生活と仕事の密接な関係

理論武装できるほどの論拠を持ち合わせていないが、生活の現実はおおむね仕事ぶりに反映されると考えている。ダラダラと生きていたらダラダラと仕事をしてしまう。だらしない日常はだらしない仕事に直結する。無為徒食の日々を送っていれば、ろくな仕事をしないで給料をもらうことに平気になる。明けても暮れても遊んでいる者は仕事すらしないだろうし、流されるような惰性的生き様は、左から右へとただ流すだけの仕事に直結するのではないか。

生活を置き去り等閑なおざりにしたままで、いい仕事ができるはずがないのである。休日に運動し過ぎて身体を壊す。かと思えば、別の日には昼過ぎまで爆睡。アフターファイブは元気溌剌と友人と暴飲暴食、翌日はぼんやり頭で遅々として進まぬ仕事に向き合っている。暮らしぶりを見たらぞっとする、しかし表向きだけプロフェッショナルを装っている人間は結構いるものだ。「遊びは芸の肥やし」などと、まったく実証性のない自己弁護でふんぞり返っている芸能人もそこらじゅうにいる。二十代半ばで放蕩三昧から足をきっぱり洗って聖職に就いたのはアッシジのフランチェスコだ。悪しきライフスタイルとの決別は、一気にやり遂げねばならない。凡人にはなかなかむずかしいことだが、実は、少しずつ変革するほうがもっとむずかしいのである。

やわらかい発想を身につける方法やアイデア脳の育て方について、講演もしているし相談もよく受ける。ぼく自身、決して威張れるような日常生活を送っているわけではないが、〈クオリティオブライフ〉と〈クオリティオブビジネス〉を一致させるべく努力はしている。ふだんぼんやり暮らしているくせに、仕事の場だけ上手に頭を使おうというのは虫のいい話なのである。相談してきた人には「恥じないようなライフスタイルへと向かいなさい」と言う。素直な人は「わかりました。明日からそうします」と決意を示すが、すぐさま「ダメ! 今すぐ!」と追い打ちをかける。今日できることを明日に先延ばしするメリットなどどこにもない。決断と行動は同時でなければ意味がない。


様子を見てから、状況に照らしながら、相手の出方次第で、諸般の動向を睨んで、などはすべてペンディング動作にほかならない。「アメリカの動きを見て……」などと言っているから先手で意思決定もできず政策も打ち出せないのである。自分が自分でどうするかをなかなか決めない。状況や条件ばかり気にして、自発的かつ主体的に動かない。条件にあまり縛られない日常生活でこんな調子なら、本舞台の仕事では身動き一つ取れなくなるのが当たり前だ。

杜撰なライフスタイルは脳を怠惰にする。怠惰な脳は意思決定を躊躇する。反応的にしか働かなくなるのである。頭を使う仕事がはかどらなくなるとどうなるか。人は考えなくてもいい作業ばかりに目を向け、無機的な時間に異様な執着を示し始める。その最たる作業が会議だろう。「昼過ぎて まだ朝礼中 あの会社」という川柳を冗談で作ったことがあるが、あながち非現実的なジョークでもない。緊張感のない生活価値観は必ず仕事に影響を及ぼす。顧客と無縁な作業――社内の人事考課、業務レポート、朝礼、その他諸々の管理業務――ばかりがどんどん増えていく。

かつて公私混同するなとよく言われた。その通りである。しかし、精神性や脳の働きに公私の区別がつくはずもない。気持ちも頭もゆるゆるの生活者が、家を出て会社に着くまでの間にものの見事にきびきびとした仕事人に変身できるわけがないのである。〈私〉の姿をいくら包み隠そうとしても、〈公〉の場で仕事の出来や姿勢に本性が露呈してしまうのだ。ビジネススキルの前にヒューマンスキルがあり、さらにヒューマンスキルの前に胸を張れるようなライフスタイルを築かねばならない。要するに、「生活下手は仕事下手」と言いたかったのだが、はたして大勢の人々に当てはまるだろうか。

仕事上の能力開発のアドバイスをするために、生活態度や日々の暮らしぶりにまで介入して口はばったいことを言わねばならなくなった。必ずしも歓迎材料ではないが、日常の習慣形成を棚上げしたままでは、ぼく自身の教育へのコミットメントが完結しないのである。こんな姿勢を示すと、都合の悪い人が去ってしまうことになりかねないが、それもやむをえない。

型を破る型はあるか、ないか?

型に縛られていないようだが、アイデアマンにも発想の型がある。「やわらかい発想ができる」という自信は、慣れ親しんだ型に裏付けられているものだ。やわらかい発想について話をするとき、ぼくは必ず型の説明をしている。「やわらかい発想に型などない。以上」では報酬をいただくわけにはいかない。やわらかい発想のためには常識・定跡・法則の型を破らねばならないが、型を破るための型を示さなければ、誰も学びようがないのである。けれども、ぼくはある種の確信犯なのだ。「型破りに型などあるわけがない」と思っている。

「破天荒な型」などと言った瞬間、そのわずか五文字の中ですでに自家撞着に陥っている。破天荒な人物に型があったらさぞかしつまらないだろうし、そもそも型を持つ破天荒なヒーローなどありえない概念なのである。破天荒にルールはなく、型破りに型はない。野球で言えば、ナックルボールみたいなものである。無回転で不規則に変化するボールの動きや行方は、打者や捕手はもちろん、投げた投手自身でさえわからない。ボストンレッドソックス松坂の同僚で、名立たるナックルボーラーのウィクフィールドだって「どんな変化をしてどのコースに行くかって? ボールに聞いてくれ」と言うに違いない。そこには決まった型などない。

だが、ちょっと待てよ。行き先や動きが不明ということがナックルボールの型なのではないか!? ふ~む。嫌なことに気づいてしまったものだ。たしかに、ナックルボールには、投げたボールがどう変化してキャッチャーミットのどこに入るか――あるいは大きく逸れるか――が皆目わからないという明白な特徴がある。それを型と呼んで差し支えないのかもしれない。ついっさきの、型破りな型などないという確信をあっさり取り下げねばならないとは情けない。野球の話などしなければよかった。


以上でおしまいにすれば、文章少なめの記事になったが、気を取り直してもう少し考えてみることにする。先の「破天荒な型」に話を戻すと、その型が定着したり常習的に繰り返されないならば、つまり、一度限りの型であるのなら、これは大いにありうる、いや、あっていいのではないか。

マニュアルやルールの批判者が、『マニュアル解体マニュアル』を著したり『ルールに縛られないためのルール集』をまとめたりしたら、やはり節操がないと睨まれるだろうか。その批判者自らが提示する解体マニュアルと変革ルールを金科玉条に仕立てたら、当然まずいことになる。二日酔い対策のための迎え酒が常習化したら、昨日の酔いの気を散らすどころか、年中酒浸り状態になってしまう。

何となく薄明かりが見えてきた。マニュアルを一気に解体してみせる一回使い切りのマニュアルならいいのだ。また、ルールにがんじがらめに縛られている人を救うためのカンフル剤的ルールなら許されるのだ。したがって、型破りのための新しい型が威張ることなく、たった一度だけ型破りのために発動して役目を果たすなら、大いに褒められるべき型であるし共有も移植も可能だと思える。ここで気づいたが、この種の型のことをもしかすると「革命」と呼んだのではないか。

型という一種のマンネリズムを打破する方法は革命的でなければならず、その方法が次なるマンネリズムと化さないためには自浄作用も自壊作用も欠かせない。とにもかくにも、どんなに魅力ありそうに見える型であっても、型はその本質において内へと閉じようとする。型は決めたり決められたりするものだから、個性や独創と相性が悪いのである。型を破ったはずの型を調子に乗って濫用してはいけない。この結論がタイトルの問い〈型を破る型はあるか、ないか?〉の答えになっていないのを承知している。