ほっと一息の、その直後

明日からの一週間は断続的に出張、ほとんどオフィスに顔を出さない。仕事柄、もともと夏休みはあってないようなもので、今年も楽しく仕事三昧している。いま「楽しく」と書いたが、少々やせ我慢しているかもしれない。ひとまず「ねばならないこと」はやり終えたし、今月いっぱいの仕事のメドもついた。というわけで、ほっと一息ついている。しかしながら、経験上、このような安心感は曲者だ。ほっとした瞬間から、妙なことに胃のあたりが少々キリキリし始めた。つい半時間ほど前までは何ともなかったのに……。

ところで、企画を指導していると、初心者が選ぶテーマによく「安心」ということばが登場する。危機管理の世相を反映しているのかどうかわからないが、たとえば核家族化時代の家庭のキーワードに「安心」「安全」が使われる。受講生の企画内容にはいっさい立ち入らないが、助言やヒントは授ける。あるとき、「あくまでもぼくの主観だけれど、安心、安全ときたら、もう一つ加えて『三安』にしてみたら?」と言ったことがある。軽い気持ちだったが、そのグループはえらく真剣に受け止めて、あと一つの「安」を探すのに必死になった。

安寧あんねいはどうかと聞いてきたが、「それはちょっと。安心、安全と並べるには違和感がある」と答えた。安堵、安眠、安産まで捻り出したが、時間も迫ってきたので、結局彼らは「安息」で手を打った。ちなみに、安心は気持ちや気分の落ち着き、安全は生命が事故・災害におびやかされないこと、安息は、やや宗教めくが、リラックスしている状態というニュアンスだ。


これをきっっかけにして、特に安心と安全という用語の使い方を注視してきたが、頻繁にセットで使われ、場合によっては平然と互換されることに気づく。ちょっと待てよ、安心と安全に意味の重なる部分などないのではないか。数冊の辞書に目を通してみたが、安心は個人的・精神的な概念であり、安全は社会的・身体的な概念のはずである。

「安全神話」ということばが示す通り、「安全です」と宣言されれば安心感は強まる。安全は安心を誘い出すようだ。かと言って、可逆的に安心が安全を確約することはありそうもない。安全にしても基準次第て度合に強弱が生まれる。つまり、安心という意識と安全という状態は「似たものどうし」なのではなく、本来相互乗り入れできない概念なのだ。

安全神話が破綻している今日、安全確認にピリオドを打ちにくくなった。それでも、ある動作なり状況の安全確認なりには一区切りはつく。そして、次の動作や状況の安全確認に入る前に、ぼくたちは一息つく。この瞬間に緊張がほぐれ、ある種の弛緩状態を迎える。安全であることに安心するのは当然のことながら、安心できているからといって安全とはかぎらないにもかかわらず……。

誤解なきよう。一瞬たりとも安心するななどと言うつもりはない。ただ、「安全確保は自己責任」という自覚と引き換えの安心でなければならない。ふと思い出した。オフィスから10分ほど北へ歩くと交差点があって、そこに標語が掲げられている。「青信号 安心したら 大間違い」。言いたかったことは、これだ。

その人はどんな人?

なぞなぞ風に考えていただこう。

「その人はゆっくり喋る。時には寡黙を決め込む。決して慌てず、急がない。そう、マイペースを保つ。仕事を欲張って抱え込まない。仕事が増えてくると断ることさえある。場合によっては、自分の仕事を同僚や部下に回してあげる。休暇をきっちりと取る。趣味の時間をたっぷり取る。さらに、ここまで挙げたことと打って変わるようだが、その人はお任せ的な生き方・働き方が好きで、自ら意思決定をすることはめったにない」

さあ、どんな人なんだろうか? 十数年前にぼくは複数の人々をよく観察し、その人たちに共通する特性を以上のように絞り込んだのである。一体どんな人なのか? 答えは「ストレスの溜まらない人」である。えっ? と思った方がいるかもしれない。ストレスを溜め込まない人には、明朗でアバウトで嫌なことをすぐに忘れて……などのイメージがつきまとうようだが、それは誤った通念である。にわかに信じがたいなら、試みに上記の段落の個々の文章を打ち消し文にするか、表現を対義語に変換すればいい。「その人は早口で喋る。いつも慌てていて、急いでいる……」というように。そこに描き出される人物が「ストレスを溜めてしまうタイプ」であることが明らかになるだろう。


「彼は強烈なリーダーシップを発揮する。仕事も趣味も愛し、いつも元気に高笑いしている。わがままで好き放題に生きているわりには、人から信頼されていて、いつも取り巻きに愛されている」。一見すると豪傑タイプに見えるこの彼が、実は神経質でストレスに苦しんでいたりする。逆に、気が小さくてナイーブ、人の顔色ばかり見ておどおどしているようなタイプが、ストレスにはまったく動じていなかったりする。人とストレスの関係は不可思議である。

ストレスの心理や科学についてはまったく不案内である。ぼくのストレス観は、英和辞典の意味に忠実で、「圧力、抑圧、緊張」。仕事や人間などの対象から解放されているとき、人は圧力、抑圧、緊張を軽減することができる。但し、対象の中には内なる完璧主義や理念のようなものがあって、これらがストレス要因になったりすることもある。脱ストレス的生き方をしようとすれば、対象へのこだわりを少なくし、対象を軽く流すことが不可欠になる。これが冒頭で描写した生き方に通じてくるのだ。

対人関係におけるストレス。人間が二人以上集まり、そこに一人とは異なる関係が生まれる時、何らかのストレスが生まれる。ストレス量が10で、二人が5ずつ分け合えばまずまずだろう。実際は、ストレスの溜まり具合は偏る。だから自分が楽なときは相手がしんどいのだろうとおもんぱかってみる。だいたいにおいて、ストレスを溜めない人間がいれば、その周りの人間にストレスが溜まっているものである。最悪は、本来のストレス量が両者に分散されず、それどころか、それぞれが倍のストレスを受け取ってしまうケース。こうなると関係修復はむずかしい。