「笑い」と「お笑い」

今さら「笑い」と「お笑い」の違いを確認するまでもないだろうが、念のために手元の広辞苑を参照してみた。【笑い】の筆頭定義には「わらうこと。えみ」とある。この程度の字句説明でやむなしか。とってつけた定義が必要ないほどの基本中の基本語だ。では、「お笑い」はどうか。こちらは三番目の定義として扱われ、「(「お―」の形で)笑うべきこと」と書かれている。「お笑いを一席」と「とんだお笑いさ」の二つの例が挙がっている。

「お」一つが付くだけでだいぶ意味が変化している。少くとも「とんだお笑いさ」には、愉快ゆえに笑っているような風情はなく、己に対してはあざけり、他者に対してはさげすむニュアンスが込められている。もう一つの、「お笑いを一席」のほうは芸人を窺わせる。そこで、【お笑い】という見出し語があるのかと思って見れば、ちゃんとあった。「客を笑わせることを目的とした芸。特に落語」と説明され、「お笑いタレント」という用法が出ている。

「笑い」は行為そのものであり、他方、「お笑い」は一つの業界を示している。箸がこけて笑い、子どものしぐさに微笑むように、ぼくたちはおもしろい落語や漫才に興じて笑う。しかし、お笑い業界自体に笑いが付随している保証はない。「お笑い」にはおもしろくない落語や漫才や一人芸も含まれ、見たり興じたりしても、実際に笑えるとはかぎらないのだ。むしろ、興ざめしたり、あまりのひどさに腹立たしさを感じてしまうことすらある。「お笑い」はア・プリオリな笑いとは無関係で、演じる前から先天的・生得的な笑いがそこに内蔵されてなどいない。

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知人と話していて、テレビでのお笑いの露出度がめっきり減退したという点で意見が一致した。正確に言うと、生き残ったお笑い芸人たちは今もテレビに出ている。しかし、業界での出発点となった「本業」を誰一人として演じてはいない。彼らは、ここ数年、たとえ23分程度のごく短い持ち時間であっても、本業で露出する機会を与えられてきた。お笑いブームだったこともあるだろう。だが、彼らが実績を築いた頃の漫才・コント・ピン芸を再見しようと思えば、DVDを買うか、寄席か劇場に行くか、あるいは「営業」と呼ばれる、たとえばショッピングモールでのイベントなどで出くわすしかない。

かつて大賞を受賞した一握りの成功者さえ本業を披露する機会に恵まれない。もう本業はどっちでもいいのだろうか。一つの登竜門をクリアしたら、あとは芸人として食えるのなら何をしていてもいいのだろうか。要するに、金になるのなら、別にやりたくなくても、バラエティタレントや身体を張った体験型芸人としてテレビに残って露出していれば満足なのだろうか。仮にそうであるなら、好きでもないことをやっている彼らがおもしろくも何ともなくなったことに十分納得がいく。

彼らの中のさらに一握りはテレビ的に大成功者となり、立身出世時に披露した芸域とはまったく別のアイデンティティへと変身している。流暢な喋りに芸の名残りはあるが、いつ誰と共演していてもワンパターンで、猛暑的なマンネリズムにはうんざりする。名の売れた大御所たちは、芸人による芸人のための番組を仕切っており、もはやかつての「お笑い芸人」としての技を磨きなどしていない。業界人に慕われ敬われてブランドで食っている。

最近、ぼくはバラエティやお笑い番組からすっかり遠ざかっているが、たまたま見ることがあってもめったに笑えるような芸に出くわさない。すべらない話に拍手喝采されていながら、本業ですべっている芸人をどう見ればいいのか。いや、何もぼくが代理で悩んでやることはない。おもしろくないものはおもしろくないのである。芸を磨かなくなったお笑いタレントから商品価値は消え失せるのみ。日々のぼくの周辺に起こる笑いは、質量ともにテレビの中の笑いを圧倒している。素人の笑いのセンスを侮るなかれ。

笑えない話の後始末

笑いをとらねばならないのはお笑い芸人だけではない。笑いでメシを食うプロと、そうではないアマ。比較すれば、前者が厳しいと誰もが言うかもしれない。ところがどっこい、アマチュア間の笑いがらみのシーンは想像以上に過酷なのである。テレビのお笑い番組を見ればわかるが、プロには逃げ道が用意されている。「受けない」のを売りにする芸人。「すべる」のを期待してもらえる芸人。空気を凍らせてしまっても、助け舟を出す同業者もいる。

言うまでもなく、売れる芸人もいれば売れない芸人もいる。序列のある業界だから、スターもいればアマチュア以下もいる。人気はどう転ぶかわからない。明日は我が身だ。売れなくなっても、「売れない」のを売る手だってある。親しい仲間は救いの手を差し伸べてくれるかもしれない。まあ、さしたる業界通でもないぼくの推測なのだが、「同病相憐む」のことわりがそこでは生きているようだ。

講演の冒頭でジョークを仕掛けたある講師。絶対に受けると確信しての「つかみ」であった。はやる気持をなだめながらも、内心おもしろくてしかたがない。演壇に上がる前から自分自身が笑いを押し殺さねばならない状況である。講師紹介があって、拍手で迎えられて演台に向かう。つかみの効果を最大化するには余計な挨拶は無用、寸法を測ったように計算通りにジョークで端緒を開いた……。だが、クスッとも笑い声が起こらない。会場の笑いと同時に破顔一笑しようと目論んでいた講師の顔だけが、笑う直前のスタンバイモードで引きつったまま。聴衆は時に残酷である。

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技と芸があるからか、仕込みと仕掛けがいいからか、それとも単に聴衆に恵まれ続けたからなのか……理由はよくわからないが、ぼくが会場を凍らせたことはかつて一度もない。期待したほど笑ってもらえなかったことはあるものの、大すべりした経験はない。講師業においても、笑いは本題と同程度に重要になってきた。そこにはリスクもある。「笑えない話」の責任は、もちろんその話をした人間にある。そして、万が一のための保険をかけるのを忘れては、消沈した空気の後始末は不可能である。

どんな保険か? ややハイブローにジョークを設定しておくのである。こうしておけば、笑いが起こらなかったとき、一部の聴衆が「笑えないのは自分の能力とセンスの問題ではないか」と懐疑してくれる。さらに、誰よりも高尚なジョークを解せるという自信家が何人かいるものなので、少数ではあるが、見栄を張ってそこかしこで笑い声を発してくれる。こうなると、笑わなかった聴衆たちもやや遅れ気味に同調するように笑い始める。ジョークを終えてから数秒という不自然な時間差が生じるのはやむをえないが、これはこれで場が沈んでしまうことはない。

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昨夜読んでいた英書にこんなジョークがあった。

若い新婚さんがアパートに引っ越してきた。食堂の壁紙を張り替えることにした。同じ広さの食堂がある隣人宅へ行き、尋ねた。
「壁紙を張り替えたとき、お宅では壁紙のロールを何本買いましたか?」
7本ですよ」と隣人は答えた。 

新婚夫婦は高級な壁紙を7本買い、張り始めた。ところが、4本目のロールを使い切った時点なのに食堂の壁紙作業が終わってしまった。二人は隣人の所へ行き、不機嫌をあらわにしてこう言った。
「お宅の助言通りにしたら3本も残ってしまいましたよ!」
隣人は言った。「やっぱり……。あなたのところでも、そうなっちゃいましたか」

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笑える話? 笑えない話? どっちだっただろうか。もし笑えない話だったら、その責任は、読者、ぼく、それとも原書の著者? もし笑えたのなら、その手柄は原書の著者、訳したぼく、それとも読者? ジョークを笑うのはむずかしい。ジョークのネタを仕入れて披露するのはさらにむずかしい。一番安全なジョークの伝え方は文字である。笑いが不発のときに後始末を取らなくて済むからだ。

【注】余計なお世話だが、「何ロール使いましたか?」とは聞いていない。「何ロール買いましたか?」と聞かれたから「7本」と答えた。おっと、ジョークの説明ほど野暮で無粋なものはない。  

ユーモアの匙加減

ユーモア、ジョーク、エスプリ、ウイット、パロディ、ギャグ……「愉快学」の専門家はニュアンスを峻別して見事に使い分ける。この関係の本は若い頃から百冊くらい読んできたので、ぼくもある程度はわかっているが、今日のところは「ユーモア」ということばにタイトルの主役を務めてもらった。

「ひきこもごも」という熟語がある。断るまでもなく、「ものすごく引きこもる」ことではない。このことば、「悲喜交交」と書く。人生には悲しいことも喜ばしいこともある、社会には悲しむ人がいる一方で喜びに満ちた人もいる、悲しみと喜びは入り混じって人間模様や人生絵図を描く……まあ、こんな意味である。悲悲交交ではたまらない。できれば、毎日一生、喜喜交交がありがたい。

世の中、おもしろい人間とそうでない人間がいる。ぼくの周辺にもバランスよく半々で棲息している。どちらかと言うと、ぼくは悲劇よりも喜劇をひいきし、泣きネタよりは笑いネタのほうを好む。もちろん、このことは単純な楽観主義者・楽天家を意味しない。もらい泣きはしないが、もらい笑いはする。儀式としての作られた泣きは許せるが、本気モードでない作り笑いは許せない。

涙は国境を越える共通価値をもつ。だから、ぼくには悲劇はことごとくステレオタイプに映る。スピーチでは身の上の不幸や苦労話を語っておけば大失敗はない。講演会場に悲しみの空気を充満させるのはさほど難しくないのだ。他方、普遍性がないわけではないが、喜劇はおおむね個々の土着文化に根ざす。この場所・この街でおもしろいことが、少し離れたあの場所・あの街で笑いを誘わない。笑いは成功するか失敗するかのどちらかで、成否明白ゆえに挑戦的である。したがって、おもしろさの査定には「満点大笑」と「零点不笑」さえあれば十分、わざわざ「大笑」「中笑」「小笑」を加えて5段階評価にする必要はない。

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雨降りの日に百円引きしている蕎麦屋がある。空を見上げれば雨模様だ。店に入る直前ポツポツと降り始めた。傘はない。こんな時、百円引きに目がくらまず、さっさと入店するのは粋かもしれないが、そこに愉快精神はない。やっぱり、蕎麦屋の隣のビルに潜んで土砂降りになるのを待つ姿のほうがユーモラスである。

明けても暮れても冗談ばかりでは周囲が疲れる。生真面目とユーモアのバランスを取るのは容易ではない。こういう文章にしても、真摯に綴っていけば生真面目な空気が充満して息詰まってくる。それに耐えられなくなると照れてしまう。そこで自ら茶化す。ユーモアで生真面目ガスを抜きたくなる。もちろん、こうなるのはぼくの特性であって、世の中には何時間も生真面目を語り書き続けられる人もいる。一度たりとも他人をクスッと笑わせもせず、読ませ聞かせ続ける力量には驚嘆する。

ここで昨日の年賀状の話を続ける。ぼくが年賀状にしたためる文章は、自分なりには本質論であり真摯な意見であると思っている。しかし、シャイな性分ゆえ、どこかでユーモアを小匙一杯加えたりシニカル系愉快を仕掛けたりしないと気がすまなくなるのである。ただ問題は、年賀状を手にする人たちすべてが、ぼくの匙加減の味になじんでいるとはかぎらないこと。したがって、人を小馬鹿にしてけしからんとか正月早々冗談はやめろとかの怒りを感じる方には申し訳ないと言うしかない。

しかし、もっと気の毒なのは、ユーモア味にまったく気づいてくれず、メッセージの全文を生真面目に受け止める人たちである。彼らは「おもしろい年賀状があるよ」とは言わず、「ためになるよ」と言って社内回覧したり清く正しく朝礼のネタにする。ある意味で、悲劇である。