十店十色のメッセージ

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20131227日現在)

本ブログ“Okano Note”の過去の更新回数である。ちなみに初年度の2008年は実質7か月だからかなり頑張っていたのがわかる。年々逓減、半減して今日に至る。最近は更新頻度が低く、一か月近く開くこともあった。知の劣化なのか、発想の貧困なのか、多忙だからなのか……。自己分析すれば、いずれでもない。マメさと凝り性が人並みに落ち着いたということだろう。
当然ながら、ブログを更新したり管理したりするダッシュボード上のお知らせをしっかり読んでいない。一昨日、「現システムのサポートがまもなく終了します」と未来形で出ていて、ちょっと慌てた。そして、今日、「▲重要:ご利用の製品のサポートは終了しています」と完了形になっていて、焦った。サポートが終了したからといって、すぐに使えなくなるわけではないらしいが、過去のブログを保護するには、早晩、別のシステムに移行しなければならない。見積もりをしてもらったら10万円くらいかかるとのことである。

それはさておき、このお知らせはとてもわかりやすかった。ぼくの注意を喚起して対策を取るべく行動へと駆り立てた。メッセージは、注意、情報、案内、訴求、説明、説得、言い訳などのために書かれ掲げられる。ねらいはいろいろあるが、他者と関わる必要性から生まれる。二十代後半から三十代前半に広告関係の仕事に身を置いたので、メッセージの表現には目配りする習性がある。おびただしい広告コピー、看板、注意書きが毎日目に飛び込んでくる。上記のお知らせのように簡潔でピンポイント効果の高いものもあれば、さっぱり訳のわからないもの、戸惑ってしまうもの、単にウケだけをねらっているものなど様々だ。店や当局が伝えるメッセージはまさに十店十色の様相を呈している。
トイレに入ると「人がいなくても、水が流れることがあります」というシールが貼ってある。男性トイレで小用を足すとき、便器の前に立つとセンサーが人を感知し、小用を終えてその場を離れた直後に水が流れる。このことを男性諸君が承知しているという暗黙の前提に立って掲げられたメッセージだ。だが、「人がいなくても水が流れること」をなぜ人に知らせているのか、とても奇妙である。
横浜の中華街では「不法な客引き・ビラ配り。栗の押し売りにはご注意ください」が目を引く。なにしろ「栗」に特化した呼びかけだ。押し売りされた後で気づく場所にあるので、後の祭り。同じく横浜で「大麻入りビール」と大きく看板を掲げた店を見かけた。かなりヤバイ。ヤバイと言えば、別の所に「さわるな! さわるとヤバイです」というのがあった。ヤバイに反応する者も少なくないので、さわってみたいという好奇心を刺激する。
 
古着屋の看板.jpgこの写真は大阪の天神橋商店街の古着屋の看板である。「古着屋はギャグまで古い!」に続けて「3枚でレジがアホになる!」と大きな見出し。今となっては懐かしいナベアツ(現桂三度)の「いち~、に~、さ~ん」のもじりである。ウケねらい、店主が楽しんでいる。大阪以外の方々は「さすが大阪」と感心するが、この手口は日常茶飯事で見慣れているから、さほど驚きはしない。

語句の断章(6) 注文

今さら取り上げるまでもなく、〈注文ちゅうもん〉の意味は明々白々である。「カツ丼を注文する」「飲み物の注文を取る(または注文を聞く)」などの用例が示す通り。注文する、注文を取るという段階ではすでに対象が特定されている。カツ丼を注文して親子丼が出てくることはない。なお、飲み物や食べ物だけではなく、希望や条件を注文することもある。この場合、「注文をつける」という使い方をする。注文をあれこれとつけられる側は「小うるさい」という印象を持つ。

宮沢賢治に『注文の多い料理店』という短編がある。客に対して店側から注文がつけられるのだが、それがうまい料理にありつける条件と思いきや、実は客が食材として料理されてしまうという話。

出張先でチェーンの牛丼店に入った。久しぶりだった。そこで目撃したのは「注文の多い客たち」であった。食事時間わずか10分ほどの間に、誰かが「つゆだく」と言い別の誰かが「つゆなし」と注文をつけた。次いで聞こえてきたのは初耳の「タマネギ抜き!」だ。タマネギを抜いたらもはやそれは牛丼とは呼べないのではないか。以前、天丼の店で「上天丼。海苔とシシトウ抜きで」と注文をつけた男がいた。これは並のエビ天丼にエビが一尾トッピングされたものにほかならない。

何でもかんでも小さなニーズに細かく対応することが店のサービス方針になってしまっている。客も客なら、店も店なのである。メニューに載っているものを注文されたら、味加減も含めて自慢のレシピで料理を堂々と出し、客は出されるままに口に運べばいいではないか。牛丼店には望むべくもないが、物分りがよくて融通が利きすぎるのも考えものである。 

時間を創る生き方

去年一年間、Kはずっと「忙しい、忙しい」と言っていた。会うごとに、電話で話すごとに、メールをやりとりするごとに。先週会った時も同じことを言っていた。仕事がどんなに多忙なのかつぶさに見る機会はないが、会った時の振る舞いからは普段の慌しさが漂ってこない。話し方も悠然としているし……。にもかかわらず、ご機嫌をうかがうたびに、「時間がない、時間が足りない」とよくこぼす。

Kとは誰か? ぼくの回りにもあなたの周辺にもよくいる人物、それがK。そう、Kはどこにでもいる。もっとはっきり言っておこう。時々誰もがKになってしまうのだ。Kというイニシャルに特別な意味はない。多忙を言い訳にする象徴的な人間を他意なくKと呼んでいる。Kは、K自身が多忙だと思っているほど、仕事に追われてもいないし多忙でもない。Kよりも物理的に仕事の負荷が大きくても、余裕綽々に日々を送っている仕事人も世間には少なからずいる。

「忙しい」を口癖にしたまま定年退職していったK先輩たちをぼくは何人も知っている。同輩にも年下にもKはいる。集まりがあればほとんど確実に遅刻し、約束を直前になってからキャンセルするくらいは朝飯前だ。丁重に謝り「次こそ絶対に先約を守る」と誓っても、急な仕事やトラブルが発生する巡り合わせになっている。冠婚葬祭出席の頻度も高い。ぼくはいつも疑問に思う、Kは仕事ゆえに多忙なのか。Kに「忙しい」と言わせているのは、仕事以外の諸々のゴミ時間なのではないか。


多忙だから趣味に打ち込めない、仕事続きでゆっくり落ち着いて本も読めない。あれもしたいこれもしたいと願いながら、一年を振り返れば雑事に忙殺されてきた。しかも、時間を食った割には仕事の達成感はない。何だか薄っぺらな仕事ばかりしてきた感覚が自分を支配している。このようなワークスタイルとライフサイクルは、放置しておけば生涯続く。そして、K本人は言い訳と口癖の「忙しい」を相変わらず言い続けることになる。どこかでケリをつければいいのだが、環境も態度も変容しそうな気配はない。

多忙感には避難所に似た構造がある。「忙しい」というのは口実でもあり幻想でもある。もちろんK自身はそれが口実であるとか幻想であるなどと思いもしていない。言い訳しているつもりもなければ口癖になっているとも気づいていない。毎日がとても窮屈で自由気ままにならないと確信している。だが、Kは間違っている。Kは仕事で忙しいのではない。時間ののりしろを作れないため、不器用に仕事をしているにすぎない。

電話、来客、会議、トラブル対応、先延ばし、人付き合い、優柔不断。ブライアン・トレーシーはこれらが「ゴミ時間」の要因であると指摘する。多忙解消のための電話ではなく、電話に時間を食われて忙しくなっている。来客との会話、会議、人付き合いの大半は、終わってから後悔の念に苛まれる。トラブル対応はパスできないが、マイナス作業であることを心得ておかねばならない。先延ばしと優柔不断は身から出る錆である。

時間欠乏にからんでくるのは、いつも「人」である。人間関係は微妙であって、ある境界線を越えるとプラスがマイナスに転じる。やりがいにもストレスにも人は関与するのだ。Kよ、多忙が好きなら金輪際「忙しい」と言うなかれ。多忙が嫌なら、愚痴を言う前にゴミ時間を減らしたまえ。時間を創れない人間がいい仕事をやり遂げたためしはないのである。