饒舌と寡黙

「口はわざわいの門」、「もの言えば唇寒し秋の風」、「沈黙は金、雄弁は銀」、「巧言令色すくなし仁」……。

ものを言うかものを言わないかを二項対立させれば、洋の東西を問わず、昔からもの言うほうの旗色が悪かった。今日でさえ、ものを言うから口が滑る、だからものを言わないほうが得策だと考える傾向が強く、話術を鍛えるどころか、訥弁に安住して知らん顔している者がかなりいる。
 
あの雄弁家のキケロでさえ、「雄弁でない知恵のほうが口達者な愚かさよりもましだ」と言った。くだけて言えば、おバカさんのおしゃべりよりは賢い口下手のほうがいいということだ。もっとも、キケロは饒舌と寡黙の優劣について、これで終わらず、一番いいのは《教養のある弁論家》と結論している。それにしても、賢い口下手はありうるのか。口下手と判断された瞬間、賢いと思ってもらえるのか……大いに疑問がある。
 
饒舌について.jpg古代ローマ時代のギリシアの文人プルタルコスは、自身無類の話し好きだったにもかかわらず、饒舌をこき下ろしたことで知られている(『饒舌について』)。これをコミュニケーション過剰への戒めと読みがちだが、話はそう簡単ではない。コミュニケーションのあり方というよりも人間関係のあり方、ひいては当時の処世術への助言としてとらえることもできる。キケロの話同様に、実は単なる饒舌批判などではなく、饒舌ゆえに陥りがちな行為の愚かさを枚挙して教訓を垂れたのである。
 

プルタルコスは饒舌を「沈黙不能症という病気」と決めつけ、のべつまくなしに喋る人間は他人の話をろくに聞かないと断じる。また、沈黙には深みがあるが、戸締りしない口は禍を吐き散らすと指摘する。ことばには翼があってどこに飛んで行くかわからないとも言っている。要するに、おしゃべりによって人は傾聴しなくなり、かつ舌禍をも招く、ということだ。饒舌にいいことなどまったくないように思えてくる。
ことば固有の目的が聞く人に信頼の念を起させることなのに、明けても暮れてもペラペラとことばを浪費していれば不信の目を向けられるとプルタルコスは言う。しかし、これは言語を否定しているのではない。ことばの使い方が適切ではないために、「口数多くして空言多し」を招いているということではないか。実際、プルタルコスは別の箇所で「ことばは大変楽しく、かつ最もよく人間味を伝えるものなのに、それを悪用し、また無造作に使う者がいて(……)人を孤立させるものになってしまう」と言っているのだ。饒舌にも善用と悪用があってしかるべきである。
古代における饒舌懐疑論を真に受けて現代社会に用いないほうがよい。当時は、よりよいコミュニケーションよりも失態しないことが人生訓として重視されたのだ。現代においても、失態をしないという観点からすれば、寡黙が饒舌の優位に立つだろう。しかし、寡黙を続けていればいざという時に滑舌よろしく語ることなどできない。
饒舌家は礼節さえわきまえれば黙ることができる。著名な饒舌家の舌禍を見るにつけ、内容が空疎になればなるほどことばが空回りして暴走しかねないことを学ぶ。同時に、よく弁じる者ほど舌禍を避けるリスクマネジメントもできるわけだ。めったに口を開かない者がたまに発言すると禍を起こす。日常的にはこのケースのほうが圧倒的に多いのである。

言論を軽やかに楽しむ

今になってわかること。今年の1月に予告したときは『言論の手法』でいいと確信していた。なにしろ、2009年度私塾大阪講座の共通テーマが「手法」である。第1講から第6講まで順番に、解決に始まり、情報、言論、思考、構想、市場へと展開する。一昨日の講座が第3講にあたる『言論の手法』であった。年初から9ヵ月後を睨んだときは「これでよし」、しかし講座が近づくにつれ、「ちょっと硬派の度が過ぎる」と首を傾げるようになっていた。

言論と言えば「言論の自由」が浮かぶ。言論を封じられるのはつらいことである。また、弁論家やソフィストらは「言論の技術」を開発し、今にも通用するテキストを残してきた。言論は、権利と技量両面において、軽視できないヒューマンスキルであることは事実。ところが、これはロゴス主義者からの見方であって、「言論なんて重要ではない」という意見も相変わらず底辺では根強いのだ。このような、言論のできる人間を「饒舌家」や「口達者」などと皮肉る認識不足を批判することもできる。と同時に、偏狭な言論至上主義者たちも詭弁と隣り合わせにいる自らの危うさに気づいておかねばならない。

「口はわざわいの門」、「もの言えば唇寒し秋の風」、「沈黙は金、雄弁は銀」、「巧言令色すくなし仁」……アンチ言論の諺はいくらでもある。黙っているのが徳であり、なんだかんだと喋ったり言い訳するのは品性を欠くのみならず失態につながることを暗示している。「言わぬが損」と反論しても焼け石に水、わが国の風土にはロゴス過剰を戒める体質が備わっている。


とは言え、雄弁・強弁の自信をちらつかせる輩だけを責めるわけにもいかない。言論エンジンを動かさない、見た目は物分かりのよさそうな黙認者や「みなまで言わぬ人々」にも責任がある。彼らは理屈を嫌う。「それはともかく」だの「ところで」だの「まあ、いいじゃないか」だのとすぐに話の軌道を変える。「言わぬは言うにまさる」のような埃まみれの価値観にしがみつくロゴス嫌いが、上滑りの強硬言論を了解してしまう結果をもたらしている。

鮮やかな論法を駆使して口達者に説得する――こんな言論がよさそうに見えた時代に、愚か者の烙印を押された連中も大勢いた。それは、無知だったからにほかならない。無知な弁論家ほど始末に悪いものはない。まだしも「知のある沈黙」のほうがましではないか。実は、キケロが同じようなことを書いている。キケロは「雄弁でない知恵」のほうが「口達者な愚かさ」よりもましだと言う。しかし、そう言った直後に、「どっちもダメ」と否定し、「いいのは教養のある弁論家」だと断言する。

教養ある弁論家をプロフェッショナルととらえる必要はない。知識を背景に、論理だけを振りかざすのではなく人間味や感性の風合いをもつ説得を心掛け、必要に応じてきちんと意見を述べる。ここにユーモアと軽やかさも付け加えたい。もっと言論をカジュアルに扱うべきなのだ。小さくノーと思ったら、その場でノーと言っておく。先の先で一事が万事という無様な状況を招くくらいなら、いま言論を交わしておくべきなのだ。『言論の手法』などと難しい看板を掲げてしまったけれど、本意は「言論の楽しみ」に目を見開いてもらうことにあった。