妙薬依存症候群

ドニゼッティに『愛の妙薬』というオペラがある。観劇したことはないが、ラジオとCDでそれぞれ一度ずつ聴いたことがある。気弱でもてない男が薬売りから「飲めば恋が実るという妙薬」を法外な値段で買う。実はワインなのだが、プラシーボというもので、男はたちどころに陽気になり気も大きくなる……こんなふうに第一幕が始まる。野暮なので、結末を明かすのは控えておく。

妙薬に「愛」がくっつくと、どういうわけか秘薬や媚薬のニュアンスが漂うが、元来、妙薬とは病気に効き目のある薬のことだ。転じて問題のソリューション(解決)という意味で比喩的に用いられることもある。医薬品はもとより、「○○○に効く」というふれこみで次から次へと売り出されるサプリメントも妙薬として期待されているに違いない。
だが、実際に妙薬が効くかどうかはにわかに定まらない。オペラに出てくる男がその気になったように、多分に偽薬効果だろう。たとえば、「アントシアニンを摂取すれば血液がさらさらになる」もこの類。ぼくたちは、アントシアニンという物質の存在も名称も知らなかったはずだが、ちゃんと黒豆を食べてきた。「ようし、アントシアニンを摂取して活性酸素を抑えて血液をさらさらにするぞ!」などと決意して黒豆を食べているわけではない。
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現代人は常日頃心身の不安に苛まれている。ドラッグストアを覗けば、対症療法的な医薬品やサプリメントがずらりと並ぶ。それを病の素人であるぼくたちが、自分の体調不良や体調不安、あるいは際立った症状に照らし合わせて買っている。考えてみれば、綱渡りのような選択なのである。もっとも、話は店売りだけにとどまらない。
昨年暮れに喉に痛みがあったので耳鼻咽喉科で診てもらった。「風邪ではなく、炎症でしょう」と診断されて痛み止めを処方された。同時に、「胃はお丈夫ですか?」と聞かれた。「ええ」とぼく。「では、胃薬は出さないでいいですね」と医者。つまり、この鎮痛剤が通常の胃の持ち主にとってはダメージが強いほどの「劇薬」であることを暗に示している。歯医者では、尋ねもせずに、自動的に鎮痛剤と胃薬の両方が処方される。
妙薬だけに、とても奇妙な話である。効き目を期待して飲みながら、その効き目の副作用を消すために別の妙薬を服用するのだ。妙薬にプラスとマイナスがあれば、差し引くと「妙味がない」ことになる。世間と時代はこぞって妙薬を求め依存し、その行為によって症候群に陥ってしまっている。とここまで書いて、月並みな教訓で終わることになりそうだが、経口するものだけが妙薬ではないことを知っておくべきだろう。情報、能率、他力、権威、仲間……これらもすべて毒性を秘めた妙薬なのである。

正解幻想論

「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

これは魯迅が残したことばだ。相田みつをにも、「歩くから道になる 歩かなければ草が生える」という表現がある。

伝えようとしたニュアンスは微妙に違うのかもしれないが、「人はすでにできている道を歩いたのではなかった。歩いたところに道ができた」という意味はほぼ同じ。

これら二つの言にアタマを巡らせていると、問題と解答の関係によく似ていることがわかる。つまり、正解など最初からどこにもなく、問題を解こうと努めることによってのみ正解が生み出されるということだ。解こうとする試みが答えを導くのであって、解こうとしなければ何も見えず混沌とするばかりなのである。

ここで注意しておきたいのは、《起点→→→終点》において、終点という到達点だけが問題解決なのではないという点だ。ソリューションとは「水溶液中でモノが徐々に溶けていく過程」を意味する。「→→→」が解を求める苦心の過程なのである。終点で正解が得られるかどうかは誰にもわからない。しかし、自ら正解をひねり出そうと努めたことは必ず将来に生きてくる。

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「正解が見つからない、だからわからない」と言うのと、「正解などないから、わからない」と言うのでは、同じわからないでも覚悟が違う。前者は不安に苛まれ焦りに到る。他方、後者は潔く観念している。諦めているのではなく、「正解などどこにもない」と割り切っている。つまり、正解は自ら創造するしかないという思いがある。

「この場面ではどんな手を打つべきでしょうか?」と相談されても、それに対する助言はぼくの考える正解である。その「道」をお手本にするのはいいかもしれないが、同じ道を歩いてもしかたがない。もっと言えば、この質問者がぼく以外の誰かに同じ質問をして、まったく別の助言を求められたらどうするのだろう。結局のところ、自分で決めるしかないではないか。人の意見に右往左往するくらいなら、自力で未体験ゾーンに飛び込んで考えるのがいい。

正解は「発見」するものではない。「発明」するものである。どこかの国のように偽装と捏造は困るが、自らの創意工夫によって正解を生み出すのである。

魯迅や相田みつをの言に反して、今の時代、道はどこにでもあるかのように見える。しかし、たとえそうであっても、自分が歩むべき道は自分でつくるしかない。正解を求めるのに急な現代人は、他人のつくった出来合いの高速道路をすぐに走りたがる。途中の過程を短縮化してひたすら目的地へと向かう。誰もが同じく陳腐な答えばかりを出しているのはこのせいである。

ソリューション雑考

問題を解くという素朴な意味でソリューションということばを使っているのに、ぼくの意に反してずいぶん大仰に受け取る人たちがいる。彼ら流ではソリューションビジネスとかソリューションサービスと言うのだろうが、分野によってはソリューションはコンサルティングやシステム構築を含んでしまう。情報機器関連の業界では、もう二十年近く前からアフターサービスやメンテナンスもソリューションの一形態と見なしてきた。

ぼくの使うソリューションには「人力的」で「原始的」という含みがある。英語の辞書を引けばだいたい二番目に出てくる「溶解」または「溶かすこと」に近い。固形の問題を水溶液に入れて跡形もなく消してしまうというイメージ。日本語でも英語でも「ソリューションを見つける」という言い回しをよくするが、たしかに既製の水溶液を見つけてきて、そこに問題を放り込んできれいさっぱり解かせる場合もあるだろう。

しかし、いつもいつも運よくどこかに解法が存在しているとはかぎらない。問題に直面すれば自力で解決策を講じたりソリューションを捻り出したりせねばならない場面が多いのである。つまり、固形物を自ら粉砕せねばならないのだ。粒が残ることもあるだろう。そのときは、手作りの溶液へ投じて攪拌せねばならない。現実に照らしてみると、人力的かつ原始的に試みられるソリューションのほうが頻度が高いと思われる。なお、難度の高い問題が必ずしも高度なシステムとソリューションを必要とするわけではない。ぼくたちが抱える問題の難易度と解法のレベルは、数学や物理学とは違う。仕事や生活上の難問は案外簡単な方法で解けてしまったりすることもある。

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誰かの問題であれ組織や社会の問題であれ、人はまず足元の問題を解決しようとする意志と情熱によって様々な方法を実践できなければならない。自分の困りごとやニーズに気づきもせず改善努力をしない者が、他者の困りごとやニーズに気づいたり気遣ったりできるはずがないのである。まず己のソリューション。これが自力という人力である。そして、何が何でも問題を解いてやるぞという意志と情熱。この「何が何でも」が、ぼくの言う原始的方法に呼応する。己のソリューションができてはじめて、他者のソリューションのお手伝いができる。

問題や課題を探すのが上手な人は五万といるが、彼らのほとんどは解決を苦手としている。問題のない状態が一番いいわけで、のべつまくなしに問題が発生するのを歓迎しない。ソリューション大好き人間などめったにいないのである。「好きこそものの上手なれ」と教えても、好きになれないのだからどうしようもない。ならば、「下手こそものの上手なれ」と言い換えてみようではないか。下手だから上手になろうとする習性があることを思い出そう。

たとえば「リヨンド・ガラソとは何か?」という問いは、調べて説明せよという問題なのか、それとも想像せよという問題なのか。この問いは、「売上アップ」や「薄型携帯のデザイン」などと同じ課題なのか。問題の記述文はソリューションの着地点を決定づける。忘れてならないのは、ソリューションとは問題のある現状を理想的な状況に変革する方法という点である。したがって、「リヨンド・ガラソとは何か?」はソリューションを求めているのではなく、意味や由来を図書館かインターネットで調べてこい、もしくは、ラテン系らしい語感を頼りに誰かに聞いてこいと指示しているのである。

残念ながら、リヨンド・ガラソをGoogleで見つけることはできない。なぜなら、ラテン系の表現でもなく地名でもなく、ぼくが窓を開けて空を見上げたときに「そらがどんより」とつぶやき、それを逆から発音して「りよんどがらそ」になっただけの話だからである。世の中には、この例のように、ソリューションの対象にならない問題や課題もあるから気をつけよう。

日本人の国際感覚

〈日本人の国際感覚〉などの素朴なテーマほど厄介なものである。昨日や今日になってこのテーマに触発されたわけではない。それどころか、ずいんぶん長く付き合ってきた。英語や比較文化に関心を寄せた頃からなので、かれこれ40年にはなる。さらりと日本人の国際感覚と言ってのけるほど、対象とする日本人が単一でも同質的でもないのはわかっている。しかし、さほど神経質になって多種多様に類型化することもないと最近思うようになった。

国内に引きこもろうが世界を舞台に活躍しようが、環境や状況とは無関係な日本人的国際感覚がありそうだ。国際感覚のしっかりしたコスモポリタンだと思っていたら、国際感覚とは名ばかりのローカルジャパニーズであったりする。頻繁に海外に出掛けたり長く海外に駐在したりしていたにもかかわらず、変わらぬ日本人的脆弱さを引きずっている人たち。ぼくには「国際度偏差値」の高い友人や知人が大勢いるが、彼らが外国人とほんとうに丁々発止のコミュニケーションをしてきたのだろうかと、大いに疑問を抱くことが少なくない。

曖昧でしっくりこない表現だが、敢えて「平均的日本人」ということばを使うなら、自他ともに認める国際派日本人でも、平均的日本人の国際感覚しか持ち合わせていなかったりする。世界で活躍するお偉方たちのほとんどが日本的感覚に縛られた「現象的国際人」にすぎないのである。日本的な国際人はいくらでもいるのだが、国際的な日本人にはめったにお目にかかれない。したたかな国際感覚を磨いておかなければ、真に強い国際適応力ないしは国際競合力を備えることはできないだろう。

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では、国際感覚とは何だろうか。世界の人々と仲良くビジネスをして交流していれば身につくものなのか。答えは明白にノーである。誰も他人ともめたくないだろう。他人が日本人であれ外国人であれ、できることならいがみ合わず、衝突が起こりそうならば未然に防ぐべく寛容であろうと努め、必要ならば妥協もする。しかし、このような融通無碍の振る舞いは、やがて無難へと傾き、仲良し友達であろうとするあまり差し障りのない方途を選ぶ結果となる。このような感覚は、実は国際感覚の小さな一部にすぎないのである。

ぼくたちの国際感覚に徹底的に抜け落ちている資質、それは有事における交渉を通じてのソリューションだ。この能力を仲むつまじい国際交流で養うことはできない。もちろん、ここで言うソリューションは、何でもかんでも「ノーと言える日本人」になることではない。勇気をもってノーと言えても、問題や交渉事が解決する保障などない。問題解決こそがゴールであって、ノーかイエスかばかりにこだわっていても功を奏さないのである。

管直人が「会談」と称する首脳どうしのトークを胡錦濤が「会話」と片付ける。わが国首相は手にペーパーを携えて一言一句神妙に発言し、中国の主席はいかにも軽妙に談話する。完全にいなされているように見えたのはぼく一人か。関係好転に向けての努力だけで事が片付かないのが国際舞台の常識である。たとえ雲間に光が射し込む気配を感じても、折り畳み傘の一つくらい用意しておかねばならない。雨はいつ降ってもおかしくない。雨で済めばいいが、嵐が吹き荒れ雷も落ちてくる。のっぴきならぬ事態に直面して逃げ腰になっているようでは真の国際感覚とは言えまい。問題は発生するものであり、いったん発生したら何が何でも解決へと矛先を向けなければならない。問題を水に流し、棚に上げ、なかったことにするような仲良し国際感覚の日本人ばかりでは、早晩舞台の袖から落っこちてしまうだろう。

策がないと嘆く人々

「アイデアのかけらも出てこない」と嘆く人がいる。嘆くことなかれ。凡庸なぼくたちにそう易々とアイデアは訪れてくれない。いや、アイデアというものは、神仏がどこかから突然降臨するように「やって来る」ものではない。特に、怠け者の空っぽの頭とはまったく無縁だろう。

アイデアは、自分の脳から絞り出すしかない。ある情報が触媒となって既知の何かを刺激し鼓舞してひらめく。あるいは、その情報が既知の何かと結ばれて異種なる価値を生み出す。アイデアはこのようにして生まれるのだが、アイデアの萌芽に気づかなければそれっきりである。実は、アイデアは質さえ問わないのなら、いくらでも浮かんでいるはずなのだ。しかし、呑気に構えるぼくたちはアイデアの大半を見過ごしてしまっている。

「万策尽きた」と生意気なことを言う人もいる。「万策など考え試せるはずがないではないか」と万策ということばに屁理屈を唱えるつもりはない。万策が誇張表現であることくらいはわかっている。人間の考えうるありとあらゆることなどたかが知れているのだ。たいていは、二案や三案考えておしまい。いや、数が多いのがいいと言っているのではない。ぼくが指摘したいのは、脳が悲鳴を上げるほどアイデアを出そうとしたり策を練ろうとしたりしていないという点である。

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ここ数年、テーマとソリューションの関係について考え続け、一つの確信を得るようになった。できる人間はテーマが少なくてソリューションが豊富、他方、できない人間ほどテーマを山積させてソリューションが絶対的に不足してしまう。正確に言うと、後者は仕事ができないことを穴埋めするためにどんどん課題を見つけて抱え込むのである。どこか官僚的構造に似通っているように思わないだろうか。とりわけ、掲げる理念に見合った政策が実施できていない。

いつの時代も、マクロ的に社会を展望すれば「テーマ>ソリューション」なのである。問題の数は解決の数よりもつねに多い。クイズは千問用意されるが、千問すべてが正答されることはない。しかし、特定の一問だけに絞ってみれば、そこには複数解答の可能性がある。企画の初心者は、とりあえず当面の一つのテーマについて、できるかぎり多くの策を自力でひねり出す習慣を身につけるべきだろう。二兎を追う者の策は限定され、結果的に一兎をも得ない。しかし、一兎のみを追おうとすればいくつかの方法が見えてくるものである。

アイデアは鰻のようだ。尻尾を掴めたと思ってもするりと逃げる。アイデアは泡沫うたかたのようだ。方丈記をもじれば「アタマに浮かぶアイデアはかつ消えかつ結びて」なのである。油断していると、すぐに消えてしまう。では、どうすればいいか。「ことばのピン」で仮止めするしかない。アイデアはイメージとことばの両方で押さえてはじめて形になってくれる。

最後にまったく正反対のことを記しておく。アイデアは出る時にはいくらでも出る。複数のテーマを抱えていても、出る。何の努力をしなくても、出る。ぼんやりして怠けていても、出る。ふだんから「何かないか」と考え四囲の現象や情報に注視する癖さえつけておけば、出やすくなるのだ。運命を担当する神は気まぐれだが、アイデアを仕切る神は努力に応じた成果配分主義を貫いてくれる。少しは励みになるだろうか。 

問題、そして解決

問題と解決が一体化して「問題解決」という四字熟語になってから久しい。心理学の主題として始まりすでに1世紀が過ぎた。ぼくの場合、問題解決というテーマとの付き合いは30年前に遡る。ちょうど広告業界に転職した頃で、製品訴求メッセージにどのように問題解決便益を盛り込むかを思案していた。一番最初に読んだ本が『問題解決の方法』(岡山誠司)。本棚に残っていた。奥付には昭和五十六年十二月二〇日第一刷発行とある。

久々に傍線部のみ目で追ってみた。少しずつ記憶が甦ってきて、数ヵ所ほど現在も拠り所になっている文章に出くわした。たとえば「なぜ人間は、問題を解こうとするのか。これについては、『人間とは環境の中で生き残り、うまく機能していこうと努力する生きもの』であると仮定することによって、基本的には理解できるようである」という箇所。あれ、これは最近どこかで使ったぞと思い出す。昨年の私塾の『解決の手法』で紹介している。最初に読んだときにメモしていたカードから引用していたのである。

次の一文も現在のぼくの考えの一部を支えている。「情報を取りこむのは、保有する知識と多少異なっているばあいであり、取り入れ(同化)られると、その情報は知識の一部を変形し修正(調節)する。こうして知識は、一段と洗練(再構造化)され、よりよく生きるのに役立つものとなる。」 強引に読むと、持ちネタが足りなければ、ぼくたちは外部の情報を取り込んで問題解決に役立てる、ということだ。新しい問題に対しては、定番の解法では不十分であり、その問題と共時的に発生している人間的・社会的現象に目を向ける必要がある。

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問題解決という、こなれた四字熟語を一度解体してみる。それがタイトルの「問題、そして解決」の意図である。問題と解決を切り離してみてはじめて気づくことがある。たとえば、問題がなければ(問題に気づかなければ)、解決の必要性に迫られない……問題が起きたら、解決しようとする、少なくとも解決しなければならないと思う……自分の責任で問題を起こしてしまったら、当然のことながら解決すべきである……未曾有の問題なら解決すべきであると十分に認識しても、うまく解決できるとはかぎらない……。まあ、こんな具合に、「問題と解決」のいろいろな構図が見えてくる。

要するに、四字熟語として問題解決を眺めてばかりいると、問題と解決の間の距離に鈍感になってしまうのである(ぼくはかねてから”ソリューション”という便利なことばにその鈍感さが潜んでいると思っていた)。ところが、上記のように「問題、そして解決」と切り離してみれば、問題を認知し原因を探り当てることと、それを解決することが大きく乖離していることに気づく。前に、ヴィトゲンシュタインのことばを引いて「およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」と書いた。問いと問題には類似する点もあるから、「問題が見つかれば、解決することができる」と言えなくもない。しかし、問題の大きさと質による。問題を見つけるノウハウと解決するノウハウは、たいていの場合、まったく異質である。

問題解決で手柄を立てるには、放火魔消防士になるのが手っ取り早い。自分で火をつけ(問題を起こし)、第一発見者となって火を消し止める(問題を解決する)。本来問題でも何でもないのに、やたら問題視して処方するのがやぶ医者だけとはかぎらず、あなたの周辺やあなたの会社にもそんな連中がいるかもしれない。しかし、もっと手に負えないのは、自ら問題を引き起こしていながら、そのことに気づかず、解決の手立てを講じない輩だ。まるでお漏らしをしてただ泣いているだけの乳幼児である。

世の中には解決しなくてもいい問題もある。それは単なる現象であって、「問題」と呼ぶこと自体が間違っているのだ。問題を見て、「解決できそうだ」「解決すべきだ」「(何が何でも)解決したい」という三つの知覚が鮮明になる時、鋭利なソリューションへの道が開ける。さもなければ、解決の機が熟していないか、尻に火がつく問題でないかのどちらかである。    

「です・ます」のギマン

再来週から京都で4年目を迎える私塾の第1講と第2講の講義テキストを併行して仕上げている。実は、まだだいぶ先の5月のほうが進んでいて、間近の『テーマと解決法の見つけ方』のほうに少しアタマを悩ませている。とか何とか言いながらも、テキストは明日仕上げるつもり。

話し慣れたテーマなのだが、いつも同じパターンではおもしろくない。そこで、仕事やビジネスの問題・課題と、プラトンから始まる哲学命題のいくつかを重ね合わせて新しいソリューション発見の切り口を提供しようと考えた。しかし、実際に考え編集していくと、きわめて無茶な試みであることがわかってきた。とても難解になってしまうのである。自分で悦に入っても、塾生にはチンプンカンプンの可能性がある。さりとて、もはや「やっぱりや~めた」というわけにもいかず、思案した挙句にテキストを「です・ます」で書くことにした。

順調にテキストの半ばまでそのように書いてきた。そして、出来上がったところまで再読したところ、「です・ますの欺瞞性」に気づいてしまった。「問題が山積する時代。完璧なる正解でなくても、問題の原因に少しでも斬り込める解法を携えることができれば、時間と苦労は半減する。」とふだん記述するぼくが、「問題が山積する時代です。完璧な正解が出なくても、問題の原因に少しでも斬り込める解法を携えることができれば、時間と苦労は半減します。」と書いているだけの、情けない一工夫だったのである。

これで硬派な文章がやわらいだ気になるのは、どう考えても錯覚である。その錯覚を利用する書き手の思いは欺瞞に満ちている。やっぱり「です・ますは、や~めた」とさっき決意し、午後から書き直すことにした。

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「哲学入門」や「よくわかる哲学」などと題された本を読んでみて、何だかよくわかるような気がするのは、ひとえに「です・ます」の巧妙な罠のせいである。形而上学的な概念を表現するときは、概念そのものの専門性を控えるべきであって、文末で難度ショックをやわらげるなどというのは姑息な手法なのだ。

「君は何歳?」を「ぼく、おいくちゅですか?」と言い換えられる日本人の、言語表現における相手に応じた変わり身は大したものだと思う。だからと言って、「年齢を問う」という、実は高度な(?)抽象概念が変化しているわけではない。あるいは、厳密に言えば、表現がやさしくなっているわけでもない。年齢や性差に応じた表現バリエーションが豊富であるがゆえに、やむなく使い分けているにすぎない。

とにもかくにも、好んでぼくの話を聞きに来る人が、「です・ますオブラート効果」でわかりやすいと感嘆するとも思えない。いや、何人かいるかもしれないが、そんな類の梯子を使って彼らのところに降りて行くのなら、別の階段を用意してこちらの方に上がって来るように仕掛けるべきだろう。どんな階段? それは編集構成のわかりやすさである。

議論できる能力を養う

月曜日火曜日と二日連続で硬派なトーンで「知」について綴った。だが、翌日になって、あのまま幕引きしていていいのかという良心のつぶやきが聞こえた――「もう少し具体的にソリューションを提示すべきではないか」と。

いま「すべき」と書いた。「~すべし」は英語の“should”、ドイツ語の“sollen”と同じく定言命法と呼ばれる道徳法則だ(哲学者カントの道徳的命法)。これをディベートの論題表現に用いると、その命題はあらゆる状況に無条件に当てはまり、かつ絶対的な拘束力を持たねばならなくなる。たとえば、「わが国は死刑制度を廃止すべきである」という論題は定言的(無条件的)であって、例外を認めてはいけない。「~というケースにおいて」という条件を付けたり含んだりしてはいけないのである。

「わが国はハッピーマンデーを倍増すべきである」。この論題は、「現状の4日間のハッピーマンデー(1月、7月、9月、10月の指定された月曜日)を8日間にするアクションを取りなさい、しかもそのアクションが価値のある目的になるようにしなさい、これは絶対的かつ無条件的な命令です」と言っているのである。

「わが国は定額給付金を支給すべきである」は、ここに明示されていない金額と対象を除けば、「つべこべ言わずに可及的すみやかにこのアクションを取りなさい」と命令している。年齢によって金額を変えるのなら「一律12,000円」を論題に含めてはいけない。また、対象が国民全員ならそう付け加えるべきである。「~すべし」は命題で書かれたことだけに言及し、書かれていないことに関しては論者の裁量に任せる。

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「~すべし」という、例外を許さない命題を議論していると、激昂した強硬論争になりそうに思えるだろうが、いやいやまったく逆なのだ。イエス・ノーが極端に鮮明になる議論ほど、不思議なことに論者は潔くなってくる。自分への批判にも耳を傾けるようになるし、やがて度量も大きくなってくる。

ところが、「~ならば、~せよ」という仮言命法になると、ずる賢い論法を使うようになる。たとえば「定額給付金を支給するならば、生活支援とせよ」。すると、「定額給付金の支給には賛成だけれど、生活支援ではなく景気対策でなければダメ」や、「何らかの生活支援は必要だとは思うが、一律方式の定額給付金である必要はない」などと論点が条件的になってくる。議論に慣れていない人にとってはとてもややこしい。こんな「ケースバイケース」のディベートはおもしろくない。

記述する命題の文末が「~すべし」であれ「~である」であれ、ディベート論題の長所は是非を明確にすることであり、それによって論理が明快になる点にある。死刑制度の存続論者であるあなたは、自分の思想に近い立場から「死刑制度廃止」に反論することになるかもしれないし、まったく逆の立場から「死刑制度を廃止すべし」という哲学を構築し論点を証明しなければならないかもしれない。真っ向から対立する両極意見のどちらにも立って議論することにディベートの意義がある。だから、ぼくは抽選によって肯定側か否定側かのどちらかが決まり、一回戦で敗退したらそれでおしまいというトーナメント方式を歓迎しない。

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「死刑制度」、「ハッピーマンデー」、「定額給付金」のどれもが、大多数の人々にとってはもともと自分の外部で発生した情報である。これらが自分のところにやってきて、ただのラベルのついた情報として蓄積しているわけではないだろう。推論や思考によって、何らかの価値判断が下されて自分の知になっているはずだ。そして、その知と相反する知が必ず世の中に存在し、自分の周囲にもそんな知の持ち主がいるだろう。自分の知と他人の知を議論というルール上で闘わせるのがディベートだ。一方的な「イエス」を貫く知よりも、「イエスとノー」の両方を見渡せる知のほうが世界の輪郭は広がる。そして鮮明に見えてくる。議論能力が知を高めるソリューションなのである。