「登山」の思い出

「山があるから登る」という常套句は、登山と無縁の人たちにもよく知られている。すべての登山家が山があるから登っているのかどうかを知らない。けれども、存在すらしない山に登るのは不可能だから、山の存在は登山の絶対条件であることは間違いない。「山があるから登っているんだ」と言われてみれば、なるほどそうなのだろうとつい納得してしまう。

しかし、よくよく考えてみると、「山がある」と「登る」の間には登山家ならではの論理の飛躍があることに気づく。正確に言えば、「山がある。私は登りたい。そして登る力がある。ゆえに私は登る」でなければならない。裏返せば、登山家以外の人、たとえばぼくの場合には、「山があるが、別に登りたいと思わない。しかも登る力もない。ゆえに決して登らない」という主張が成り立っている。

「海があるから泳ぐ」も「椅子があるから座る」も構造的には同じである。「海がある。泳ぎたい。泳げる。ゆえに泳ぐ」であり、「椅子がある。座りたい。座れる。ゆえに座る」と言っているのだ。「カッパえびせんがあるから食べる」でもいい。カッパえびせんが「やめられない、止まらない」ように、山登りもやめられない、止まらないのである。繰り返すが、興味もなく好きでもない人間にはこの論理は成立しない。カッパえびせんがあっても食べないからである。


大阪ゆえに、大阪人ゆえに起こってしまう話がある。山に登る気も体力もなかったぼくが、11年前に「登山」してしまったという話。たまたまサントリー・ミュージアムの招待券があったので、海遊館や大観覧車のある天保山に出掛けた。美術鑑賞した後に近くの公園をぶらぶらしていたら、知らないうちに天保山の山頂に到達してしまったのである。天保山は国土地理院が認める、れっきとした山である。標高4.5メートル、日本一低い山とされている。

駅近くの薬局が「天保山山岳会」の事務局だと知り、帰りに立ち寄って「天保山に登ってきました」と自己申告したら、認定証をくれた。こう書いてあった。

登山認定証
あなたは、本日大いなるロマンとイチビリ精神を以て、日本サイテーの山[天保山(四・五米)]に無事登頂されました。その快挙を称え、記念に登山認定証をおわたしします。
平成1214日 天保山山岳会

文中のイチビリとは大阪弁で「調子に乗ってはしゃいだり道化をしたりするなど、少々度を越してふざける様子」のこと。ちなみに、天保山には山岳救助隊も結成されている。よほどのことがないかぎり、この山で遭難することはなさそうだが、想定外に備えることはとてもいいことだ。これまでの登山者は全員無事に登頂して帰還したらしく、したがって救難要請は一度もなく救助実績もないようである。

論理が飛躍したり抜け落ちたり

どういうわけか知らないが、ぼくのことをガチガチの論理信奉者のように思っている人がいるらしい。あるいは、「理性と感性、どっちが重要か?」などとしつこく迫ってきて、無理やりに「そりゃ、もちろん理性だよ」とぼくに言わせたくてたまらない塾生もいる。だが、昨日の「川藤出さんかい!」を読んでもらえばわかる通り、ぼくは論理の飛躍や欠如から生まれる不条理やユーモアをこよなく愛している。仕事柄論理や理性にまつわる話をよくするが、四六時中そんなことを考えているはずがない。

「川藤の話、思い出して久々に笑いました。この流れと、今でも使えますね。モルツのコマーシャルは他の作品もよくできていました。一つ、ナンセンスものとして印象に残っているのが、ヤクルトです。たぶんご存知でしょうが、ご紹介しておきます……」

昨夜、ブログを読んだ知人がメールをよこしてきた。彼が察した通り、ぼくはそのコマーシャルを知っていた。知ってはいたが、そうやすやすと思い出せるものではない。これはと思った広告コピーはだいたいノートにメモしている。このヤクルトのもどこかに記した記憶がある(ぼくは二十代後半から三十代前半にかけて広告やPRのコピーを書いていて、名文系・おもしろ系を問わず、気に入った文章を集めていた。この癖は今も続いている)。

知人が思い出させてくれたコマーシャルがこれだ。

「なんで(ヤクルト)毎日飲むの?」
「からだにいいからでしょ」
「なんでからだにいいの?」
「毎日飲むからでしょ」

ナンセンス論理の最たるものに見えるが、「なんで」の問いを「何のために」と解釈したり、あるいは「何の理由で」に置き換えてみると、おやおや意味が通っているではないか。因果関係的には、「毎日飲む(因)→身体にいい(果)」である。目標条件化してみると、「身体にいい」という目的を達成するための条件の一つが「毎日飲む」ということになる。

「ヤクルトを毎日飲む目的は何か?」「健康のためである」――これはよし。
「なぜヤクルトは健康にいいのか?」「毎日飲むからである」――これもよし。

四行まとめて読むとナンセンスだが、前の二行を目的の質問と応答、後の二行を原因の質問と応答というふうに読めば、やりとりはちゃんと成立している。


感謝の気持を込めて、今朝ぼくが送りつけたコマーシャルメッセージ。

「メガネはカラダの一部です。だから東京メガネ」

どうだろう、たまらないほど強烈なロジックではないか。これこそ、居合わせた人々全員をよろけさせる天然ボケの力だ。論拠を抜いてやると文章は滑稽になるのである。