。(後略)

迅速に意思決定をしたり問題解決をしたりするのは「ある種の戦闘」だと思う。もちろん戦闘には規模とリスクの大小はある。たとえば、洋服のボタンが一つ取れた程度の「マイナスの変化」を迅速な意思決定の対象とし、なおかつその変化を「ゆゆしき問題」と見なしてタックルすることはない。だが、理不尽なクレームを突きつけられたりしたら本能的に戦うべきだろうし、負けないための戦術も練らねばならない。意思決定から逃げてペンディングにしても問題は勝手に解けてはくれない。


巣立ちをして社会に飛び出すのを躊躇したり遅らせる人たちをモラトリアム人間と呼んだ時代があった(1970年代後半)。この頃に大学生をしていた連中がいま五十歳前後である。彼らがモラトリアム世代と呼ばれたフシもあったが、わが国ではいつの時代のどの世代でもモラトリアムは多数派を占めている。ぼくよりほんの三歳ほど上の団塊の世代にだってモラトリアム人間が大勢いる。世代ごとに特徴はあるのだが、日本人には無難主義の精神が備わっており、その精神はすべての世代に浸透している。

企画研修で演習をおこなう。現実離れをしてもいいから、思い切った企画案(問題解決案)を期待するが、十中八九無難に終わる。やさしいテーマと難しいテーマがあれば、ほぼ全員が前者を選ぶ。問題と向き合わない、睨み合いしない、したがって戦うことはない。まるで「かくあらねばならないという絶対的な知の法則」に支配されているかのようだ。

学校時代に一つの正解を求めなければならない難問に苦しめられたために、実社会では〈アポリア〉という、解決不可能に思える超難問を避けようとする。あらゆる妙案も打たれ強い無難主義の前では無力の烙印を押されてしまう。誰もが無難であることに気づいていないから、その無意識の強さは鉄板のごとしだ。「マイナスの変化」にプラスのエネルギーを注いでやっとプラスマイナスゼロなのに、無難主義はマイナスの大半を受容してしまう。その変化の次なる変化は次世代へと先送りされる。

「なかったことにする」処し方

先週の講演で表題の「なかったことにする」が何を意味するのかを話したら、想像以上にウケがよかった。かぶりつきに座っていたT氏は特に気に入ったようで、懇親会での中締めの挨拶でこの言い回しを使われていた。先週書いたブログでも選択肢の一つとしての「なかったことにする」という話を取り上げた。

市場分析や他社分析と言うが、いったい何に関してどれだけの情報を集めてどのように読めばいいのか。誰もその解答を持ち合わせてはいない。たとえば顧客のニーズは知りえるのか。顧客はニーズが何であるのかをことばによって第三者に伝えようとするだろう。しかし、認識しているそのニーズとそれを表現することばはほんとうに整合しているだろうか。それは誰にもわからない。ぼくたちは「辛口」とか「甘口」 と使い分けてカレーライスを注文するが、こうしたことばは人それぞれの味覚をアバウトにしか表現できていない。ゆえに、甘口を頼んだのに「意外に辛いじゃないか」という人もいれば、「想像以上に甘いなあ」という人もいる。自分が想定した甘口にぴったりはまる人はむしろ少ないかもしれない。

繰り返すが、いったい何に関してどれだけの情報を集めてどのように読めばいいのか。誰も答えることはできないが、一つだけ確実に言えるのは、期限が許すかぎり読めばいい、ということだ。裏返せば、どうあがいても期限には逆らえない。期限内に収まらなかった情報の分析は「なかったこと にする」しかない。分析できなかった情報や、マナイタに乗せたまではいいが、使いこなせなかった情報に未練を持ち続けても仕方のないことである。それは妄想だ。妄想とサヨナラする、つまり「莫妄想まくもうぞう」のためには、潔さを受容せねばならない。


原則として理性的な判断や論理的思考を尊重すべきだと思っている。しかし、永遠にそんなことばかり続けられない。ぼくたちには仕事がある。そして、所定の期限までに何がしかの成果を生み出さねばならない状況にいる。もしも意思決定が長引いて期限を脅かしはじめたら、別の処方を講じるべきではないか。世界が複雑だから単純化のために「二項対立」が生まれたのだが、さらなる単純化をしてみる。「不二ふじ」、すなわち選択を一つにしてしまうのだ。

選択すべきABの間に大きな差があれば迷いなどしない。しかし、ABが拮抗すると悩む。いずれにも捨てがたいほどの良さがあり、僅差も僅差、判断しかねて立ち往生する。ところが、冷静に考えてみれば、甲乙つけがたいのなら、どっちを選んでも同じではないか。ありきたりな言い方をすれば、一か八か天に託せばいいのである。

そう、迷いに迷ったら、思い切ってオプションの一つを消してみるのだ。三つの選択肢があったら思い切って二つ消してみる。正しく言うと、消すのではなく、はじめから「なかったことにする」というわけである。自分には一つの道しか与えられなかった、他の道をねたんだり欲しがったりしても叶わない。なぜなら、そんなものは「なかった」からである。選択肢は一つあるのみ。それを選んで潔くいい仕事をしようではないか。「なかったことにする」処し方をすると、そこにある種の運命すら強く感じるようになって、仕事にも力が入る。情報や選択肢が増えすぎてしまった時代だからこそ、「なかったことにする」という処し方が意味を持つ。 

「選択」という名の重荷

そのコマーシャルの完全版を見たような気がするが、あまり覚えていない。だが、新聞記事で見つけた。以前も紹介したが、そのニューバージョンである。

「長持ちキンチョールか、よく飛ぶジェットか。先生。おれは、どっちを選んだらええんや」
「そんなこと、どっちだっていいじゃない」
「そんな……そんな正しいだけの答えなんて、ききたないんや!」

とてもおもしろいではないか。「どっちだっていい」を正しい答えとしているのである。そして、その答えは「正しいだけ」であって、それ以外には何の価値もないと吐き捨てている。

少しニュアンスは変わるかもしれないが、誰かに麺類をご馳走するとする。「うどんにしますか、ソバにしますか?」と尋ねる。ご馳走されるほうが、「お任せします」または「どちらでも結構です」と遠慮気味に言うこともあるだろう。「うどんかソバを選ばずに、どっちでもいい」というのが正しくて、しかも正しいだけにすぎない――こういう感じなのである。


豊川悦司のこの正論にはほとほと感心する。先生といえども、二者択一は面倒なのである。いや、面倒だけではなく、責任も負わねばならないのでプレッシャーがかかるのである。これを〈選択権の負担〉と呼びたい。

二つに一つを選ぶときはもちろん、たくさんの選択肢から自由に選べる、好きなものを選べる、一番にクジを引けるなどの状況に置かれるのは、ありがたいようで、実は重荷になることがある。かつてこういうタイプの青年たちを「モラトリアム人間」と呼んだことがあった。最近ではさしずめ「草食系男子」と言うのだろうか。

定食屋に行って注文する場面。店員が先手で「Aランチにしますか、Bランチにしますか?」と聞いてきた。おおむね次のような対応がありうるだろう。

(1)  Aにします
(2)  Bにします
(3)  どちらでもいいです(お任せします)
(4)  AでもなくBでもなく、別のものにします
(5)  AとBの両方にします
(6)  すみません、帰ります

以上の6つ。こうして比較してみると、なるほど(3)が無難で「正しいだけの答え」に見えなくもない。他のすべては何らかの意思決定が働いているが、「どちらでもいいです」は選択の負担から逃げている。いや、「どちらでもいいです」というのもある種の意思決定という見方もできるかもしれない。それでもなお、その選択には保険がかかってはいないか。


提示されたものを選ばない、後で選ぶつもり、何でもいいです、お任せします――実に厄介である。選択権を放棄して逃げ道をつくる。「正しいだけの答え」を選択するくらいなら、間違っていてもいいから自己責任の取れる選択やドキッとする選択をしてみてはどうだろう。