「手作り」という妄想

偽装→手作り.jpg.jpgのサムネール画像年が明けて前年を振り返る。月並みだが「いろいろあった」とつぶやくしかない。いろいろの話題のうち、国家の外交問題は重大であるものの、印象深かったのは食品偽装のほうだ。売り手も買い手も性懲りなく何度同じ轍を踏めば気が済むのか。偽装から発覚、謝罪、対処に到るまで絵に描いたようなワンパターンが繰り返された。

食材の偽装と調理の偽装がある。前者については何度か取り上げたので、今日は後者、とりわけ「手作り」について考えてみる。『新明解国語辞典』は素っ気なく、「自分(の手)で作ること(ったもの)。手製」としている。自家製も定義してあって、「自分の家で作ること」だ。つまり、自家製ケーキとは「自分の家で作ったケーキ」のこと。それなら、名称上はホテルやレストランとどこかのお宅のケーキにも差異はない。違いは食べてみて初めてわかる。いや、食べてもわからないかもしれない。
さて、「手作り」だ。どこかで買ってきた既製品のチョコレートを小鍋で溶かしてから成型し、冷やして何かを足して一手間かけたら、それは手作りか。手を加えたら手作りと呼べるのか。たとえば、栽培していたハーブを手でもぎり、皿に盛りつけてドレッシングをかけたら「手作りハーブサラダ」になるのか。サラダに手作りという表現を被せると浮いて見えてしまうのはなぜだろう。そうだ、寿司にも手作りということばが合わない。もちろん「手握り」とも言わない。

明らかに手で作ったり盛ったりしたものをわざわざ手作りなどとは言わないのではないか。手作りと敢えて強調する時点で、何だか怪しげな空気に包まれてしまう。「これは、どこかで買ってきた既製品じゃないぞ」とか「何から何まで機械や器具で作ったんじゃないぞ」という注釈のようにも思える。いや、好意的に考えれば「心を込めた」ということになるか。だが、機械て作っても心を込めることはできるだろう。どこかで手作りしたものを仕入れて店で出しても手作りと呼べる。自家製にしても、作った本人が売ればこそであって、仕入人が売れば「他家製」になる。別にどっちだっていいではないか。
呆れるほど当たり前のことを書いておこう。純然たる手作りなどありえないのだ。手作りは妄想なのである。たとえば手作りハンバーグとは「手作業ハンバーグ」のことではないか。包丁を使いボールを使いフライパンで焼いたのだ。道具を使って手作業したのである。「それはそうだが、ハンバーグの肝心要の工程である手ごねは手作りなのだ」という弁明があるだろうが、それでもなお、手ごねが道具ごねよりもすぐれているという証明にはならない。手ごねと聞くだけで皮膚や爪の垢まで混入するようで気分穏やかではない人もいる。
手作りでも手ごねでも、「誰の手」のほうに注意を向けるべきではないか。きみのその手で作られた料理は勘弁願いたいということだってある。ぼくたちは手作りや自家製という表現に何となく良さそうな固有の価値を感じているが、手作りや自家製が実際にはどういうことなのかについてはあまり深く考えてなどいない。店や売り手がどうのこうのという話ではなく、外食に対する一人一人の顧客の考え方がいま問われているのである。

偽装の怪

偽装.jpg.jpgめったに週刊誌を買い求めることはないが、先月『週刊文春』を買って「食品偽装 悪質ワースト10」という記事に目を通してみた。ホテル系レストランから発覚した問題の数々を新聞で拾い読みしながらも考えていたことだが、廃業に追いやられた船場吉兆と同罪であると結論を下したい。誤表示どころか、偽装の域を超えて、詐欺呼ばわりするのが妥当である。

念のために、手元にある数冊の国語辞典で【偽装】の意味を調べてみた。「あざむく」という共通概念が浮かび上がる。但し、どの辞書も用例を挙げていないので、実際の文脈上のニュアンスがぴたりと伝わってこない。辞書編纂者には「用例のない辞書は骸骨である」というヴォルテールの言をよく咀嚼していただきたい。
ついでなので類語辞典にもあたってみたら、「陣地を樹枝で偽装する」という用例が見つかった。これも「あざむく」に類する意味だが、相手が敵なのだからあざむく行為は咎められない。この例でわかるように、相手次第では偽装も正当化できるのだ。但し、悪質というニュアンスをそぎ落としたければ、「陣地を樹枝で迷彩する」とするほうが精度が増す。


発端となった”HHホテルズ”は「誤表示」か「偽装」かで往生際の悪い釈明をした。誤表示と偽装は作為や意識において違うが、うたい文句と実態のズレという点では本質は同じである。食というデリケートな分野では、意識的であったか無意識であったかはあまり重要ではなく、結果のみが問われる。羊肉を料理するつもりだったが、つい狗肉を使ってしまい、「羊頭」という看板を書き直すのを怠った……これは「悪意のある羊頭狗肉」と同じことなのである。
料理の名前に使っている食材と産地をこと細かに記載するようになったのは、フランス料理の影響なのだろうか。いつぞや食べたパスタは「伊サルディーニャ産カラスミと宇治産壬生菜のリングイネ」だった。また、あるパーティーか披露宴のメインは「春キャベツで包んだ豪州産仔羊肉とチーズのカイエット そのジュのソース」であった。この種の料理を出すシェフは料理を作ってから命名するのではない。レシピを構想する時点で食材を選び長々とした名前を考える。この長い名前が料理に先立つシナリオのはずである。
 
そうであるならば、サルディーニャ産のカラスミが使えないのなら、その料理を作らないか、代替で使った品の産地に書き換えるべきなのだ。ブランドで勝負するレストランなら、食材が手に入らないならその料理を出さないだろう。そもそも産地名まで料理の名に含めるのは食材のブランドによって、美味と品質を誇示したいからである(それゆえ値段も高くできる)。偽装を企むレストラン側だけでなく、名産地に全幅の信頼を寄せてきた客も、危ういブランド信奉主義の片棒を担いできたと言わざるをえない。
 
格下の品を格上に見せかけるのが偽装である。格上の格下表示を偽装とは言わない。たとえばA5ランクの佐賀牛を使ったステーキなのに、単に「牛ステーキ」とメニューに書くのは偽装ではなく、パロディに近い。そんな痛快な仕業をどこかの店でやってみて欲しいものである。

私家版食性論(中)―「広食」か「狭食」か

ジャガー.jpgのサムネール画像「腹を空かしているときに、この中に入るとやられてしまいます」。ある動物園の飼育員が冗談抜きの表情で語った。この中とは檻であり、腹を空かしているのはジャガーである。その飼育員は檻の外にいて箸で生肉をつまみ、鉄格子越しにジャガーに与える。赤ん坊のときから何年も飼育してきたのに、腹ペコ状態のジャガーの檻には入れない。念のために書くが、ジャガーとは猛獣のジャガーであって、女子プロレスのジャガー横田ではない。

エサをもらっている姿を見るかぎり、ジャガーは飼育員になついているように見える。だが、「なついているようでも、いつでも私を狙っています」と飼育員。ジャガーにとって動く哺乳動物はすべて標的。世話をしてくれる飼育員さえもジャガーの食性内の獲物にすぎない。ジャガーにとってみれば、人間は食物連鎖的に自分よりも下位なのである。「いつでも狙っている」という表現に、ぼくたちが愛してやまない健気けなげさや親しみや信頼性などの感覚が吹っ飛んでしまった。「エサはエサなんだよね」というジャガーの、クールでドスのきいたつぶやきが聞こえてきそうだ。

肉食獣が草食動物を追いつめて首筋を一撃する。次いで、腹を食い破って内臓を頬張るシーンを見て、ぼくたちは残酷だと思う。しかし、この光景はリスがクルミの殻を割って実を食べ、クマが蜂蜜を捕って食べ、人が山芋を掘ってトロロ飯を食べるのと何ら変わらない。動物対動物の食物連鎖の血生臭さゆえに、ジャガーが草食動物を「襲っている」という印象を強く抱いてしまうが、ジャガーは食材を調達して食事をしているにすぎない。自然界に棲息するジャガーと違って、動物園の片割れは調達などしないが、それでも自力での調達本能を失ってはいない。この本能があるからこそ、飼育員はいつでも狙われているのである。


食性について考えていくと、必然食物連鎖に辿り着く。絶滅危惧種を案じるものの、食物連鎖に関わる植物・動物の《食う・食われるの関係》においては、食う側のみが生き残り、食われる側が滅びることはふつうありえない。経済論理では食う側(捕食者)ばかりが得して食われる側(被食者)が損することになるが、食物連鎖はそんな単純なものではない。そこには損得観念などはない。自然の摂理はめったなことではバランスを崩すことはないのである。

味にせよ食物にせよ、動物には一定の食性がある。シカは生のまま草を食べている。塩・コショウやドレッシングを使っている様子はない。コアラは無添加ユーカリ一筋、イワシは動物性プランクトンが主食である。ほとんどの動物は食性的には「挟食」を特徴としている。「広食」の最右翼が人間であり、日本人はそのリーダー的存在だ。一昨日の昼はフレンチ、夜は煮魚、昨日の昼はパスタ、夜はサムギョプサル、今日の昼は鶏の竜田揚げにお惣菜、夜は天ぷらそば、明日の昼はタイ風カレー、夜は酢豚に餃子……まさに日替わり。こんなに手広く何でも食べる雑食人種は他にいない。

ぼくはこれまで出されたものを一度も拒んだことはない。だから、好き嫌いや食わず嫌いをする者の気持ちがわからない。それでもなお、食性のことを考えれば、何でもかんでも食べることなどないと偏食者を擁護しておく。欧米の子どもたちが納豆やコンニャクを嫌がっても、親が「好き嫌いを言わないの!」などとしつけるはずもない。同様に、日本の子どもたちがピーマンやチーズを嫌がっても無理に食べさせることはない。嫌なものを無理に食べるよりも、好きなものをたくましく食べるのがいい。ジャガーのように。

 〈続く〉

私家版食性論(上)―何を食べるのか

食材を浪費し調理されたものを廃棄するなどもってのほか。注文したものを食べ残し、注文されもしないものを作り置きすることにはやむをえない事情もあるだろう。だが、できれば避けるべき、恥ずべき行為だと自覚しておきたい。そもそも賛否を問うようなテーマではない。

さて、食べるということに関して、ぼくは両極の間でつねに揺れ動いてきた。一方で、つべこべ言わずに何でも食べるべしと考え、他方、旬のものだけを食べていればよしとも思っている。このような二律背反に直面するたびに〈食性〉ということばがアタマをよぎる。食性とは、人間および動物全般に見られる食べ物の性向のことである。食材を広げるのか狭めるのか……どちらを選ぶかによって何を食べるのかが決まるが、文明以前の人類にとっては選択の余地などあるはずもなかった。生き延びるために環境適応を最優先した。環境要件のうち食風土が第一決定因であり、まさに「foodフードこそ風土」だったのである。

ところが、文明の萌芽とともに地域どうしの交流が始まると、目新しい食材で胃袋を満たすようになり、かつて固有の風土によって制限されていた食性が広がるようになった。たとえばローマ時代の富裕層の食卓は、わざわざ食す必要もない珍奇なゲテモノで彩られた。現代に生きるぼくたちも、固有種以外の食材や料理を日々堪能し、本来の食性を大きく変えている。さて今日は何を食べようかと、のべつまくなしに箸やフォークが迷っている。


炭火焼きウルテ.jpg写真は、炭火で「ウルテ」を焼いているシーンだ。焼肉店でこれを注文する人はぼくの回りに多くはいないが、好きな人はこの一品を欠かさない。ウルテとは牛の喉の軟骨。鶏の軟骨よりも硬いから、あらかじめ細かく包丁を入れてある。切れ目はタテ・ヨコに入っており、片面に焦げ目が付いた頃にひっくり返すと網に軟骨の粒がくっつく。漬けていたタレが切れ目に浸み込み香ばしく、独特の歯ごたえがある。もちろん、こんなものを食べなくても人は生きていける。わざわざ好んで食べることもない。ロースばかり食べる人もいれば、ホルモンにこだわる人もいる。牛の部位に限っても、人には人の食性があるのだ。

「動物の世界に目を移してみると、モグラは昆虫を食べ、ウシやヒツジは草を食べ、オオカミやライオンは肉を食べる。食べるものの種類は極めて少ないわけだが、これらの動物を偏食だという人はいない。どの動物も、”ある一定の食物を食べる性質”があるのだ。それを”食性”という。それぞれの動物によって食性が異なるように、人間もまたさまざまだ」(『粗食のすすめ』)。

著者の幕内秀夫はこう言って、それぞれの民族が偏食していると結論する。もっとも、偏食は偏食でも風土という自然に則したもので、単なる好き嫌いなどではない。

おおむね玄米と味噌と少しの野菜と近海の魚で生命を維持してきた日本人は、文明開化以降、望めば世界中の食材を手に入れられるようになった。何を食べるかという選択肢は間違いなく増えた。けれども、選択肢に比例して何でも食べるぼくのような広食性人間もいれば、かたくなに食性を限定的に維持している狭食性人間もいる。ぼくが広食性なのは単純な理由で、食べ物にあまりエゴイズムを持ち込みたくないということに尽きる。

一つだけ確実に言えることがある。旬を中心とした摂理ある食性は、好き嫌いによって形成された食性とはまったく別物だということだ。 

〈続く〉

ゴールデンステート滞在記 ロサンゼルス⑤ 食の愉しみ

「食は何とかにあり」とはよく聞く言い回しだが、食材の豊富さだけが食の本分ではない。それぞれの土地で評判になっているものを口にする――それが基本だろう。食材の豊富さ、料理のバリエーション、味や凝り方に関しては、日本が世界の最高水準であることに疑う余地はない。

しかし、比較してはじめてわかるうまさなどどうでもいい。半月前に大阪で食べた寿司と数日前にカリフォルニアで食べたペルー料理の旨さを比較することにほとんど意味はない。今こうして食べている料理が、その場にいる自分にとってうまいかどうかがすべてだ。空腹度、体調、ひいては屋外か屋内か、何と一緒に食べるかなどによって味は見事に変わる。

郷に入っては郷に従えこそが食の原点。ぼくは何でも食べる。いったん食べようと決めたら、太るとか健康によくないとか考えないことにしている。そう思うときは最初から口にするべきではない。前に紹介したレアステーキは、450グラムと書いたが、実は550グラムだった。高級な部類に入るステーキだが、8ドルと聞いて腰を抜かすほど驚いた。これを完食したぼくにも座布団一枚だ。もう霜降り幻想を捨てたほうがいい。

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近くの土曜マーケット。
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ペルー料理の屋台。二番人気のチキン焼きめしを賞味。
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見慣れない野菜もちらほら。
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1.5ドルのホットドッグ。食べ応え十分。
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メキシコ産のなすび。4、50cmの驚きの長さ、大きさ。
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豊富なフルーツの種類。特に桃の品種が多い。
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COSTCO(コストコ)の陳列はすべてダイナミック。
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レジを通過した直後の壁に貼ってある「会員サービス優秀従業員一覧」。
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レジで処理する個数、スピード、ミスの少なさなどに基づいてランキングを毎日更新して発表している。
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モールのカーニバルフェアはさしずめ夏祭りか。アメリカ人と言えば「ポップコーン大好き」というステレオタイプな印象があるが、まったくその通り。一人で洗面器一杯分を食べている人がそこらじゅうにいる。
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ビバリーヒルズで食べたハンバーガー”クラシック”。
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手前がベーコン添え。右がオニオンリング。
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バーガーショップのカウンターに置かれたジュークボックス。音楽はここからではなく、店内のスピーカーから流れる。60年代の曲が多かった。ニッケル(5セント硬貨)一枚で一曲。興味を示していると、店長が硬貨を数枚置いてくれた。つまり、ただということだ。