私家版食性論(上)―何を食べるのか

食材を浪費し調理されたものを廃棄するなどもってのほか。注文したものを食べ残し、注文されもしないものを作り置きすることにはやむをえない事情もあるだろう。だが、できれば避けるべき、恥ずべき行為だと自覚しておきたい。そもそも賛否を問うようなテーマではない。

さて、食べるということに関して、ぼくは両極の間でつねに揺れ動いてきた。一方で、つべこべ言わずに何でも食べるべしと考え、他方、旬のものだけを食べていればよしとも思っている。このような二律背反に直面するたびに〈食性〉ということばがアタマをよぎる。食性とは、人間および動物全般に見られる食べ物の性向のことである。食材を広げるのか狭めるのか……どちらを選ぶかによって何を食べるのかが決まるが、文明以前の人類にとっては選択の余地などあるはずもなかった。生き延びるために環境適応を最優先した。環境要件のうち食風土が第一決定因であり、まさに「foodフードこそ風土」だったのである。

ところが、文明の萌芽とともに地域どうしの交流が始まると、目新しい食材で胃袋を満たすようになり、かつて固有の風土によって制限されていた食性が広がるようになった。たとえばローマ時代の富裕層の食卓は、わざわざ食す必要もない珍奇なゲテモノで彩られた。現代に生きるぼくたちも、固有種以外の食材や料理を日々堪能し、本来の食性を大きく変えている。さて今日は何を食べようかと、のべつまくなしに箸やフォークが迷っている。


炭火焼きウルテ.jpg写真は、炭火で「ウルテ」を焼いているシーンだ。焼肉店でこれを注文する人はぼくの回りに多くはいないが、好きな人はこの一品を欠かさない。ウルテとは牛の喉の軟骨。鶏の軟骨よりも硬いから、あらかじめ細かく包丁を入れてある。切れ目はタテ・ヨコに入っており、片面に焦げ目が付いた頃にひっくり返すと網に軟骨の粒がくっつく。漬けていたタレが切れ目に浸み込み香ばしく、独特の歯ごたえがある。もちろん、こんなものを食べなくても人は生きていける。わざわざ好んで食べることもない。ロースばかり食べる人もいれば、ホルモンにこだわる人もいる。牛の部位に限っても、人には人の食性があるのだ。

「動物の世界に目を移してみると、モグラは昆虫を食べ、ウシやヒツジは草を食べ、オオカミやライオンは肉を食べる。食べるものの種類は極めて少ないわけだが、これらの動物を偏食だという人はいない。どの動物も、”ある一定の食物を食べる性質”があるのだ。それを”食性”という。それぞれの動物によって食性が異なるように、人間もまたさまざまだ」(『粗食のすすめ』)。

著者の幕内秀夫はこう言って、それぞれの民族が偏食していると結論する。もっとも、偏食は偏食でも風土という自然に則したもので、単なる好き嫌いなどではない。

おおむね玄米と味噌と少しの野菜と近海の魚で生命を維持してきた日本人は、文明開化以降、望めば世界中の食材を手に入れられるようになった。何を食べるかという選択肢は間違いなく増えた。けれども、選択肢に比例して何でも食べるぼくのような広食性人間もいれば、かたくなに食性を限定的に維持している狭食性人間もいる。ぼくが広食性なのは単純な理由で、食べ物にあまりエゴイズムを持ち込みたくないということに尽きる。

一つだけ確実に言えることがある。旬を中心とした摂理ある食性は、好き嫌いによって形成された食性とはまったく別物だということだ。 

〈続く〉

“Fixed match”

時事的には少々旬が外れたが、ちょうどよい振り返り頃ではある。英字新聞には ” fought a fixed match with (against) ……” などと表現されている。他に “fixed game” という言い方もあるし、レースなら “fixed race” と呼ぶ。スポーツ全般、古今東西で存在してきたのが、この “fixing” という行為である。英語で表現すると何だかスマートに見えてしまうが、ずばり「八百長」のことだ。八百長は八百屋と囲碁に由来するが、子細は省く。

昭和30年代のスポーツと言えば、大相撲にプロレスにプロ野球だった。大阪市内の「ディープな下町」で8歳育ったが、当時町内でテレビを置いていたのは金物屋の爺さんの家だけだった。爺さんは大の相撲好きで、足の踏み場もないほど隣近所を集めては一緒に観戦するのだった。場所中は連日の十五日間、人が集まった。サラリーマン家庭が少なかった地域だったから、夕刻の早い時間でもテレビの前にやって来れたのだろう。駆けつけるのが遅いと玄関から遠目に見なければならなかった。

今にして思えば、爺さんたちはぼくたちにわからぬよう賭けていたのかもしれない。それはともかく、千秋楽の日には、力士のどちらが勝つかよく当てていたものだ。自前の星取り表を見ては、「七勝七敗のこっちが八勝六敗のあっちに勝つ」などと一番前に予想する。時には「この二人は同部屋みたいなもんだからな」とも言っていた。最近の千秋楽もそうらしいが、当時も、勝ち越しのかかった力士が大負けしている相手や優勝争いから脱落しているが星のいい相手に見事に勝つケースが多かった。子どもだったが、何かがありそうなことに薄々気付いていた。


「フィックスされたマッチ」とは、戦う前から結果が仕組まれている試合のことだ。「出来レース」とも言う。八百長に語弊があるのなら、単純に「出来」と呼んでおこう。閉じた勝負事の世界に出来はある。『侠客と角力』という本にも博打と相撲世界での出来について書いてある。出来はある意味で環境適応の本能かもしれないと思う。15歳やそこらでその道に入り、世間一般とは異なるルールやしきたりを刷り込まれる。当然、適応のための知恵もつく。ルールの中に反社会的な要素があることに気付くためには、入門前に社会の常識をわきまえておかねばならない。天秤の一方の台座に「世間の常識」、他方の台座に「土俵の常識」を載せれば、ふつうは世間の常識が重いはずだが、あいにくそちらの台座が空っぽだから、つねに土俵の常識(=社会の非常識)側に天秤が傾くのである。

ところで、強者がこの一番でどうしても勝ちたい時、通常の力関係で勝てそうな相手にわざわざ大枚をはたいて負けてもらう必要があるのだろうか。ふつうに考えればありそうにない。大人が幼児に小遣いを渡して腕相撲をすることはないのである。だが、万が一に備えて、念には念を入れて、優勝や昇進のかかった大一番では出来が仕組まれることもあながち否定できない。

「もし大相撲がなくなったら……」と聞かれたら、「そりゃ困るよ」と言うほど身近だった時代があったし、誰もが熱狂した時代があった。しかし、時代は変わった。スポーツは多様に人気が分布し、スポーツ以外のエンタテインメントも何でもありだ。文化や伝統を盾にしても、相撲でなければならない理由は見当たらないのである。消失して困る人よりも困らない人のほうが多くなれば、やがて慈悲に満ちた救済の声も消え入るだろう。人気とはよく言ったもので、対象を取り巻く人の気が弱まれば対象の存在価値も失せるのである。

さあ、どうする、大相撲? 階級制にするのか、部屋を解体するのか、ハンデ戦にするのか。あくまでもスポーツとしての道へ向かうのなら、儀式性や旧態依然としたしきたりと決別しなければならないだろう。いやいや、伝統的芸能ないしは興行的見世物としての要素も残すのか。いま、こんなふうに問うても、論争の対象にすらならないほどの死に体なのかもしれない。どうやら「業界の、業界による、業界のための存在」が最善の選択になりそうである。