もう一つの読書

日経「あすへの話題」.jpg怠けてしまって読書会を10ヵ月近く主宰していない。名前を連ねてくれている20名近くのメンバーには申し訳ないと思っている。しかし、誰も何も言ってこない。遠慮しているのか、忘れてしまったのか、もう熱が冷めてしまったのか……真相はわからない。

この読書会は「書評会」もしくは「会読会」と呼ぶにふさわしい性格のものである。会読会にはみんなが同じ本を読むニュアンスがあるが、自分で選んだ本を読み、それについてA4一枚程度に書評をしたためて発表するという勉強会だ。出席するとなれば、必ず読まねばならない。よほどの読書家でないかぎり、このような動機づけがないと読書は長続きしないし、集中して読むこともできない。

決してそんな素振りをしたことはないが、ぼくは読書家だと思われている。思ってもらって結構だが、相当なまくらに読むタイプである。一冊の本を隅から隅まで読んでも、書いてあることなど覚えることは不可能である。読書はそんな、誰かの知を自分に移植するような作業ではない。だから、拾い読みして触発されることに重きを置く。ページに書かれていることをヒントや触媒と見なして、そこから自分なりに推論を働かせて考えるようにしている。読書をして知識を身につけるのではなく、読書しながら考えるというわけだ。
本をしっかりと読むことを否定しない。それも重要である。しかし、読書を思考の源泉と考えるのであれば、この写真のように切り抜きを1ヵ月分ほど束ねて、フラッシュバック的に次から次へと異なったテーマを迅速に読みこなしていく方法もありうる。写真は日本経済新聞の『あすへの話題』。別に他紙のものでもいい。スタッフがぼくのために切り抜いてくれるので、30枚ホッチキスでとめて、一気に読む。一枚が原稿用紙二枚弱、新書版に換算すれば40ページ程度だ。半時間あれば30のテーマに触れることができる。
1テーマ1冊数時間」という集中的線的精読もあれば、新聞の切り抜きを束ねて読む「30テーマ30分」という集合的断片的多読もありうる。時には荒行のような読書をして脳の回路を活性化することが必要だろう。

問いの意味と意図

先週の書評会では『足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想』という本を取り上げた。その中に『「問い」と「なぞなぞ」』という随想があり、次のようなくだりが興味を惹いた。

「問い」の意味は分かっていて、その「答え」を求めるというのが、普通の「問い」の場面である。しかし、なぞなぞの方は、まず「問い」が何を聞こうとしているのかが、よく分からない。いや正確に言うと、「問い」の表面的な意味(字義通りの意味)は分かるのだが、それがさらに何を意味しているのかが、よく分からない。意味の意味が不明なのである。なぞなぞでは、「答え」を探す前に、まず「問い」の意味を考えてみる必要がある。

発した問い自体がよくわからないというのは、なぞなぞにかぎった話ではない。問うている本人自身が何を聞いているのかをよくわかっていない――そんなことはよくある。なぞなぞでは答える側が問いの意味を出題者に聞くことはめったにないだろうが、ふだんの生活や仕事では「意味不明な問い」に義務的に答える必要はなく、意味がわかるまで聞き返すなどして確認すればいい。

意味と同等に大事なのは、問いの意図だろうと考える。問いの意味はわかる。しかし、意表を衝かれてうろたえたり、瞬時に動機がわかりかねる。そんなとき「この人、なぜこのことを問うているのだろうか?」と一考してみるべきだと思う。ついつい反射的に答えを出そうとしてしまうのは、問われたら答えるという幼児期からの学習癖のせいか、あるいは即答によって賢さと成熟を誇示しようとするせいか。問いの意味と意図の両方がわかるまで、問いへの答えを安受けしてはいけない。


ギリシア神話に出てくる巨躯のアトラス。両腕と頭で天空を支える図を見たことがあるかもしれない。戦いに敗れたアトラスがゼウスによって苦痛に満ちた罰を与えられる。世界の西の果てで蒼穹そうきゅうを支え続けなければならないのである。経緯はともかく、アトラスがそういう状況にあることを想像していただこう。そこで、次なる、別の本からの引用。

「アトラスが世界を支えているのなら、何がアトラスを支えているの?」
「アトラスは亀の背中の上に立っているのさ」
「でも、その亀は何の上に立っているの?」
「別の亀だよ」
「それじゃ、その別の亀は何の上にいるの?」
「あのね、どこまでもずっと亀がいるんだよ!

この話はぼくがアメリカで買ってきた本の冒頭に出てくる。「アキレスと亀」は有名な話だが、これは「アトラスと亀」なのでお間違いなく。ギリシア神話ゆかりのアトラスを引っ張り出して、ここに世界を支える亀を登場させると、なんだかインドの宇宙観に近いものを感じてしまう。

それはさておき、問いには答えられないものや上記の例のようにキリのないものもある。「何が支えているか?」「何の上に立っているか?」などは意味がとてもわかりやすい質問だ。だからと言って、真摯に必死で答えていくと、このやりとりは応答側に天空の重さの負荷をかけてしまうことになる。けれども、問いの意図を推し量れば、若干の好奇心に動かされた程度のものか、または、無理を承知のお茶目な悪戯心のいずれかだと値踏みできる。意図を見極めておきさえすれば、やがて答えの風呂敷を畳める。上記の例に一応の終止符を打つには、「亀がずっと続く」とするしかなかったに違いない。

問答が延々と続く「無限回帰」とも呼べる作業を、哲学の世界では古来からおこなってきたし、現在に生きるぼくたちもそんな状況に陥ることがよくある。だが、趣味ならばともかく、仕事にあってはいつまでも問いと答えを続けるわけにはいかない。どこかで問いを打ち切らねばならないのだ。この打ち切りを別名「潔さ」とか「粋」と呼ぶ。「どこまでもずっと亀がいるんだよ!」と答えるのもいいが、「アトラスの下に亀がいて、その下にも亀がいると答えた。もうそれで十分ではないか。それ以上問うのは野暮というもんだ」と答えてもいいのである。    

熟年の敵は億劫にあり

面倒臭いに邪魔臭い。仕事が煩雑になればなるほど、あるいは自宅の整頓が乱れるほど、立ち向かおうとする動きが鈍る。億劫。もともと「長時間かかるためすぐにできないこと」を意味する。ご存知の通り、手足を動かすことや頭を働かせることが面倒になり、何もできない、何もしたくないという気分のことだ。

中年や熟年の定義はさておき、50――場合によっては40――を前にして体調異変に陥っている人が最近やたらに目立つ。あまり養生していないからと言えばそれまで。それを差し引いても、ちょっとしたことで風邪を引いたり腰を痛めたりしているのだ。そこまでの体調不良ではないが、ぼくもしっくりいかないことがよくある。だが、そこはまあ、ぼくの場合はあと2年で還暦ということを考えれば、まずまず健康なほうだと思う。

老成した人物の目線のようになるのを恐れずに言えば、億劫にならないことが仕事と生活の要諦をとらえていると思う。年齢相応に仕事や生活を変えるのを厭ってはいけないのだ。たとえば、これまでの食習慣を変えてみる、とりわけ午後8時以降の食事を避ける。やむなくそうするときは腹八分目にする。あるいは若い頃と違う酒の飲み方にシフトする。そのためには人付き合いのパターンも変えねばならない。億劫がらずに、とにかく変化する。


熟年になったからこそ、仕事を迅速にこなす。うだうだくどくど御託を並べずにさっさと何事かに着手する。決して慎重さを優先させてはいけない。慎重さが極まると面倒臭くなるものだ。スーツや靴の買物に迷っているうちに、「今日のところは、やめておくか」となることがよくあるはず。ぼくの場合、講演レジュメや研修テキストを書く機会が多いが、下手な考えに没頭するよりもとりあえず一語でも一行でも書き始めるようにしている。タイミングを逸すると億劫虫が這い始めるからだ。

億劫になってスロースタートを切ると時間が切迫してきて、マメさが消えてくる。きめ細やかどころではなくなってくる。もちろん、あと一つ凝ってみようという気も失せる。こうなると、ミスは増えるわ疲れは溜まるわ脳が働かないわと、すべて情けない連鎖を誘発する。

熟年を生物的年齢で示すことなどできない。熟年を表す単位は「億劫度」なのである。「面倒臭い、邪魔臭い」と一日に何回つぶやき、何回そう感じるかが億劫度であり、億劫度が大きいほど加齢が進んでいると考えてよい。「細かいことはどうでもいい」と言い出したら要注意の兆候。そんな連中は20代、30代にして熟年ゾーンに足を踏み入れている。

今日の午後6時、隔月開催ペースの書評会がある。これぞという本を読んでレジュメを作って一人ずつ書評する。根気もいるし神経も使う「面倒臭い勉強会」だ。しかし、メンバーは大いに楽しんでいる。ぼくも含めて生物的熟年世代が何人かいるが、億劫虫という敵の封じ込めに成功しているようである。

過去は現在に選ばれる

塾生のT氏が、「過去と未来」についてブログに書いていた。この主張に同感したり異論を唱えたりする前に、まったく偶然なのだが、このテーマについてアメリカにいた先週と先々週、実はずっと考え続けていたのである。明日の夕刻の書評会で「哲学随想」の本を取り上げるのだが、これまた偶然なことに、その本にも「過去と未来、そして現実と仮想」というエッセイが収められている(この本は帰国途上の機中で読んだ)。

未来とは何かを考え始めるとアタマがすぐに降参してしまう。T氏のブログでは「未来は今の延長線上」になっているが、仮にそうだとしても、その延長線は一本とはかぎらない。未来は確定していないのだから(少なくともぼくはそういう考え方をする)、現在における選択によって決まってくるだろう。その選択のしかたというのは、それまでの生き方と異なる強引なものかもしれないし、過去から親しんできた、無難で「道なり的な」方法かもしれない。未来はよくわからない。だからこそ、人は今を生きていけるとも言える。

では、過去はどうだろうか。カリフォルニア滞在中に学生時代に打ち込んだ英語の独学の日々を再生していた。その思い出は、アメリカに関するおびただしい本やアメリカ人との会話を彷彿させた。もちろん何から何まで浮かんできたわけではない。過去として認識できる事柄はごくわずかな部分にすぎない。しかし、なぜあることに関しては過去の心象風景として思い浮かべ、それ以外のことを過去として扱わないのか。ぼくにとっての過去とは、実在した過去の総体なのではなく、現在のぼくが選んでいる部分的な過去なのである。


現在まで途切れずに継承してきた歴史や伝統が、過去に存在した歴史や伝統になっている。現在――その時々の時代――が選ばなかった歴史や伝統は、過去のリストから除外され知られざる存在になっている。別の例を見てみよう。自分の父母を十代前まで遡れば、2の十乗、すなわち1,024人の直系先祖が理論上存在したはずである。だが、ぼくたちは都合よく「一番出来のいい十代前の父や母」を祖先と見なす。ろくでなしがいたとしても、そっち方面の先祖は見て見ぬ振りしたり「いなかった」ことにする。自分を誰々の十代目だと身を明かす時、それは過去から千分の一を切り取ったものにすぎない。

過去の延長線上に現在があって、現在の延長線上に未来がある――たしかにそうなのだが、それはあくまでも時間概念上の解釈である。タイムマシンは無理かもしれないが、人は過去と現在と未来を同時に行き来して考えることはできる。生きてきた過去をすべて引きずって現在に至ったのかもしれないが、その現在から振り返るのは決してすべての過去ではない。現在が規定している「一部の過去」であり、場合によっては「都合のよい過去」かもしれない。

過去のうちのどの価値を認めて、今に取り込むか。どの過去を今の自分の拠り所にするのか――まさにこの選択こそが現在の生き方を反映するのに違いない。現在が過去を選ぶ。この考え方を敷衍していくと、未来が現在を選ぶとも言えるかもしれない。こんな明日にしたいと描くからこそ、今日の行動を選べているのではないか。いずれにしても、現在にあって選択の自由があることが幸せというものだろう。 

レオナルド・ダ・ヴィンチを語る

一昨日の夕方、熱気あふれる書評輪講会を主宰した。数えて3回目。今回は10人が参加した。語ることばや想いから熱気はほとばしったが、テーブルからも立ち上がった。と言うのも、場所が鉄板焼の店だったからである。今回は書評会と食事会を同じ場所で開催した次第だ。

一応6月まで続ける予定で1月から始めた。そのうち一度はルネサンスがらみの書物を書評するつもりにしていた。ルネサンス全般を取り上げると持ち時間10分や15分ではきつい。そこで、さほど思案することなく人物をテーマに選び、さも必然のようにレオナルド・ダ・ヴィンチに落ち着いた。そこから先で少し迷った。最近読んだ『モナ・リザの罠』(西岡文彦)にするか、『君はレオナルド・ダ・ヴィンチを知っているか』(布施英利)にするか、はたまただいぶ前に読んだレオナルド本人の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』にするか……。

結果的に『君は・・・』を取り上げることにした。レオナルドに関する知識の少ない人には、著者の言わんとすることがよく伝わりそうな気がしたからである。宇宙をかいま見た男、宇宙マクロコスモス人体ミクロコスモスを関係づけ対応させた話、生前は音楽家としての名声のほうが画家よりも上だったというエピソードなどは興味をそそる。


中高生の頃に絵画に打ち込んだ時期があって、何もわからぬままレオナルドやルネサンス期の絵画に魅せられた。とりわけ輪郭線を引かずに絵の具の明暗のコントラストだけで描いてみせる〈スフマート技法〉には目を見張った。何年か前に水彩で試みたが、人に見てもらえる出来上がりにはほど遠い。

レオナルド自身の手記を読めばわかるが、絵画技法にとどまらず、この天才は新しいテーマを次々と追究していった。手記の冒頭にはこう書かれている。

先人たちはことごとく有用な主題を選んでしまった、だから自分に残されたのは市場の値打ちのない余りものみたいなテーマばかりだ、だが、それらを引き取って何とかしてみよう。

ニッチ志向に到った趣旨が書かれている。シニカルな謙遜であり孤高の精神が滲み出る。

文章の切れ味にもこれまた感心させられる。哲学的メッセージあり、斬新なアイデアあり、鋭い視点あり。しかも、ほとんどが自信を漲らせた断定調なのだ。拾い出すとキリがないが、ぼくを反省させ、しかるべき後に心強くしてくれた箴言が二つある。その一つ。

権威を引いて論ずるものは才能にあらず。

若い頃、引用文だらけの書物にコンプレックスを抱いたものだった。「よくもこれだけ調べたものだ」と感心し、根拠のない自分の勝手気まま思考を責めたりもした。しかしだ、「偉い誰々がこう言っている」などという引用そのものは、努力と熱意ではあるだろうが、才能なんぞではない――レオナルドはこう言ってくれているのである。そんなことよりも自力で考えて論じなさいと励ます。

もう一つの章句もこれと連動する。

想像力は諸感覚の手綱である。

きみはいろいろ見聞したり触ったりするだろうが、そうして感知する物事や状態の大きさ、形、色や味、匂いや音・声などをつかさどっているのがイマジネーションなんだ、それなくしてはきみの感覚なんてうまく機能しないぞ、というふうにぼくは解釈している。観察や体験なども想像力でうまくコントロールしないと功を奏さない。ぼくが企画の研修のプロローグで想像力や発想についてかたくなに語り続けるのは、このことばが大きな後押しになっているからだ。なお、ぼくが出会った経験至上主義者で想像力が逞しかった人は一人もいない。

満悦厳禁。レオナルド・ダ・ヴィンチという権威を引いても、これはゆめゆめ才能ではない。いや、もしかしたら、天才レオナルドならこう言うかもしれない。「わしをそこらに五万といる権威と同じにせんでくれ。わしが綴ったことばで使えるものがあれば何でも使ってくれたらいい。五百年後もまだ光が失せていないのなら……」。 

大差のようで僅差、僅差のようで大差

今週金曜日に第2回の書評会がある。残念ながら、ぼくが取り上げた本の書名は現時点で公開できない。少しだけ紹介すると、「350万冊の蔵書がある図書館」の話が出てくるくだりがある(ちなみに国会図書館はこの倍数あるそうだ。拙著の二冊も収めてくれているらしい)。今日は、この図書館の話から触発されたぼくの連想を綴ることにする。

この天文学的な蔵書数を分母に見立ててみる。一冊読んだ時点で350万分のの知を得るというわけだ。奇跡的な一日一冊という超人的読書家は想定しない(だいたい超人なら本など読まなくていいだろう)。現実的に考えると、週に一冊読む人は熱心な読書家であり、しかもしっかりと精読している可能性すらある。年に50冊を70年間続けると、生涯読破本は3500冊になる。これは驚嘆してもいい数字だと思う。さて、もう一人想定しておく。読書はあまり好きではないが、年に一冊くらいなら読むという人。読書人生70年として70冊になる。

偶然にして暗算可能な数字になったが、念のために電卓ではじいてみる。読書家は当該図書館の蔵書の0.1パーセントの知を獲得した。もう一方のあまり読まない人で0.002パーセントである。少々乱暴だが、小数点以下切り捨てなんてことを適用すると、いずれもゼロになってしまう。図書館をビュッフェスタイルのホテルレストランにたとえれば、世界各国から選りすぐった百種類の料理を出したところ、二人とも一種類の料理の匂いだけを嗅いだだけだった――そんな感じである。二人に歴然とした差はない。森羅万象の知の前では、よく読んでもあまり読まなくても同じようなものなのだ。


すべての人類は、ありとあらゆる書物に対して「ほとんど非読・未読の状態」に置かれている。みんな「読んだ」とは言うが、まさか「読んでいない」とは吹聴しないだろう。生涯、万巻の書など読めやしないのである。知というものは、よく究めても全知のパーセントにも満たない。そういう意味では、人間はみんなそのパーセント未満の知の世界にあって僅差でしのぎ合い折り合っているのだ。格差社会とは無縁の、平等な世界に見えないこともない。

しかしながら、察しの通り、以上は都合のよい推論である。実社会では僅差のような知の格差が大差となって表れる。なぜだかわかるだろうか。上記の3500冊氏と70冊君を比較する時、わざわざ分母を350万冊にする必然性などない。つまり、二人とも読んでいない大多数の書物について両者は知の多寡を競うことなどできないのだ。両者の読んだ本が重複してようがしてまいが、3500冊氏が圧倒的優位に立っていることは容易に想像できる。

神や観音や天才を引き合いに出したら、みんな同じ知力になるだろう。この視点では、「知っていること」と「知らないこと」は大差なようで僅差なのだと謙虚に自覚しておく。しかし、現実は二人なりグループなりの、当面のメンバー間での「知っていると知らない」が尺度になる。そこでは、紙一重が知らず知らずのうちに大差になってくる。小さな知識をゆめゆめバカにしてはいけないと、これも謙虚に自覚しておく。言うまでもなく、無知のままではいずれの謙虚な自覚にも到ることはできないだろう。

本読みにまつわる雑感

初回の書評会が終わって、大いに成果のある試みだったと評価している。同じ本を読んで「同感、同感」と納得するのではなく、みんなが違う本を読んで臨むのがミソである。書評会の後の食事会でも軽く質問したりジャブを打ち合うとさらにおもしろい。

準備のために、本を買い、本を読み、本を選び、抜き書きし、まとめたり再編したりし、検証し、書評を書く。これだけの作業がある上に、当日に発表し、他人の書評に耳を傾け、書物間に対角線を引く……。まあ、思いつくだけでこのくらいの多彩な知的活動が伴うわけだ。ある意味、仕事より負荷がかかる。自分が選んだ一冊の書評開示もさることながら、他に6冊の書評を吟味する。わずか2時間。これは高密度な脳活性であると同時に、とても効率のよい啓発機会なのではないか。

口頭説明としては大阪の地名について書評したK氏がすぐれていたが、書評会は話術の会ではない。読書の内容と所感を書いてプレゼンテーションすることに意義がある。ペーパーに記録が残っているから、評者さえ間違いなく引用して的確にコメントしてくれていたら、そのまま使えるし、いかにもその本を読んだかのように振る舞うこともできる。

K氏の話はおもしろかったが、一ヵ月後には忘れてしまっているかもしれない。だが、よき教訓になった。ぼくは、研修でも講演でも配付資料・掲示資料ともに質量両面で充実させ、つねに最新の話題を盛り込んで刷新するよう努めている。だが、時間との格闘に疲れ果てると、資料を一切使わずに「喋りオンリー」でやってみたいと思うことが時折りある。実際、そういう時代もあったし、今でもやればできると思っている。しかし、聴きっぱなしはやっぱり効果に乏しいのである。一回きりでは深い記憶領域まで情報は届かないのだ。後日資料を振り返ることによって刷り込みが可能になる。K氏の愉快でわかりやすい話しぶりは、逆説的に言えば、かなりアタマのいい聞き手かメモ魔によってのみ成立するのである。


読書にまつわるおびただしい格言がある。手元の名言・格言辞典を覗いてみた。思想的背景とは無関係にことばだけ拾うので、誰の弁かは伏せておく。

読書は量ではなく、役に立つように読むことが問題である
本はくまなく読んでも不十分で、読んだことを消化するのが必要である

そうそう、教養だけでなく、どこかで活用しようと企んでいるのならば、自分の不足を埋めるように読まねばならない。

君の読む本を言いたまえ、君の人柄を言おう

読書好きの知人も同じようなことを言っていた。「誰かのオフィスに行くだろ。応接室か会議室に通される。書棚の背表紙をざっと見れば、思想から性格まで見通せるよ」。同感である。但し、書棚を埋め尽くしている書物は複数の人間が読んだものを並べているかもしれないので、勇み足をしないよう。

書物から学ぶよりも、人間から学ぶことが必要である。
新しい書物の最も不都合な点は、古い書物を読むのを妨げることだ。

上記は書物に対する批判的な教えである。ぼくは常々「人は人からもっとも多くを学ぶ」と思っているので、前者に賛成である。ただ、人からの学びは偏愛や畏敬の念をベースにすることがあるので、幅広く書物を読んで偏りを是正することも必要だ。後者は、目先のベストセラーや話題・時事を追いかけすぎて、読もう読もうと思っている古典に親しめないということ。最近は痛切にそう感じている。