熟成一年のノート

少数ながら、本ブログをフォローしてくれている研修受講生がいる。ほとんどの人とは一期一会だが、縁をきっかけにしてぼくの小さなテーマを何かの足しにしてもらえるのはありがたい。書き綴る内容は「思いつき」がほとんどだ。それでも、行き当たりばったりではない。思いついて考えたことをノートに書いているから、ほんのわずかな時間でも熟成はさせている。その日のことを取り上げても、紙のノート経由でこのオカノノートに至っている。

気まぐれに過去のノートをペラペラとめくる。現在取り組んでいる研修や私塾での話のネタ探しである。自分が書いたノートだから、詳細はともかく、ほとんど覚えている。なにしろ短時間でも熟成させてから読み直しているからだ。しかし、思いついてすぐに書きとめ、そのままにしておいて一年でも過ぎてしまうと、「こんなことを書いたかな?」という事態が発生する。一年という熟成期間のうちに、味がまったく変わってしまっている場合もある。


ほとんど記憶外であったが、昨年の85日に「みんなの党」について書いている(この日付の以前にも「みんな」という党名について難癖をつけたのだが、いつ頃どのノートに書いたのかはわからない)。今般の参院選挙で大躍進した党だ、その党についての何をメモしていたのだろうかと少々わくわくしながら読んでみた。次のように書いてある(原文のまま)。

みんなの党。政党にこのネーミングがありえるのだから、何にでも「みんな」を付ければいい。みんなの会社(という社名)、みんなの広場(という広場の名称)、みんなの電車(という各駅停車)……。「みんなのみんな」などは哲学的な響きさえする。最大多数の最大幸福? 一人残らず「みんな」? 万人を前提にしているからと言って正解でもないだろう。マーケティングでは不特定多数を対象にする戦略はだいたい失敗に終わる。しかし、もしかすると、ぼんやりとした、サークル活動のようなこの名称によって、民主や自民のいずれにもない、「何となく感が漂う不思議な魅力」を無党派層にアピールすることになるかもしれない。ことばは力である。サークルの名称のようだからこそ、大それた動機でなくても集まりやすいということがありうる。

先日の結果はこの通りとなった。別に己の洞察力を自慢しているわけではない。この程度の推論なら、昨今のリーダーシップ不在、信の不在を凝視したら、容易に導くことはできるだろう。そして、おもしろいことに、比例代表に関しては、有権者はみんなの党の候補者みんなに投じたのである。なんと個人名得票の10倍もの政党名得票を達成したのだ。これは、ほとんど共産党の比率に等しい。これが何を意味するか、今日のところはアナロジーを急ぐことはないだろう。

政党名を書くのと個人名を書くのは、同じ党を支持するにしても、有権者の動機なり党主導の戦略なりは異なっている。民主党は政党名が個人名の3倍強、自民党もほぼ3倍。ところが公明党は政党名得票が個人名得票を下回っている。有権者の裁量任せならこうはならないから、党戦略が支持者に広く浸透した結果に違いない。

政治の話がテーマではなかった。一年の熟成期間を経たノートの話である。A地点とB地点に立てば異なった眺望が得られる。情報Aと情報Bを同時に見れば何らかの複合価値に気づくかもしれない。同じテーマでも時期Aと時期Bのような時間差があれば、少しでも線的思考が可能になる。やっぱり書いたノートは読み返さなくてはならない。それは記憶の底に沈殿してしまった気づきや考えを攪拌することでもある。

結果論から学習すべきこと

有名タレントを起用してさんざんコマーシャルを流してきたけれど、今期にかぎって言えば、ほぼすべての有力家電メーカーは赤字計上することになる。テレビ画面の美しさを訴求してきたカリスマロック歌手もカリスマ美人女優も、コマーシャルメッセージがここまで色褪せるとは想像しなかっただろう。変調経済は因果関係を狂わせる。

「しこたま金をつぎ込んでバカらしい。タレントのコマーシャル効果について見直すべきだ。企業は大手広告代理店に踊らされている」という具合に、結果論を繰り出すのは簡単である。言うまでもなく、結果論とは原因を無視することだ。なぜそうなったのかを棚上げにして、いま目の前にある現実のみを議論する。因果関係の「因」を無視して「果」のみを、すごいだとかダメだとか論うのである。

結果論は楽な論法である。「結果論で言うのじゃないけれど、金本は敬遠すべきだったねぇ」とプロ野球解説者がのたまう――あれが結果論。人は結果論を語るとき、「結果論ではないけれど」と断る習性を見せる。


結果論から言えば、タレントに巨額のコストをかけてもムダだったということになる。くどいのを承知で繰り返すと、原因と結果の関係を無視して結果だけを見るならば、大物歌手も大物俳優も宣伝効果がなかったことになる。こうした結果論がまずいのならば、いったいどんなすぐれた別の方法がありうるのかをぜひ知りたいものである。結果論で裁かれるのもやむなしだ。

ぼくは大企業、中堅、中小企業のすべての規模の企業に対して、広告やマーケティングや販売促進の仕事をしてきた(話を簡単にするために、まとめて粗っぽく「広告」と呼ぶ)。景気の良い時も悪い時も、つねに感じていたことが一つある。それは、広告費は効果とは無関係に膨らむということだ。「消費者への情報伝達機能」としてすぐれた広告にするための知恵は投資に見合う。それ以外はすべてコストなのである。

知名度が導入時や一時的な客寄せパンダ効果につながることは認める。しかし、よくよく考えてみれば、知名度を利用する広告ほど知恵のいらないものはない。ほんとうの広告の知恵とは、無名タレントで有名タレント効果を生み出すことであり、極力コストを抑えて広告費を消費者に押し付けないことなのだ。有名タレントのギャラの十分の一、いや百分の一の費用で編み出せるアイデアはいくらでもある。

結果論による批判を真摯に受け止めようではないか。かつての「負けに不思議の負けなし」にすら疑問を投げ掛けねばならなくなった時代だ。そう「勝ちも負けも不思議だらけ」。人類の洞察力の危うさが問われている。結果論から学習すべきこと――それは、いつの時代も、知恵でできる可能性を一番に探ることなのである。