盤上の関係

chess.png「盤上」などと書くと、ソチの冬季五輪も近づいているから銀盤の舞を連想するかもしれない。実は、チェスや将棋などの盤上の駒の話である。フィギュアスケートの華麗さとは違って地味なテーマだが、言語の比喩として見直してみると気づきが多い。

一つのことばを、他のことばから切り離して単独で眺めてみると、これほど非力で無味乾燥なものはない。ある言語における単語Xは、それ自体何の意味も持たない。それなのに、受験勉強という名のもとに、なぜ英単語を部品を扱うかのように丸暗記しようとしたのだろう。不幸なことに、ほとんどの英語教師はあのような学習の代案を創造的に示してくれなかった。

先日、古本屋でソシュール研究者の丸山圭三郎の本を偶然見つけた。『欲望のウロボロス』という書名だ。ウロボロスについて書き始めると別のテーマになるので省略するが、この本に所収の小文「チェスと言葉」をとても興味深く読んだ。「ソシュールが指摘したチェスと言葉の共通性は(……)その価値を関係という基盤においている」、つまり、相互依存という関係性においてチェスの駒と単語は類似しているのである。


盤上の駒の価値はチェスのルールに支配されると同時に、それぞれの位置に相互に依存している。個々の駒にはさほど価値はなく、盤上の駒どうしのネットワークにこそ意味がある、というわけだ。単語の意味も同様で、文脈の中で相互にもたれ合い関係し合って意味を生む。チェスのプレイヤーがルールや駒どうしの関係をにらみながら手を指すように、言語の使い手であるぼくたちも文法やそのつどの状況、ひいては社会や文化の枠組みの中でことばを選んでいる。
「右」という単語は「左」に依存し、左は右に依存する。左という概念がないときに誰も右などとは言わないのである。同じく、父、母、兄弟姉妹、祖父、祖母、おじ、おば、いとこなどの表現も親族関係全体の中でこそ意味を持つ。池、湖、海、沼などもそうである。そして、このような関係のネットワークは言語ごとに固有の特徴を示す。ある国で生まれ、その国で使われている母語を習得していく過程で、無意識のうちに構造の縛りを受けるのだ。
日本語では「水」と「湯」は別のことばである。しかし、英語では“water”しかなく、それに“hot”を付けて湯を表現する。ぼくたちは兄弟や姉妹を表現するとき、年上か年下を強く意識するから「兄弟は何人?」と聞かれて「兄が一人」とか「弟が二人」と答える。他方、英語圏の人たちは“brother”“sister”でそれぞれ兄弟と姉妹を表現してしまう。ジョンがトムの兄であるか弟であるか、またベティがメアリーの姉であるか妹であるかにはぼくたちほど強い関心を抱かないのだ。
だからと言って、何事においても日本人のほうがデリケートに言語表現をしているわけではない。魚の種類や部位の名称の細分化にこだわる風土ではあるが、ほんの半世紀か一世紀ほど遡れば牛肉の部位の名称などには無頓着だったのである。

『考えるヒント』のこと

「考える」ことも「ヒント」を授けられるのも三度のメシよりも好きなわけではない。だが、これら二つがくっついて「考えるヒント」になると、俄然目の色が変わってくる。うまく言い表せないが、仕事柄、この言い回しと語感に色めき立つ。自覚などしないが、もしかすると知への憧れとコンプレックスが錯綜する結果なのかもしれない。

文芸評論家の小林秀雄に『考へるヒント』という著作がある。受験必読書だったはずで、60年代末から70年代初めにかけて読んだ記憶がある。最近では「へ」から「え」に変わって『考えるヒント』として文春文庫から出ている。数年前に久々に読んでみたが、かつてさっぱりわからなかったことが普通に読める。四十年間のうちに少しは年季が入ったのかもしれぬと勝手に思っている。
『考えるヒント』の「言葉」というエッセイの冒頭にこうある。
本居宣長に、「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という言葉がある。(……)ここで姿というのは、言葉の姿の事で、言葉は真似し難いが、意味は真似し易いと言うのである。
唐突に読むとわかりにくいが、ことばとその意味を比較すれば、「ことばが第一、意味はその後」ということだ。「ことばはマネできても意味までマネできない」という常識的な見方に対して正反対のことを主張しているからユニークなのである。このエッセイを再読した頃はちょうどソシュールも勉強し直していたので、大いに共感した。本居宣長の言語と意味への洞察に関心したものの、1978年に小林秀雄が日本文学大賞を受賞した『本居宣長』を読まずに現在に至った。そこまでは手が回らなかった。

小林秀雄がある講演で自著に触れた。決して安くもない単行本、しかも通常の教養程度ではちょっと読んでもすぐさま理解できる内容でもない。もっと言えば、本居宣長に関心がなければ読むはずもない本である。ぼくの回りを見渡しても、本居宣長に通じている知性はほとんどいない。

この本が著者と出版社の予想をはるかに超えるほど売れた。何万部も売れたと出版社から知らされた小林本人が驚く。そんなに売れるのはおかしいじゃないかと言わんばかりである。行きつけの鰻屋に行ったら、女将が「買って読んでいますよ、先生」と聞かされてたまげたらしい。
数か月前、これを古本屋で見つけた。貼ってある小さなラベルに300円とある。買ってそのままにしていたのは、これを読む前にもう一度『考えるヒント』『考えるヒント2』『考えるヒント3』などに目を通しておこうと思ったからである。と言うわけで、遅ればせながら読んでみようと思っているが、他にも読みたい本が何冊もあるし併読型飽き性でもあるので、どうなることやら……。

「はい!」 元気な返事は要注意

自分が「はい!」と元気よく反応することもあるし、相手がこちらに対応して「はい!」と元気な場合もある。ぼくはめったなことでは調子よく愛想を振りまかないが、「来週に大阪? じゃあ、食事に行きましょう」と軽やかに条件反射することはある。しかし、「は~い! ぜひぜひ!」と愛想よく返事をする人と実際に食事をすることはきわめて稀である。逆も真なり。「近々相談に乗ってくださいよ」に対して「はい!」とぼくが元気に答えるときも、めったに仕事成立には至らない。

元気な返事が一種の虚礼であり社交辞令であり人間関係の潤滑油であることを知ったのは、十年くらい前。ずいぶん晩熟だったものだ。それまでぼくは、「はい」とは承諾であり賛成であり実現に向けて努力をする意思表明であると純粋に考えていたのである(「はい!」と元気よく返事されたら、ふつうは性善説に傾くだろう)。だが、ぼくはもう騙されない。考えてみれば、「はい」で会話が終わること自体が不自然なのだ。実行に至るのなら、どちらか一方から「では、日時を決めましょう」となるはずである。


事はアポイントメントにおける「はい」だけに終わらない。「例の案件、考えてくれた?」に対する「はい!」にも気をつけるほうがいい。経験上、「考えた?」への「はい!」は十中八九考えていないし、「分かった?」への「はい!」も99パーセント分かっていないし、「できる?」への「はい!」は「できないかも」と同義語である。最近のぼくは「はい!」は”イエス”ではなく、「とりあえず返事」であることを見抜いている。だから、「はい」で会話を終わらせてはいけない。コミュニケーションが少々ギクシャクしても、“5W1H”のうち少なくとも二つくらいの問いを追い撃ちしておいたほうがいい。ついさっきも、元気な返事の欺瞞性を暴いたところだ。

夕方4時半に来客がある。コラボレーションでできるビジネス機会について意見交換をする。担当のA君に内線で確認した。「何かテーマなり提案内容を考えてる?」と聞いたら、「はい!」と返事が元気である。言うまでもなく、この開口一番の「はい」は「考えていない」ことを示す兆候だ。「たとえば?」でもいいのだけれど、あれこれと取り繕う可能性もあるので、ちょっとひねって「考えたことを紙に書いた?」と、逃げ道のない追い撃ちをかけた。「いえ、書いてはいません」と彼。この後、考えていないことが暴かれていった2分間の経緯は省く。

ソシュールを乱暴に解釈すれば、書いたり話したりするなど言語化できないことは「アタマの中でも考えていない」ことになる。ことばを発して初めて思考は成立する。「口に出したり書いたりはできないけれど、ちゃんと考えていますから」はウソである。「考えてはいるけれど、うまく言えない」というのもコミュニケーションの問題ではなく思考力の問題である。うまく言えないのは語彙不足だからであり、語彙不足ならば理性的思考はしづらいだろう。厳しい意見になるが、「うまく言えないのは、考えていないから」なのである。


「はい!」はぼくへのウソであると同時に自分への偽りだよと、A君に言った。人間は自分が考えていると思っているほど考えてはいない、とも言った(ぼく自身の反省でもある)。最後に「このブログに『A君につける薬』という新しいカテゴリを作ったら、『週刊イタリア紀行』よりも人気になるかもしれないな」と言ったら、「いや、それはご勘弁を」と平身低頭。「ネタは無尽蔵なんだけどなあ」とぼく。いずれ本にして出版してもよい。すでに「あとがき」までできている――「書物に、実社会に、人間関係にと、A君につける薬を求め続けたスキル探訪の旅は終わった。結局、そんな薬はなかった。最後の頼みは、A君自身の毒を以って毒を制すことである」。