コミュニケーション――その用語検証

コミュニケーション.jpg〈プラスチックワード(plastic word)〉が注目されている。ドイツの言語学者ベルクゼンが問題提起した造語だ。何かしら重みのある内容を伝えているような趣があるが、その実、プラスチック製のおもちゃのブロックみたいに変幻自在に姿や形を変えて他の語句と結びつく用語である。あいまいなくせに、いかにも意味ありげな文章を作り上げてしまうという、困った特徴を持つ。

たとえばグローバルがそれであり、アイデンティティやシステム、マネジメントやソリューションも仲間である。カタカナが多いのは提唱者がドイツ人だからだろうが、日本語に訳せば、他に情報、価値、構造、問題、成長などもリストに入るという。ぼく自身もプラスチックワードの常用者であることを認めざるを得ず、とても後ろめたい気分になる。プラスチックという語感の、安直で本物ではないという響きゆえだろうか。

コミュニケーションという術語もその一つだと知るに及び、心中穏やかではなくなった。かなり頻度の高い常用語であるから、「ランチにでも行くか」と同じような気楽さで「もっとコミュニケーションを取ろう」などと誰もが言っている。だが、ランチはプラスチックワードではない。

ランチと呼ばれる〈記号表現シニフィアン〉には明確な〈記号内容シニフィエ〉が対応する。うな丼であれステーキであれ、ざるそばであれ担担麺であれ、ランチは目に見える料理として特定され、口に入れて胃袋におさめるという行為までを具体的に指し示す。これに対して、コミュニケーションということばが意味する記号内容は、人それぞれに異なり変幻自在。要するに、表現者の意図した内容として伝わっていそうもないのである。


いつの頃からだろうか、コミュニケーションは伝達とほぼ同義に扱われるようになった。話したり書いたりする側の行動という意味に変化して現在に至る。つまり、聴いたり読んだりする側の視点がコミュニケーションからすっかり欠落しているのである。と同時に、何かの目的のための手段と見なされてもいる。たとえば、親睦のためのコミュニケーションという具合に。さらには、言語もとばっちりを食って、コミュニケーションのための道具や衣装とされてしまった。言語はコミュニケーションのため、そして、コミュニケーションは何か別のためのものであるという図式である。

何でも語源に遡ればいいとは思わないが、プラスチックワードの最右翼という烙印を押されてしまったコミュニケーションの名誉回復のために、原点を確かめてみるのは無駄な作業ではないだろう。このことばはもともと「共通」という意味であった。たとえば、ラテン語で“sensus communis”と言えば〈共通感覚〉だが、その共通のことである。共通というかぎり、何において共通なのかが示されねばならない。「誰においても」ということだ。誰においてもが極端なら、あるコミュニティの関係者としてもいい。その関わる人々の間で「あることの意味が共有されている状態」である。「今日の午後6時に例の喫茶店で待ち合わせよう」とさんがさんらに告げたら、「今日、午後6時、例の喫茶店、待ち合わせ」という概念と意味が全員で共有されなければならない。そうでなければ、人間関係が成り立たなくなってしまう。

こうして考えてみると、コミュニケーションが単なる道具であるはずもなく、何かの目的のための手段であるはずもないことがわかる。人が他人と生きていく上で、他に代案のない、本質的で究極の行動にほかならない。アリストテレスが「何のための幸福かなど問えない」と語ったように、何のためのコミュニケーションかを問うことなどできないのである。高度な言語とコミュニケーションは人間社会の生命線と言っても過言ではない。このことを強く認識するとき、他の用語はいざ知らず、コミュニケーションということばを安っぽいプラスチックのように弄んではいけないという賢慮と良識が働くだろう。

身勝手なコジツケ

mehrabian.pngある著名な説を自分に都合よくこじつけることを「牽強付会けんきょうふかい」と言う。また聞きや孫引きも学びには不可欠だが、間接学習ばかりしているとこの牽強付会が起こってしまう。説の発生時点に時々遡って検証しておくことも必要だろう。これは自分への戒めでもある。

権威を引用してこじつける狡猾な例がある。アルバート・メラビアン博士が実験を通じて導いた『メラビアンの法則』がそれだ。もちろん良識ある引用者もいるが、大半が看過できないほどひどい曲解をしてしまっている。なかには故意犯もいるからたちが悪い。

マナー、コミュニケーション、コーチング、ファシリテーションなどを専門とする複数の講師が、メラビアンの法則を曲解してジェスチャーや表情の優位性を強調する一方で、言語を見下すような発言をするのを何度か見聞きしている。念のために書いておくと、この法則は、一対一のインターパーソナルコミュニケーションに限定して、話し手が聞き手にどんな影響を与えたかを実験して導かれたものである。

実験によって、影響に占める割合は、表情やジェスチャーが55%、声のトーンや大きさが38%、話す内容が7%ということがわかった。こう説明した上で、講師たちは「ことばはわずか7%しか伝わらない。コミュニケーションにおいてことばは非力なのだ」というような趣旨を、さも真理のごとく説く。これは、目に余るほどの虚偽の一般化なのだ。もちろん、メラビアン博士の意図に反するこんな邪説を、免疫のない、無防備で純朴な受講生はものの見事に信じてしまう。そして、講師によって引き続きおこなわれる、取って付けたような身振りやマナーや表情の模範例に見入ることになるのである。


アルバート・メラビアン博士自身は、ちゃんと次のように断っている(要旨、原文は英語)。

この法則は「感情や態度が発する言行不一致*のメッセージ」についての研究結果に基づく。実験の結果、「好感度の合計=言語的好感度7%+音声的好感度38%+表情的好感度55%」ということがわかった。但し、これは言語的・非言語的メッセージの相対的重要性に関する公式であって、あくまでも「感情と態度のコミュニケーション実験」から導かれたものだ。ゆえに、伝達者が感情または態度について語っていない場合には、この公式は当てはまらない。 (*inconsistentを「言行不一致」と意訳した。傍線は岡野)

ぼくも曲解しないように気をつけて書くが、下線部から、言語的メッセージを伝えることを目的としたコミュニケーション実験ではないということがわかる。だから、回覧板には適用しない。読書にも適用しない。会議や対話にも当てはまらない。携帯電話で「明日の夕方5時に渋谷でお会いしましょう」という簡単なメッセージも対象外だ。要するに、ほとんどの伝達・意見交換場面には法則が当てはまらないのである。ある種の顔の表情とジェスチャーを伴って単発のことばを発した場合のみ有効という、きわめて特殊なシチュエーションを想定した実験にほかならない(たとえば、万田銀次郎のようなお兄さんがどんなにやさしいことば遣いをしても、コワモテはかりが気になってことばが耳に入ってこないというような場合)。

もし本気でコミュニケーションに果たす言語の役割が7%だと信じているのなら、講師はずっと顔と身振りで思いを伝えればよろしい。それで93%通じるのだから楽勝だ。パワーポイントやテキストも作らなくていい。いや、もし曲解するのであれば、ついでに悲観的になってみてはどうか。言語理性の危機が叫ばれ、ボキャブラリー貧困に喘ぐこの社会をよく凝視し、「言語7%説」が日常化するのを案じて、「これはいかん、もっと言語の比重を高めなければ」と一念発起するのが教育者ではないか。

イメージとことば

禅宗に〈不立文字ふりゅうもんじ〉ということばがある。二項対立の世界から飛び出せという教えだ。無分別や不二ふじは体験しなければわからない。不二とは一見別々の二つのように見えるものが、実は一体であったり互いにつながっていたりすること。分別だらけの日々に悪戦苦闘していては、人は救われない。無分別、不二へと踏み込むことによって、人は悟りへと到る――こんなイメージである(いま、ことばで綴った内容を「イメージ」と呼んだ。この点を覚えておいていただきたい)。

ところが、悟ってしまった人間が言語分別ともサヨナラしたら、もはや現実の世界を生きていくことはできない。なぜなら、現実世界では二項が厳然と対立しており、ああでもないこうでもないと言語的分別によって意思決定しなければならないからだ。何もかも悟ってみたい(そのために学びもしている)、しかし、それでは実社会とかけ離れてしまう。このあたりのジレンマを鈴木大拙師は次のようになだめてくれる。

「人間としては、飛び出しても、また舞い戻らぬと話が出来ぬので、言葉の世界に還る。還るには還るが、一遍飛び出した経験があれば、言語文字の会し方が以前とは違う。すべて禅録は、このように読むべきである。」

ぼくたちにとって、悟りの修行に打ち込むような機会はめったにない。と言うことは、言語と分別に浸る日々のうちに脱言語・無分別の時間を作り出すしかない。はたしてそんなことができるのだろうか。


冷静に考えれば、イメージとことばを二項対立と見なすこと自体が勘違いなのだ。広告業界にしばらく身を置いていたが、「コピーとデザイン」を分別する場面が目立った。文字とビジュアルが別物だと錯誤しているクリエーターが大勢いたのである。「今は言語だ、次はイメージだ」などと作業の工程と時間を割り振りすることなどできるはずがない。このように言語をイメージから切り離してしまえば、さすがに過度の言語分別に陥る。戒められてもしかたがない。

「右脳がイメージをつかさどり左脳が言語をつかさどる」などという脳生理の知識も、イメージとことばを対立させたように思う。脳科学的にはそんな役割があるのだろうが、イメージ一つも浮かべないで文章を書くことなどできないし、ことばが伴わない絵画鑑賞もありえない。ことばは脳内で響き、イメージは脳内に浮かぶ。右脳の仕業か左脳の仕業か、そんなこといちいち調べたことはない。ただ、ことばもイメージも同時に動いていることは確かである。

人は言語なくして絵を描くだろうか。ことばが生まれる前に人類は絵を描いただろうか。「テレビを見てたら、チンパンジーが絵を描いていたよ。ことばがなくても描けるんじゃないか」と誰かが言っていたが、チンパンジーは絵など描いていない。与えられた筆と絵の具で、人の真似よろしく戯れているだけだ。絵を描くのは非言語的行為などではない。大いに言語作用が働かねば、対象も題材も何も見えず、鉛筆で一本の線すらも引けない。

ラスコーの洞窟壁画は24万年の間で諸説あるが、クロマニョン人は当然ことばを使っていた。言語的に処理されていない絵やイメージなどがあるとは到底思えないのである。もっとも、イメージから独立した話す・書くもありえないだろうし、聴く・読むとなるとイメージとことばが協働していることがありありと実感できる。イメージはことばに変換されるし、ことばもイメージに塗り替えられる。そもそも言語とイメージはコインの裏表、不可分の関係にあるのだ。これが冒頭段落の最終文の意味。極論すれば、ことばはイメージであり、イメージはことばなのである。

考えることと語ること

だいぶ前の話になるが、コミュニケーションの研修のたびにアンケートを取っていた。いくつかの問いのうちの一つが「コミュニケーションで悩んでいることは何か?」であった。そして、二人に一人が「考えていることをうまくことばにできない」や「思っていることを他人に伝えることができない」と答えたのである。これらの答えの背景には「自分は何かについて考え、何かを思っている」という確信がある。その上で、そうした考えや思いを表現することばに欠けているという認識をしている。はたして言語はそのような後処理的なテクニックなのだろうか。

「思考が言語にならない」という認識はどうやら誤りだということに気づいた。ほんとうに考えているのなら、たとえ下手でも何がしかの兆しが表現になるものだ。幼児は、バナナではなくリンゴが欲しいと思えば、「リンゴ」と言うではないか。それは、バナナと比較したうえでの選択という微妙な言語表現ではないが、思いの伝達という形を取っている。「リンゴ」と言わないうちはリンゴへの欲求が、おそらく不明瞭な感覚にとどまっているはずだ。子どもは「リンゴ」と発すると同時に、リンゴという概念とリンゴへの欲望を明確にするのである。

「言葉は思考の定着のための単なる手段だとか、あるいは思考の外被や着物だなどとはとても認められない」「言葉は認識のあとにくるのではなく、認識そのものである」(メルロ=ポンティ)

「言語は事物の単なる名称ではない」(ソシュール)。

「言語の限界が世界の限界である」(ヴィトゲンシュタイン)。

粗っぽいまとめ方で恐縮だが、これら三者はそれぞれに、言語と思考の不可分性、言語とモノ・概念の一体性、言語と世界観の一致を物語っている。


ぼくたちは何度も繰り返して発したり書いたりしたことばによって思考を形作っている。未だ知らないことばに合致する概念は存在しない。いや、不連続で茫洋とした状態で何となく感覚的にうごめきはしているかもしれないが、それでも語り著すことができていないのは思考というレベルに達していない証しである。先のヴィトゲンシュタインは、「およそ語りえることは明晰に語りうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない」とも言っている(『論理哲学論考』)。語りえることと考えうることは同じことだとすれば、語っている様子こそが思考のありようと言っても過言ではない。

以上のような所見が異様に映るなら、相手が想像すらしていないことについて質問してみればいい。相手は戸惑い沈黙するだろう。これではいけないとばかりにアタマの中に手掛かりを求めるが、白紙の上をなぞるばかりでいっこうに脈絡がついてこない。ますます焦って何事かを話し始めるが、明晰からは程遠い、無意味な単語を羅列するばかりだろう。あることについて知らないということはことばを知らないということであり、ことばを知らないということはことばにまつわる概念がアタマのどこにもないということなのである。

芸人のなぞかけが流行っている。「○○とかけて□□と解きます。そのココロは……」という例のものだ。まず「○○」が初耳であれば解きようもない。仮に「○○」が知っていることばであっても、かつて思い巡らしたことすらなければ、整わせようがない。たわいもないお遊びのように見えるが、実は、あの技術は言語力と豊富な知識を必要とする。そう、明晰に語ることと明晰に考えることは不可分なのである。ことばが未熟だからと言い訳するのは、思考が未熟であることを告白していることにほかならない。   

何かにつけて「ことば」に還る

私塾の最終講。まだだいぶ先だが、構想からすでに構成に差し掛かっている。「市場」というテーマを演劇的手法で展開してみようと一度は忘我の境に入りかけたが、しばらくして断念。今のぼくには荷が重すぎる。さらによく熟成させて次の機会に挑むことにした。ちなみに「市場」イコール「マーケティング論」ではない。現代人にとって、市場は「社会」の別名になりつつある。社会の大部分は生活や仕事のための売買活動を動因とし、貨幣と商品・サービスの頻繁な交換を目立った特徴としている。

市場をさらによく見つめるために、いくつかのキーワードを思いつくまま並べてみた。欲望、過剰、場、価値、貨幣、共生、大衆、交換、視線、構造、消費、生産、所有、責任、テクノロジー、情報……。市場に関わりそうな人間考察のための術語群。他方、マーケティング分野に切り込めば、さらに現場、製品、サービス、記号、広告、調査、対話、競争、コンセプト、文化、相対主義、エコロジーなどが浮かび上がってくる。個々には見慣れた用語である。但し、見慣れたことばをありきたりに解釈していては新鮮味のある視点は見つからない。

「千葉県警は容疑者を死体遺棄の疑いで詳しく厳しく追及していく方針です」と現場からのレポート。「詳しく厳しく」と強調すればするほど、「適当に甘く」が反転作用として浮上してくる滑稽さ。取り調べは原則的に詳しくて、かつ厳しいはずである。つまり、追及には精細と厳格(または厳密)が折り込み済みなのだ。追及に余計な修飾はいらない。このように使い古されたことばとその文脈構築には注意が必要。市場について語るときはこれと逆の用法に目を向ける。すなわち、「言わずもがな」で済まさない工夫がいる。


小林秀雄は「言葉に惑わされるという私達の性向は、殆ど信じられないほど深いものである。私達は皆、物と物の名とを混同しながら育って来たのだ」と書いている(『考えるヒント2』)。また、別の箇所では「言葉の生命は人が言葉を使っているのか、言葉が人を使っているのか定かではないままに転じて行く」とも言っている。大量にメッセージを発する機会の多いぼくなどは、とりわけ話しことばをつい希薄に使ってしまっているかもしれない。差異への神経も鈍感になりがちだろう。油断をしていると馴染んだことばほど既成概念を押し付けてくる。そうなると、もはやことばの使い手などではなく、ことばを主と仰ぐ奴隷に堕している。

言語のダイナミックな変容に大らかであってもいいが、あまり物分かりがよすぎて易々と免疫ができてしまうのも考えものだ。辞書の教えるところと自分自身の感知態勢は違っていてもいい。たとえば、非生命の複数表現としての「ものたち」という言い方にぼくはさっぱり親しめない。「帰国子女」もだめである。海外で生まれて中学になって初めて来日しても「帰国」? 子女にも違和感がある。誕生日は「誕生記念日」がいい。誕生は一度きりのものだから。可視化の意味で使う「見える化」も苦手。周囲はもちろん世間でも広く使われているので耳にするのはやむをえないし、慣れもした。だが、ぼくが使うことはないだろう。

頑なに言語論を展開しているつもりはない。ぼくは言語変化の現象にはリベラルなのである。新語も歓迎の口だし、自分でも新しい表現に手を染める造語派である。にもかかわらず、いや、だからこそ、手垢がついて一義のみを重く背負っていることばの扱いには慎重にならねばならないと思う。とりわけ経済やマーケティングにからむ用語には不発弾が潜んでいる。信管に触れることなく、うまく新しい意味を付加できるかどうか……これが当面のぼくの課題である。

考えが先か、ことばが先か

「考えること」と「ことばにすること」の関係についてはテーマとしてずっと追いかけている。「考えている?」と尋ねて「はい」と返ってきたからと言って、安易に「考えている」と信じてはいけないなどの話も2月に一度書いた

「考えていることがうまく表現できない」「想いを伝えられない」などの悩みをよく耳にする。この発言は、間違いなく「考えていること」を前提にしている。私はよく考えている、思考も意見もある、ただ残念なことに「話す」のが下手なんです――ぼくにはそんなふうに聞こえる。皮肉った解釈をすれば、「高等な思考力はあるのだけれど、ペラペラと喋る下等なスキルと表現力が足りない」と言っているかのようだ。

冷静に考えてみればわかるが、発話したり書いていない時の頭の中はどんなふうになっているか。考えの輪郭ははっきりしているか、思考はことばとしっかりと結びついているか、筋道や分類や構成は明快か、すべての想いが手に取るように生き生きとしているか……。決してそうではない。断片的なイメージや単語や文節が無秩序にうごめき、浮かび上がったり消えたり、互いに結びついたり離れたりしているものだ。少なくともぼくは、誰かに喋ったり書いたりしないかぎり、自分がいったい今何を考えているのかよくわからない。


もし考えることがことばよりも先に生まれており、明快かつ精度が高いのであれば、わざわざ言語に置き換える必要はないではないか。思考それ自体が何らかの対象を認識して十分に熟成しているのならば、なぜ思考が表現の力を借りなければならないのか、その理由が説明できない。こんなふうに哲学者のメルロ=ポンティは「言語が思考を前提にしていること」に異議を唱える(『知覚の現象学』)。

考えている(つもりの)あなたは、その考えを自分に向かって表現する、あるいは誰かに語ったり紙に書いたりする。その時点で、思考がことばに翻訳されたと思うかもしれない。あるいは、あることばが口をついて出て来ないとき、それが単純に度忘れによることばの問題だと思ってしまうだろう。しかし、実はそうではないのである。話したり書いたりする瞬間こそが、考えを明快にし輪郭をはっきりさせるべく一歩を踏み出した時なのである。話す前と話した後、書く前と書いた後の頭の思考形成の状態を比較すればよくわかるはずだ。

ことばが思考を前提にせず、思考もことばを前提にしているのではないかもしれない。もしそうだとすれば、「想いがことばにならない」という言い訳は成り立たない。敢えて極論すれば、話す・書くことが思考の醸成につながるのである。思考を騎手とすれば言語は馬である。しかし、この人馬一体においては騎手が馬を御しているのではなく、馬のほうが騎手を乗せて運んでいるのかもしれない。そう、思考は言語によって遠くへと走ることができる。だからこそ、馬を強く速く走れるように訓練しておかねばならないのだ。 

ヒューマンスキルの核

「ノリヒビ」ということばを聞いたり読んだりしたことがあるだろうか。「海苔ひび」。海中に立てる竹や粗朶そだという木の棒のことである。この棒に胞子を付着させて海苔を養殖する。最初は遅々として目立たないが、やがてしっかり定着すればみるみるうちに海苔が繁殖していく。

何かが大きく成長するためには、この棒のような核が必要で、学んだことがどんどんまつわりついていかなければならない。ノリヒビはそんなたとえにも使われることがある。では、ヒューマンスキルにとって、ひびや胞子に相当するのは一体何だろうか。


学び手と学習メニューの関係は、身体とサプリメントの関係に似ている。毎日の食事さえバランスよくきちんと摂り、ほどよく運動して筋肉を鍛えていればおおむね問題無しとは、良識ある専門家が異口同音に唱えている。しかし、栄養に過多や偏りがあると体力に不安を覚え体調異変を感じる。そうなると、中高年には手っ取り早くサプリメントに依存する傾向がある。

ぼくも例に漏れなかった。ウコンに卵黄ニンニク、納豆キナーゼにノコギリヤシ、マルチビタミンや各種ミネラルを試してみた。通販で買ったためにしつこくフォローの電話攻めにも遭った。やがて主客転倒していることに気がついたのである。栄養源は水で流し込むのではなく、よく噛まねばならないのではないか。きちんと食事をして年齢相応に身体を動かし、歩き、ストレッチをする。そういうふうに生活スタイルをシフトして現在に到っている。


ヒューマンスキルのサプリメントには何がいいのか。世の中には学習メニューが目白押し。摂取しても摂取しても効き目を実感していない人たちも多い。摂取後は何らかの効果を実感できたとしても、効き目は持続しない。何日かすれば元の木阿弥状態になってしまう。学習メニュー提供側のぼくとしても、大いに反省しなければならないと思っている。

食事同様、学習サプリメントはあくまでも副である。サプリメントとはもともと「補足」という意味だ。不足を補うものであって、主たる存在ではない。毎日の食事が主であるように、もっともよく使うスキルこそが主ではないか。そう、ヒューマンスキルの主食はことばというリテラシーなのだ。リテラシーこそがノリヒビであり、ぼくたちは幼少の頃から「ことばの胞子」をずっと養殖してきた。

日々振り返れば、生活も仕事も読み・聴き・話し・書くで成り立っている。言語の四技能というリテラシーを駆使して一日を過ごしている。いかなる専門スキルも言語の核にまつわりつく。肝心要の言語力が乏しければ、知識や情報を大量に取り込んでも定着しないのだ。そして、レベルアップするにつれて、とりわけ読むことと書くことの重要性が高まってくるのである。