古いノートのノスタルジー

1977年+1983年ノート セピア.jpgぼくがオフィスで使っているデスクは、かなり幅広の両袖机。左右の袖にそれぞれ三段の引き出しがある。数か月前から右袖上段の引き出しの鍵穴が具合悪く、鍵を回して開け閉めするのに力をかけねばならなくなった。そして、ついに抜き差しもままならない状態に到った。左袖の鍵と錠はスムーズに開け閉めできるので、右袖に入れていた重要な書類や内容物を左袖の引き出しに移すことにした。

予期した通り、片付けや整理につきもののノスタルジーが襲ってきた。古い手紙や写真、メモの類をかなり大雑把に放り込んでいて、右から左へ、左から右へとモノを移し替えるたびに、見たり読んだりして懐かしんでしまうのだ。そして、紛失したはずの1977年~1983年頃(26歳~32歳)のノートを何冊か発見するに及んで片付けが長引いてしまった。突然過去がよみがえるというのも困ったものである。

学校教育に表向きは順応したものの、小生意気なアンチテーゼに縛られていたせいか、ほとんどノートをとらなかった。大学に入ってディベートに出合い、相手が高速でまくしたてる論点のことごとくを記憶することなど到底無理なので、記録することを余儀なくされた。そして、これが習慣形成されてきて次第に自分が考えていることや思いつくことをメモするようになった。十九歳の頃のことである。その頃から書き綴った大学ノートが数冊残っていて、小難しいことを肩肘張った文体で綴ったエッセイや、今読み返すと気恥ずかしくなるような短編小説や詩を書きなぐっている。

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1977年のノートには二十代の残りをいかに知的鍛錬するかという構想図とコンテンツが記してあった。大きなテーマとして、(1) コミュニケーション、(2) 要素化と概念化、(3) 雑学とユーモア、(4) 観察・発想、(5) 評論・批評の五つを挙げている。これらを自分のヒューマンスキルとして鍛えていこうという決意の表明だ。遠い昔とはいえ、自分で書いたのだからまったく覚えがないわけではない。そして、今もほとんど同じテーマを追っている自分の粘り強さを自賛すると同時に、もしかするとあまり成長していないのではないかと半分落胆もする。当時は確率や統計、それにシステムやメソッドに強い関心があったが、今ではさっぱり魅かれない。違いはそれくらいかもしれない。

稚拙ながらも、実にいろんなことを考えて綴っている。根拠のない自論を展開するばかりで、ほとんどエビデンスが見当たらない。ずいぶん本を読んでいた時代と重なるのだが、抜き書きには熱心ではなかったようだ。ところが、1980年代に入ると、エビデンス量が増えてくる。雑誌や書物からそっくりそのまま抜き書きしているページが長々と続く。明らかにノートの方法が変わっているのだが、どんな心境の変化があったのかまで辿ることはできない。

海外雑誌の要約的翻訳もかなりある。たとえば、1983117日のNewsweekの「初歩的ミスを冒すプログラマー」という記事がその一つ。

「コンピュータの専門家が陥る落とし穴を露呈したのが、『アルファベット入門』プログラム。最初に出てくるスクリーンメッセージは『こんにちは。きみの名前をタイプしてください』というもの」。
アルファベットを綴ってからアルファベットを習い始めるという本末取り違えのナンセンスだが、この種のネタは今もお気に入りのツボである。
以上、たわいもない過去ノートを懐かしんで綴った小文である。ただ、点メモの断片をページを繰って一冊分読んでみると、そこに過去から今につながる関心や考え方の線が見えてくる。ノスタルジーだけに留まらない、固有の小さな遺産になっているような気がする。現在を見るだけでは得られないインスピレーションも少なからず湧いた。ノート、侮るべからず、である。

「暗黙の前提」という曲者

毎日新聞 見出しの誤読.jpgディベートやロジカルシンキングを指導してきた手前、論理もしくは論理学のことは多少なりともわかっているつもりだ。よくご存じの三段論法などもこのジャンルの話である。

推論の末、ある結論が導かれる。たとえば「南海トラフ地震が発生すると……という結果が予測される」という具合。結論を到着点とするなら、出発点は何か。それを「前提」と呼ぶ。導いた結論に妥当性を持たせたければ、前提が満たされる必要がある。
わかりやすい例を挙げると、「生卵は割れやすい」と「コンクリートの床は硬い」という二つの前提から、「コンクリート床の上に生卵を落とすと割れるだろう」という結論が導かれる。反証できないことはないが、おおむねこれでいいだろう。結論は前提からのみ導出される。ある日突然気ままに発生するわけではない。
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多くのメッセージは、受け手側の知識を前提として発信される。「うちのポチはお手をしないのよねぇ」と唐突に発せられたメッセージは、「ポチとは犬であること」を聞き手が理解しているものと見なしている。だから、もし「ポチという名の亭主」のことだったら、話は通じない。このように、前提が明示されない場合でも、経験を多少なりとも積んできた成人が共有している共通感覚や常識を見込んでいる。
写真は十日前の新聞の一面である。「35市町 庁舎浸水」の大見出し。ぼくが初級日本語学習途上の外国人なら現実として読むだろう。もっと言えば、「南海トラフ地震」が自分の知らぬ間に起こったと思うかもしれない。そこには「想定」や「シミュレーション」という文字が見当たらない。余談になるが、動詞で書くべきところを体言止めで代替すると、読者の行間読解の負担が大きくなる。
かと言って、前提のことごとくを書き出していたらキリがない。生卵が割れやすいことをいちいち書いてから証明して結論を導いてはいられないだろう。だから前提を省く。だが、それは「みんなわかっているはずだ」という同質的社会の甘えにほかならない。異質的社会ではコンテンツをことごとく列挙する傾向が強いのである。
前提をくどいほど確認せずとも「ツーカー」でやりとりできれば楽である。しかし、そんな楽に慣れてしまうから、論理的コミュニケーションが上達しないのだ。前提を語り尽くさぬ美学に惹かれる一方で、前提を暗黙の内に封じ込める独りよがりを戒める必要もあるだろう。

もう少し議論してみないか

論理思考や議論の技術を指導してきたわりには、日常茶飯事理詰めで考えたり議論したりしているわけではない。そんなことをしていると身が持たない、いや頭が持たない。論理や議論が頭を鍛えてくれるのは間違いないが、同時に感覚的な面白味を奪ってしまう可能性もある。だから、ふだんからユーモアやアートもよくしておかないとバランスが取れなくなる。

ところで、ディベート嫌いの人でも、自分の子どもが意見を主張してきちんと議論できることに異を唱えないだろう。かつてのように「理屈を言うな!」という苦し紛れの説法をしていると、理屈どころか何も喋らなくなってしまう。昨今、若手が仕事でもほとんど理屈を言わなくなったので、ぼくなどは「もっと理屈を!」と言い含めているありさまだ。

老若男女を問わず、物分かりがいい振りをする人が増えたような気がする。心身に負荷のかかる批判をやめて、ストレスを緩和できる褒め・・に向かうようになった。低次元で馴れ合うばかりで相互批評をしない。嫌味を言わず毒舌も吐かない。但し、本人がいない所では言いたい放題なので、結局はイエスとノーの二枚舌を使い分けることになる。こんな生き方をしていては、アイデンティティを喪失する。無口になり、考えるのが億劫になる。

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明日、中・高・大学生チームが参加するディベート大会が神戸で開かれる。ぼくとぼくの仲間が組織している関西ディベート交流協会(KDLA)から20名前後の審査員が協力する。橋下徹のディベート能力重視の説に便乗するわけではないが、年に一、二度でいいから、真剣に議論をしてみると、思考のメンテナンスができると思う。たまにでもいいから、イエスとノーしか選択肢がない争点に自分を追い込んで、是非論を闘わせてみればいい。

Aさんは今日も言いたいことがあるのに言えない。その言いたいことは、もしかすると、組織にとっても議論の相手にとってもプラスになるかもしれないのに、黙っている。B君はイエスで妥協してはいけない場面なのに、またノーを言えずにイエスマンになっている。何でもイエスは何でもノーよりもたちが悪い。

議論は戦争ではなく、検証によってソリューション探しをするものなので、回避する理由はどこにもない。商取引で最初に金額を明示するのと同じく、コミュニケーションの冒頭で意見を開示しておくのは当たり前のことなのだ。たまにでいいから、大樹に寄らない姿勢、長いものに巻かれない覚悟、大船に乗らない勇気を。同論なら言わなくてもよく、異論だからこそ言わねばならないのである。

自問自答という方法

十代でディベートを体験してから、《問いと答え》は最大関心事の一つになっている。8月の私塾でこのテーマを取り上げるので、ここしばらく意識がそこに向かざるをえない。この暑いさなか、決してすがすがしい主題ではないが、仕事である。仕事を前にして不機嫌な顔をしてはいけない。

一般的に問いはクエスチョンマークを伴うが、広く考えれば、前提や条件や原因などにも問いの機能がぶら下がっている。ところで、ぼくは問いが求める答えを自分なりに二つに大別している。じっくりと構想できる、猶予のある答え(a)と、挑発されて即興性を求められる答え(b)である。(a)はスタミナとロングショット。(b)は瞬発力とクローズアップ。他者から問われて答えるときは(b)が、自問自答の場合は(a)が重要になる。

不審に思われて「名前と職業は?」と聞かれ、「ええっと……」と遅疑逡巡していてはますます怪しまれる。考える余地のない、たった一つの答えしかなければ、さっさと言ってしまえばよい。ディベートが難儀なのは、答えが見当たりもせず思い浮かびもせずという状況で、相手のきつい尋問に応じなければならない点である。「そんなことは神に聞いてくれ!」と苛立つのを我慢して、笑みを浮かべて「そうですね、実は」と即時即答しなければならない。しかも、具体的に。「うやむや世界」に逃げ込むのは、政治家を見ていてお分かりの通り、潔くないし、カッコ悪い。

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どういうわけか、学校教育は「問答」や「尋問」にあまり関心を寄せない。それどころか、「つまらん質問をするな!」という教師がいたりもする。学生はいつも問われる側にいる。そして、条件反射のように「問われれば答えようとする」(答えないとテストで点数が取れないから)。では、彼らは問われなくても「答えることができるか?」 おそらくノーである。なぜなら、答える前に問わなければならないからだ。この問いは自分への問いにほかならない。実社会では質問すらしてくれないことがある。自問自答できない人間には生きづらい環境だ。

「下線部の意味に近いものを次の中から選べ」というテスト問題がある。また、「次の文章を読んで、考えを四百字以内で書け」という問題もある。これらの設問はタイプが違うとされていて、後者を論文問題と呼んだりする。しかし、ぼくから見れば、これらの問いは同じである。「誰かに問われてから答える」という意味で同じである。もし問いがなければ、あることばに近い意味の用語を考えようとしないだろうし、文章について感想を書こうとしないだろう。外部からの刺激を待つ「反応型人間」はこうして生まれる。

問いを待ってはいけないのである。他者からの問いがあろうがなかろうが、つねにテーマや課題に対して問いかける。問わなければ、ソリューションも工夫も考えつかない。必ずしも明快で満足できる答えが編み出せるとはかぎらないが、「問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる」(ウィトゲンシュタイン)を拠り所にしようではないか。但し、自問自答という方法には偏見が宿りやすいので気をつけねばならない。

勝って驕らず、負けて倦まず

大学生・社会人のためのディベート団体《関西ディベート交流協会(KDLA)》を立ち上げてから20年になる。10年ほど前に後進に運営を譲って名ばかりの顧問に退いていたが、ここ数年間実質的な活動が途絶えていたと知り、それならということで「里帰り」させることになった。任意団体ではあるが、西日本では草分け的存在だし、かつては頻繁にユニークな活動をしていた。この会や研修などでぼくがディベート指導した人たちは千人規模になる。

上級の腕前と認定できるディベーターはそうそう多くはないが、ディベートを審査できる人材を数十人育ててきた。ディベート普及の前に立ちはだかるのは人材難、とりわけ試合経験のある審査員不足だ。審査員さえ揃えば場は作れると考えて、ディベート研修では審査も体験してもらい審査についての話も網羅してきた。こうして、常時20人くらいの審査員が集まる体制を整えている。おもしろいことに、審査員のディベート観や哲学は実に多様である。必然、半数の試合で判定が割れる。

ところで、たいてのスポーツ上達への第一条件は身体能力の高さだろう。けれども、人には好き嫌いがあるので、どんなスポーツでもこなせるという保証はない。同じことがことばについても言える。言語能力が高くても決してオールマイティとはかぎらない。読み書き聴く話すの四つの技能に凸凹があったり、一方通行の弁論は巧みだが、当意即妙を要する議論はお手上げという場合もある。能力以外に適性を配慮する必要があるのだ。つい先週も《向き・不向き》について書いたが、もしかするとこれは能力以上に意味深長な成功要因になるのかもしれない。

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知識・論理・言語が三拍子揃っていても、ディベートに向かない人がいる。ディベートは体操やフィギュアスケートなどと同じく、審査員が評価するゲームである。より正確に言えば、一本勝ちのない柔道、ノックアウトのないボクシングに近い。つまり、当事者どうしで決着がつかず勝敗を第三者の判定に委ねるのである。当然、ディベーターはディベートが審査員によって評価され勝敗を判定されることを承知して参加している。

競技後にあの採点は変だとか解せないだとか公言してはいけない。判定を不服とする性向がある人は、ディベート大会に出場すべきではないのだ。また、審査員が同僚の審査員の採点を非難したり異議を申し立てたりするのもご法度である。クレーマーの癖が抜けないようなら、不向きだと悟って出場も審査も諦めるべきである。「審査員の見方がおかしい」と捨てぜりふを言うディベーターがよくいるが、後の祭りの文句を垂れるなら、見方のおかしい審査員から一票でも取る工夫をすべきだろう。

悔しがる敗者を見て勝者の前頭葉にどんな変化が起こるかという実験があった。たしか、自己愛の強い勝者ほど変化が大きい、つまり強い快感を覚えるという結果だったと思う。共感と逆の作用なので「反共感」と呼ばれるらしい。だが、試合が終わり余韻が醒めてからの表彰式で勝者がガッツポーズをしてもさほど気にならない。そのときのガッツポーズを驕り高ぶりと見る向きは少ない。

これとは逆に、惨めな敗者を睨みつけてガッツポーズするのはいただけない。これは何も相撲や「道」としてのスポーツにかぎった話ではなく、すべてのスポーツ、そしてディベートや将棋・チェスのような知の競技にも当てはまる。勝利快感をあらわにする勝者ほど、敗北を喫すれば人一倍の不快感を募らせる。そして、ディベートにおいても、勝利しておごり高ぶるディベーターほど、負けると文句を言う傾向が強い。けれども、文句を言ってどうなるものでもない。負けた時こそまずたゆまずでなければならない。つまらぬ擬似プライドをさっさと捨てればよろしい。

論を立てるということ

論理、弁論、議論、論説などとよく使っているが、考えてみると「論」を一字単独で用いることは少ない。かつてはおそらく「君の論は」とか「この論によると」などと言っていたと思うが、論は「意見」に座を譲った。ぼくの語感では、「筋のある意見」が論である。だから、論を立てたり張ったりするのは、理にかなった意見構築をおこなうことになる。説明がくどくなるが、「理にかなった」とは第三者が聴いて「一考に値する」と感じること、あるいは「暫定的にオーケー」を出すことだろう。

ネット上に『論を立てる』という番組があると耳にした。ちらと見たかぎりでは、対立的な論戦・激論というよりも意見を交互に述べる談論に近いようだ。論を立てると「立論」になる。ディベートではおなじみの基調弁論の一種だ。立てるのはあくまでも論である。自分の意見で筋を通す。意見を支えるのは、これまた自分で編み出す論拠である。こうして立てた論の信頼性と実証力を高めるために証拠や権威筋の証言を引用する。

ところで、熟年過ぎてから大学院で学んでいる知人がいる。期限が迫ってきた修士論文で困り果て、添削・推敲してくれとねじ込んでくる。不案内のテーマについて書かれた文章など簡単に手直しできるものではない。困っている人を放置できない性分なので、数十枚の論文を読んではみた。各章の書き出しくらいは何とかしたが、その他はどうにもならない。引用文でガチガチに固められて分解修理のしようがないのである。

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メールを送った。「このテーマについて何を書きたいのですか? 読み手に何を伝えたいのですか? 何が自分の意見ですか? 人はわかっていることしか書けません。また、わかっていること以外を書くべきではありません。あなたが考えたり読んだりしたことと、あなたのことばの表現・論理が一致しなくてはいけません。」 すると、「これは文献研究なんです」と言うから、またメールを送った。「では、次のような手順で書き換えなさい。1.この本にはこんなことが書かれている。2.私はそれをこう読んで自分のこれこれの意見と照合し考察した。3.この本の意義を私はこれこれに見い出す。」

文献研究ならば、その著者と文献を選んだ動機はあるだろう。必ずはじめに自分の価値観なり意見なりがあるのだ。このような論文にしてもディベートの立論にしても、ほとんどの人がリサーチから入る。文献を読み新聞を切り抜く。テーマや論題について自力で考察していない。ぼくに言わせれば、設計図なしに部材だけを集めている状態。調べると情報の縛りを受ける。複数の情報を組み合わせて論を立てようとしてもうまく整わないのである。

仮説と呼んでも構想と呼んでもいいが、まず自前で論を立てる。情報不足だから中身は空っぽかもしれない。だが、筋さえ通しておけばいい。簡単なシナリオを一枚の紙にざっと書く。一切の情報を「ないこと」にして自分なりの論拠を捻り出す。こうして出来上がったケースシートに一本筋が通ったと判断したら、その時点から筋を補強してくれる裏付けを取るために証拠・権威の証言を調べるのである。すでに仮説の網を張り軸を決めているから、関連情報も見つけやすくなる。いろんな人に口を酸っぱくして助言するのだが、みんな重度の情報依存症に陥っているせいだろうか、言うことを聞いて実践してくれないのは残念である。

対話論雑感

二日連続対話について論じたので、ついでに湧き上がるまま雑感を並べ書きしてみることにする。ぼくが対話と言うときのテーマは命題形式を前提としている(ディベートではその命題を「論題」と呼ぶ)。対話にはディベートや二者間論争が含まれる。しかし、話題を拾って語り合う会話、演題について一方通行で話す弁論、議題についてさまざまな意見を出す会議などは対話に含めていない。

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先の『防災・社会貢献ディベート大会』は「無差別級」でおこなわれた。高校生、大学生、社会人が総当り的に対戦するのは珍しいケースである。ディベートの本来の姿は老若男女が入り混じることだと思っているので、あの大会を大いに評価している。

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肯定側は論題で記述された内容を肯定する立場にあり、否定側は論題で記述された内容を否定するのではなく、当面の肯定側が論題を支持する論点を否定する。ちょっと混乱しそうな表現だが、検証者としての否定側は、「はじめに論題否定ありき」ではなく、肯定側の立論に対する否定の任に当たらねばならない、ということを意味している。

肯定側が評価に値する立証責任を果たしているにもかかわらず、否定側が肯定側の論点にまったく争点接合せずに論題のみを否定しているかぎり、反駁責任を果たしているとは見なさない。

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ディベートの質を高めるのは肯定側の立証力にほかならない。他方、ディベートをスリリングな議論にするのは否定側の切り返しによるところが大きい。両者拮抗した場合は、即興性を求められる否定側に分がある。

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論題には複数の解釈がありうる。ある一つの解釈によって立論の方向性を打ち出すとき、その方向性にはしかるべき正当性あるいは共通感覚(または通念)へのアピールが求められる。これを基本哲学と呼び、立論の冒頭でしっかりと提示するのが望ましい。

定義には辞書から引用する「辞書的定義」と、論題に充当する範囲で自ら手を加える「操作的定義」とがある。後者の定義をおこなう場合は、基本哲学と連動しなければならない。

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否定とは「何か」の否定である。否定や反論は、何がしかの主張に対しておこなわれ、その主張と自論の見解が異なっていることを前提としている。見解の相違がなければ、誰も反駁しようとはしない。また、語られもしていないことを否定したり、不在の主張に反論することはできない。

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ディベートの議論の評価は、肯定側立論の評価を基準としておこなわれる。

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肯定側が二つの論点を提示したとしよう。そのうちの一つが反駁され、しかも最終弁論まで修復されないとき、立証責任は果たされなかったと見なす。すなわち、否定側は論点のすべてを否定する必要はなく、部分の否定だけで反駁責任を果たすことができる。

肯定側が「Aはすぐれている」と主張するだけで、いっさい証拠も論拠も示さなければ、否定側は「Aはすぐれていない」と反論するだけで十分である。

「なぜAがすぐれているのか?」と尋問するのが否定側の役割であるとする見方もあるが、肯定側は主張と同時に証拠と論拠を示す義務を背負っているから、言いっ放しの主張の面倒を見ることはない。但し、それではあまりにも不親切で人情味に欠けるように見えるから、否定側がカウンセリング的に振る舞っておいて損はない。

肯定側が「Aはすぐれている。それは次の二つの理由による」と主張するとき、否定側は主張への反論だけでは反駁責任を果たせない。二つの理由または少なくともいずれか一つの理由に効果的な検証反駁ができてはじめて主張を否定したことになる。

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検証する側が一般的には優位に立ちやすいのは確かである。こう言うと、否定側がずいぶん楽そうに思われるかもしれないが、肯定側立論で想定外の論点が提示されたときは当意即妙で対応しなければならないので、力量互角ならまずまず拮抗するようになっている。

議論を拮抗させるためには、論題の記述に細心の注意を払わねばならない。一言一句の違いが議論の方向性を大きく変える。退屈な定義論争や詭弁の応酬が目立つディベートになるのは、たいてい論題記述の拙さに起因している。

自己検証しない人々

相変わらず悪のささやきに騙される人たちが後を絶たない。手を変え品を変えての詐欺に悪徳商法。騙す側も懲りなければ、騙される側も懲りない。もしかすると、マスコミを定期的に賑わす事件はテーマは変われども同じ登場人物で繰り広げられているのではないか。オール前科数犯、オール被害数回という設定だ。道徳論的には騙すほうが悪いと言っておかねばならないが、騙される人たちの懐疑不足と検証不十分も大いに戒められるべきだろう。

ふと思う。騙されるためには、人的交流が前提となる。人付き合いしていなければ、他人に騙されることはない。「ネット上で知り合った」というのも新しい交際の形態にほかならない。ある種の「お人好し」には他人の影がちらほら見えてしまうものだ。他方、こういう人たちと対極を成す種族も今時の人間関係事情を照らし出す。直接的対人関係が希薄で、なおかつネットでの出会いも志さない人々。彼らは他人には冷ややかな視線を向けたり一言一句を懐疑したりする。まるで近世哲学のスーパースターだったデカルトの末裔のように、少しでも疑わしければ徹底的に疑う。

デカルトの演繹は、「明らかに真以外は認めない、小さく分けて考える、単純から複雑へと向かう、見落としがないかすべて見直す」の四つの規則にしたがう。疑って疑って疑い続ければどうなるか。最後に一つだけが残る。「疑っている精神」である。「何から何まで疑い、すべてが偽だと考えていても、そう考えている自分だけは確かな何かだ」とデカルトは思い至り、あの哲学史上もっとも有名なスーパーキャッチ、我思う、ゆえに我ありコギト・エルゴ・スム」を生み出した。

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デカルト懐疑主義はよく批判に上がる。「我思う、ゆえに我あり」なら「我食べる、ゆえに我あり」でもいいではないか、と。なぜ「我思う、ゆえに『思う』あり」というように導出しないのか、と。たしかに「コギト・エルゴ・スム」という響きのラテン語は17世紀の知性の心を過度に揺さぶったかもしれない。それでもなお、デカルト自身は幼い頃から身につけてきた自分の先入観や感覚をも排除して、肉体から何から何まで懐疑した。ここには強烈な自己検証も含まれていたことを忘れてはならない。

おそらくデカルトはすべてに辛かったのであろう。ところが、当世の懐疑主義者は「他人に辛く、自分に甘い人々」なのである。他人の失態は一事が万事とばかりに目こぼしすることはなく、自分のエラーは試行錯誤よろしく大いに許容する。言い換えれば、他人の過小評価、自分の過大評価……自分大好き、バーチャル完璧主義……。自分の回りに必ず一人や二人はいるし、自分自身の中にもそういう性向が少々あることに気づくだろう。

やむをえないことなのかもしれない。今こうしてキーボードを叩きPC画面上に文字を連ねている現実理解ほど、ぼくには確かな自己認識はできてはいないだろう。外に向けた鋭い懐疑の視線は、内に向けた瞬間矛先を鈍らせる。自己検証というものは不足気味かつ甘くなりがちな作業なのだ。こういう甘い習慣が形成されるとどうなるか。学ぶことができなくなり進化が止まる。では、どうすれば自己検証できるようになるか。相互検証を通じての自己検証というほかない。立場を入れ替えての論争術であるディベートにはその機能が備わっているのだが、そういう視点でおこなわれているのか、ぼくは懐疑的である。  

「義理チョコ」の是非

「義理チョコの是非」を本気でぼくが問うことは絶対にない。結論から言うと、是でも非でもなく、好きか嫌いかの話にすぎないと思っている。たとえ百害一利であろうと、はたまた百利一害であろうと、一人ひとりが義理チョコを贈るか贈らないか、あるいは貰うか貰わないかを、自分自身で判断するしかない。また、貰った義理チョコに対して一ヵ月後にお返しをするかしないかも男性諸君の判断に委ねるしかない。

バレンタインデーが近づいてくると、「バレンタインデーなんかいらない」という論題や「バレンタインデーの義理チョコをやめるべきである」という論題を思い出す。ディベートの議論のテーマを論題と呼ぶが、バレンタインデーとチョコレートは入門者向けの格好の価値論題になってくれる。実際、かつてぼくの二日間ディベート入門研修の初日に実施する「ミニディベート」では、バレンタインデーをネタにした論題をよく扱った(なお、ミニディベートとはぼく独自の簡易ディベートの命名で、ふつうは「マイクロディベート」と呼ばれている)。

バレンタインデーの由来にまで遡って論争するまでもないだろう。また、いつ義理チョコが始まったかを追及しても意味がない。国や地方自治体、あるいは職場で義理チョコを制度にしているわけではないから、嫌なら習慣に縛られなければいい。そう、義理チョコの是非は政策論などではないのだ。だいたいがチョコレートを贈るのに「本命」も「義理」もないだろう。ダイヤの指輪を義理でプレゼントする男性はいないだろうし、一人の愛する女性に贈るときに「本命ダイヤ」ということばが彼の脳裏をよぎることもあるまい。職場の好きな人にチョコを贈っていたが、その人だけに贈ると目立つので、カモフラージュするためにその他の男性にも配った。それを義理チョコと呼ぶようになっただけの話ではないか。お中元・お歳暮もよく似たものである。

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繰り返すが、義理チョコの是非は政策論ではない。広く容認された社会的慣習やしきたりでもない。あくまでも個人の判断に委ねられる年に一回のパーソナルイベントにすぎない。ゆえに、是非を議論するのなら、価値論でなくてはならないだろう。価値論は「本来白黒のつかないことを、白黒をつけるべく相反する議論を交わす」。最終的には本人が決めればいいのだが、せっかくだから遊び心で是非の白黒をつけようじゃないか――こんなふうに構えて議論するならいい。アームチェアーに座ってのディベートならともかく、実社会では成人が真顔で義理チョコの是非を論争したり論評したりしないほうがよろしい。あまりにも幼すぎる。

新聞に次のような四十過ぎの男性の投稿があった。

「『義理チョコ』をもらった男性が甘いものが嫌いだったり、お返しとかで経済的にも精神的にも負担をかけたりする場合があるからです。(中略)バレンタインデーにチョコを贈るのは製菓会社の商戦と割り切り、商魂に踊らされた贈り物、特に『義理チョコ』の習慣はやめるべきではないでしょうか。」(傍線岡野)

反論の内容よりも、下線部の問いかけが詮無いことなのである。制度でも何でもないのだから、投稿者が何と言おうと、義理チョコの習慣をやめるかやめないかは当事者たちが決めればいいことだ。いや、この投稿者だって「やめるべき」という個人的な意見を述べたにすぎないという見方もあるだろう。それならば、「製菓会社の商戦」とか「商魂に踊らされた贈り物」などという社会的な理由にまで論点を広げなくてもいい。バレンタインデーシーズンに限らず、製菓会社はいつでも商戦を繰り広げているし、商魂に踊らされた贈り物を持ち出すのなら、ビールも海苔もハムも同じだ。そもそも企業は商戦と商魂によって商売を成立させているのである。甘いものが嫌いな男性にチョコレートを贈るように、アルコールを飲まない人にビールを贈ることだってある。それが社交や交際の常である。

義理チョコ。贈りたければ贈ればよろしい。貰いたければ黙って貰えばよろしい。経済的・精神的負担になるなら贈らねばいいし、お返しが経済的・精神的負担になるならば貰わねばよろしい。そんなことをすると職場の人間関係がギスギスするなら、つべこべ言わずに、その程度の人間関係の職場だと割り切って義理チョコを贈り贈られ続ければよろしい。なお、聞くところによると、バレンタインデーが日曜日だとほっとする人が多いそうだが、案外その点にこそ義理チョコへの本意がありそうだ。   

書きたいこととタイミング

非売品を別として、ぼくが公に上梓した本は二冊。二冊目を書いてからすでに10数年が経過する。「なぜ本を書かないのか?」と聞かれること頻繁であり、「なぜ書けなくなったのか?」と失敬な詰問を浴びせられたこと一、二度ではない。本が書けないならブログも書けないはずではないかと反論したいところだが、これは反論になっていない。なぜなら、本を書くこととブログを書くことの間に緊密な連鎖関係があるとは思えないからだ。

わが国のブログ投稿数は世界一。しかし、本も同時に書いているブロガーはごく一部だろう。また文筆・著作で飯を食っているプロの誰もがブロガーであるわけでもない(あれだけ多忙で自著の多作な茂木健一郎が英文も含めて34種類のブログを毎日午前7時台に更新しているのは驚嘆に値する)。それはともかくとして、ぼくは本を書かないと決めたわけでもなく書けなくなったわけでもない。事実、こうして綴っているブログ記事を発想ネタとして原稿を編集したり推敲しているし、まったくブログで公開する意図のない文章もせっせと書いてもいる。書く気は大いにあるし、いつでも書けるようスタンバイしている。ただ、心理や経緯はどうであれ、ここ10数年書いていないというだけの話である。

この10数年編んできた研修・私塾用テキストの総数は、書籍にすれば優に30冊に達するだろう。何でも出版すればいいというわけではないが、気に入ったものだけを厳選しても確実に56冊にはなる。実を言うと、見えない読者を想定して本を書くよりも、目の前にいる聴き手に語るほうに力を入れてきたまでである。語りと著作は両立するのだが、一方的に語りに傾いたという次第だ。なぜそうなったのか。二冊目の後に書き始め、原稿が半分以上完成した時点でストップした一件がきっかけになっている。

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出版社も決まっていた。テーマも仮題ではあるが方向性は明確になっていた。それは、当時世間を騒がせていたカルト宗教や霊感商法や詐欺などで素人を罠に嵌める悪人ども、さらには今で言うパワーハラスメントや業者泣かせの企業や詭弁・屁理屈で弱者を虐げる連中に負けない「強い論理と賢い眼力」にまつわるテーマである。ぼくがディベートを熱心に指導していた頃なので、とある出版社がやって来て、「実践的なディベート技術の本を書きましょう」ということになったのだ。

手元の原稿には仮題が二案記されている。一つは、『眼力を鍛えるサバイバル・ディベート』(帯の案として「悪徳商法、強引な勧誘、ゴリ押し説得を論破するテクニック」)。もう一つは、『世紀末を生きるディベート武装術』。後者のほうが最終案になったような記憶がある。なにしろ全ページ分の素材がメモ書きしてあるし、章立ても詳細な目次も出揃っていて原稿も半分できているのだ。章だけ紹介すると、第1章「是非を見分けるディベート発想」、第2章「あなたの近くに忍び寄る世紀末症候群」、第3章「悪意や虚偽に負けない看破と論破のテクニック」、第4章「人生の歯車を狂わせない自己危機管理」。

今なら絶対に用いないと思われる表現が目次の小見出しで踊っている。少々ではなく、だいぶ気恥ずかしい。ともあれ、計画は中止になった。出版側が挫折したからでもなければ、原稿が遅延したからでもない(ぼくは決して遅れない。足りない才能を納期遵守力でカバーするタイプである)。出版社の社長と話をして、「この本は時節柄ちょっとまずいのではないか」ということになったのである。恫喝や脅迫、場合によっては物理的嫌がらせすらありうると考えたのである。さほどその類の恐怖の影に怯えることはないが、結果的に断念することにした。前後して、「正論」を吐いた人たちが悪意ある連中に威嚇された事件が相次いだので、中止は賢明な判断だったのだろう。

その出版企画の話をしたら、「完成させましょう」と言ってくれた人がいる。もう結構、一度外したタイミングへの未練は禁物である。人はなぜいともたやすく騙され、疑うよりも信じることに走り、誰が見ても胡散臭い人物に傾倒し、ありえないほどうますぎる話に乗っていくのか……正直言って、今も関心のあるテーマだし、いつの時代も「旬」であり続けるだろう。しかし、寝食忘れてまで執拗に追いかけてこそテーマが意味を持ち、書くに値し書きたくてたまらないテーマへと昇華する。今はこのブログを書きながら、「よし、これだ!」というテーマとタイミングを狙っている。そして、タイミングがテーマよりも重いことを痛感している。