ローマとラテン語のこと(上)

ローマに関する本.jpgのサムネール画像のサムネール画像〈ローマのパッセジャータ〉というシリーズでフェースブックに写真と小文を投稿している。ローマにはこれまで4回足を運んでいるが、最後の訪問からまもなく5年半。その時はアパートに一週間滞在して街をくまなく歩き、当てもなく同じ道を何度も行ったり来たりした。イタリア語ではこんなそぞろ歩きのことを「パッセジャータ(passegiata)」と呼ぶ。イタリア人にとっては夕暮れ時の日々の習慣だ。

 ところで、西洋絵画に刺激されて十代の頃によく絵を描き、ついでにルネサンスや古代ローマなどイタリアの歴史や美術や言語についてなまくらに独学したことがある。いろんなことを知ったが、とりわけ「すべての道はローマに通じる」や「永遠の都ローマ」などが言い得て妙であることがよくわかった。なにしろローマという街は古代からの「直系」であり、たとえ現代を語るにしてもどこかに歴史のエピソードがからんでくる。過去を切り離しては、たぶん今のローマは成り立たないのだろう。
 

 ローマに関する本を雑多に拾い読みすると、必ずと言っていいほど古代ローマの名言やラテン語に巡り合う。話が少しそれるが、カタカナで表記される外来語に対してぼくは寛容である。わが国では、明治時代から欧米の概念を強引に日本語に置き換え始めた(恋愛、概念、哲学、自由などの術語がそうである)。いま日本語と書いたが、実は、やまとことばへの置き換えではなく、ほとんどが漢語への翻訳だった。現在でも、外国固有のことばを無理に母語や漢語で言い換えてしまうと曲解や乖離が起こる。それなら、最初からカタカナ外来語のままにしておいてもいいとぼくは思うのだ。
 
仕事柄、マーケティング、コミュニケーション、コンセプトなどの用語をよく使うが、手を加えて日本語化することはない。ラテン語源のちょっとした知識を持ち合わせれば、これらのカタカナ語の本質を理解しながら地に足をつけて使うことができる。ぼくたちがふだん使っているカタカナ語の大部分はラテン語に起源をもつ。ギリシア由来のものも少なくないが、それらもラテン語を経由してヨーロッパ諸言語に広がった。だから、ラテン語の語源をちょっと齧っておくとおもしろい発見があったりする。
 
たとえば、英語のマーケット(market)は現代イタリア語ではmercatoであり、ラテン語mercatusにつながっている。「商品を持ち寄って売る」というのがマーケットの意味だったことがわかる。フランス語のマルシェ(marche)もここに由来する。なお、コミュニケーションは伝達というよりも「意味の共有」、コンセプトは別に小難しい用語ではなく、「おおまかな考えやアイデア」というのが原義である。
《「下」に続く》

「散歩」という一つの生き方

必要があればタクシーには乗るが、ぼく自身は車を運転しない。というか、車を生涯一度も所有したことがない。歩行者として車への偏見が少しはあることを認めよう。テレビコマーシャルでエコ減税や助成金を視聴するたび、「それなら、靴こそエコの最たるものではないか。ぼくの靴に助成金を出してくれ」と大人げなく一言申し立てている。

世間には『散歩学のすすめ』という本があり、ウォーキングがファッションの一つと見なされ科学的に効能を説かれることもある。歩くことに目的を置くことも置かないことも自由。「なぜ山に登るのか?」「そこに山があるから」という古典的問答があったが、これにならえば、「なぜ歩くのか?」という問いへの模範応答は「そこに道があるから」になるのだろうか。登山家と歩行家は同列なのだろうか。歩行一般について言えば、たぶんそうである。

 しかし、歩行一般から離れて目を「散歩」に向けてみると話は一変する。散歩は車に乗らない人間の代替手段でもなければ、左右の脚を交互に前へと送る無機質な機械的運動でもなく、ましてや健康や気晴らしという目的を特徴としているわけでもない(なお、散歩の定義に「健康や気晴らしのために」という表現を含めている辞書があるが、センスを疑ってしまう。おそらくその項目を書いた学者は、恐ろしく想像力に欠けているか、一度も散歩をしたことがないのに違いない)。


遊歩や漫歩は散歩の仲間であるが、速歩や競歩や闊歩などはまったく別物だ。散歩にあっては道も行き先も別にどうだっていいのである。散歩や遊歩や漫歩の言い換えとして、ぼくは「そぞろ歩き」という表現が気に入っている。ちなみに、「そぞろ」は「漫ろ」と書く。つまり、漫歩に近いのだが、漫歩と言うと「万歩計」のようで、そこに健康ウォーキングの意味合いが入ってくるのが嫌味である。

散歩の向こうには目的も方向性もない。朝になれば起きるのと同じく、散歩も日々の摂理である。散歩がまずあって、その結果その効能を「気晴らしになった、爽やかになった、健康になった」と感想を述べるのは勝手である。しかし、散歩に先立ってゆめゆめ目的や効能について語ってはならない。「なぜ散歩するのですか?」に答えてはならない。答えた瞬間、散歩を手段化したことになるからである。

散歩は、車、バス、電車などと同列の移動手段なのではない。「半時間歩いて焼肉店に行くときは手段になっているではないか!?」と反論されそうだが、それは散歩ではなく徒歩である。焼肉店に向かって歩き出した瞬間、それはもはや散歩と呼べる行為ではない。すなわち、散歩とは他の交通手段と比較しえない、自己完結的な行為そのものなのである。目的や意義に先立つア・プリオリな行為なのである。ゆえに、「散歩学のすすめ」は成り立たず、「散歩のすすめ」のみが本質を言い当てる。

言うまでもなく、「正しい散歩」という概念すらもない。とにかく「一歩を踏み出す」。いや、こんな力強い大仰な表現は散歩にふさわしくない。靴に履き替えて左足でも右足でも気に入ったほうの脚をとりあえず動かしてみる。「どう歩くか」も不要である。ただひたすらそぞろに歩くのである。もうやめよう。「散歩かくあるべし」を語れば語るほど、散歩の意義付けになってしまい、やがて目的論に発展しかねない。