きみの「わかる」がわからない

《書簡形式のモノローグ

私塾で取り上げた先日のテーマは決してやさしくありませんでした。ぼく自身、この一年ずっと構想してきたし、具体的な話の構成と内容についてもここ数ヵ月の間あれこれと考え探究して準備をしてきたけれど、未熟さもあって十分にこなれた講義ができたとは思っていません。

案の定、わかってもらえるだろうかとぼくが気になっていた箇所について、きみはぼくに問いを投げかけました。ぼくのさらなる説明を聞いて、しばらく考え、やがてきみは「ふ~む、やっぱりわからない」とため息をつきました。きみが「わからない」と吐露したことに、正直ぼくはほっとしたのです。ぼくにはきみの「わからない」がよくわかった。なぜなら、ぼくもあの箇所についてずっとわからない状態の日々を過ごしてきました。そしてその後、ようやく他者に話せる程度にわかったという確信を得たからです。つまり、ぼく自身がずっと「わからない」状態で苦悶していたからこそ、きみの「わからない」がまるで自分のことのようによくわかるのです。

実に不思議な感覚。ぼくが「やさしい」と感じていることを誰かが「むずかしい」と感じていることがわかる。誰かの「わからない」がわかる。おそらく「わかる」には「わからないということ」が下地になっているのに違いありません。恵まれて他者に何事かを説こうとする者は、少なくとも理解の難所をよくわきまえておくべきだと思うのです。学生時代、「お前たち、こんなやさしいことがわからんのか!? バカものが!」という教師に言い込められたことがあります。ぼくにとって反面的な教訓になっています。自分にとってやさしく理解できることが、他者にとってはそうでないこと、そのことをわかるデリカシーを失うまいと心に誓いました。

きみの「わからない」が「わかる」に変わるべく、ぼくはあの手この手を工夫してさらなる研鑽をしてみようと思います。


《書簡形式のモノローグ2

ぼくがきみに伝えようとした事柄は少々むずかしかったかもしれません。なにしろ自分でもよく咀嚼できていたとは言えず、それゆえにぼく自身がよくわかったうえで伝えたと断言する自信がありません。にもかかわらず、物憂げになるどころか、きみは表情一つ変えずに「よくわかりました!」と言ってのけました。

仮にぼくもわかっていたとしましょう。そして、きみもわかった。要するに、ぼくたちはあの事柄について一定の理解に達したというわけです。ところで、「わかる」ということは「わからない」ということよりも多義的ですね。「わからない」はどこまで行っても「わからない」だけど、「わかる」には程度があると思うのです。いったいぼくはきみの「わかる」をどのように勘案すればいいのでしょうか。

ぼくときみは同じようにわかっているのでしょうか。そこに理解程度の一致はあるのでしょうか。ぼくはきみの「わからない」はわかるのですが、きみの「わかる」がわからないのです。きみの「わかる」はぼくの「わかる」と同程度であり同質であると、どうすれば言い切れるのでしょうか。誤解しないでください。きみに詰問しているわけではありません。ぼく自身への本質的な問いなのです。人に物事を説こうとする立場にあって、ぼくは「他者がわかる」ということを突き詰めずにパスすることはできません。

他者の「わからない」ことをわかる自分が、他者の「わかる」ことをわかってはいないのです。いったい「わかる」とは何なのか、それは懐疑の余地すらない「わかる」なのか。どうやら、このテーマは、ぼくが私塾で話し続けるかぎり、ついて回ってくる難題になりそうです。いや、滅入っているのではありません。むしろ、ぼくにとって追い求めがいのあるテーマに気づいたことを喜びとしている次第です。

日々の「わからない」

アイスランドの火山爆発による航空事情はほぼ平常に戻ったようだ。早速、例によって経済損失がはじき出された。一日あたり2億ドル、日本円にして1,850億円の損失だそうである。なぜ貨幣単位の損得で事態を把握しようとするのかがどうもよくわからない。

大小様々な自然現象は起こる。人間が何をしていようが、そんな都合におかまいなく地球はマイペースで活動する。その結果、「被害」という概念が生れるのだが、身勝手な話である。地球から資源を欲しいまま取り込みながら、そのことの経済利得には知らん顔しているではないか。それよりも何よりも、なぜ自然現象による影響を経済指標に置き換える必要があるのか。

まもなくゴールデンウィークを迎えるが、またぞろ一日いくらの経済効果などと言い出すのだろう。自然を、楽しみを、日々の活動を何でもかんでも金銭に換算するのは無粋な話である。


オフィスから二、三分歩き大川の対岸に沿って行けば造幣局がある。十数年ぶりに通り抜けてみた。観光ガイドブックのテーマにもなっている「日本人と桜」に惹かれてか、外国人観光客も少なくない。桜を愛でるのも悪くはないが、桜を愛でる人たちを眺めるのもおもしろい。カメラを接写で構えて微動だにしない人、一目散に通り抜ける人、枝に触るなとアナウンスがあるのに触る人、ろくに桜も見ずにずっと世間話をしている人、先日どこどこの桜を見てきたと講釈するばかりで今に集中していない人……。

投句箱がある。詳細はよくわからないが、今年一句作って投函して入選すれば、来年に桜の木にぶら下げられるようだ。つまり、今年掲げられているのは昨年訪れた人たちの句である。ぼくの見たかぎり、およそ半数の作品の下の句が「通り抜け」で結ばれていた。佳作か秀作ゆえに咲き誇る桜の木々に吊るすのだろうが、必ずしも花見に一興を添えているとは思えない。「ロマンスが 生れそうです 通り抜け」にはまいった。いまどきロマンスである。しかも、通り抜けしながら生れてきそうに思うらしいのである。もう一句、「アンニョンハセヨ ニイハオハロー 通り抜け」。国際色を反映してはいるが、これで秀逸とは選者も甘い。俳句のよさもわかりにくいが、通り抜けとの関係が皆目わからない。


これまたオフィスの近くに新しい飲食店がオープンした。勉強会後の懇親会に使えないかと思い、試しにランチに出掛けてみた。店は閉まっている。たしか先日通りがかった時には昼も営業していたはずなのだ。近づくと貼紙がしてあって、「換気装置故障のため、しばらくランチタイムの営業を致しません」と書いてある。

ところが、夜は営業しているのである。これでは換気装置の故障がお昼を休む説明になっていないではないか。わざわざ具体的な装置故障の理由を知らせることはない。なぜ「しばらくの間、夕方からの営業とさせていただきます」と貼紙しないのか、これもよくわからない。

「わかる」ということが、実は「よくわからない」

「クラシック音楽はわからないから、つまらない」。たしか先週だと思う、つけっ放しのテレビからこんな音声が聞こえてきた。小学生のつぶやきだった。わからないから、つまらない……なるほど、そうだろうなと暗黙のうちに同意していた。

ところが、ぼくは大人である。「わからないからつまらない」と簡単に物事を片付けるわけにはいかない。大人だからもう一歩踏み込んでみなければならぬ。そこで自問してみた。わかれば楽しくなるのだろうか? 「クラシック音楽はわからないけれど、なんだか楽しい」は成り立たないのだろうか? そもそも「わかる」とはどういうことで、「わからない」とは何を意味しているのだろうか?

自宅の本棚に目をやって、しばし何段か追ってみたら、「わかる」をテーマにした本で以前ざっと読んだのが4冊並んでいる。ずばり『「わかる」とは何か』、その隣に『「わからない」という方法』、そして『「わかる」技術』に『わかったつもり』だ。よくもまあ、うまく揃っていたものである。これらの本の目次はほとんど覚えていないし再読したわけでもないので、どんな切り口で書かれているのか知る由もない。


それにしても、考えれば考えるほど、「わかる」が結構むずかしいテーマであることに気づく。「クラシック音楽はわからないから、つまらない」と言った小学生の男の子に一度は共感したが、ちょっと待てよ、音楽というものは、それがクラシックであれ童謡であれジャズであれ演歌であれ、鑑賞すればいいわけで、わからなくても問題ないのではないか。もし「わかる」が「理解する」という意味ならば、それこそそんな論理的了解の必要などさらさらないはずだ。

音楽がわかることと算数がわかることは、たぶん違う。算数で問題が解けたり道すじが見えたりするのと、鑑賞者として音楽がわかるのとは根本的に違うはずである。音楽鑑賞や美術鑑賞に際して、詳しい知識を身につけているからといって「わかる」ようにはならない。たしかに「わからない」よりも「わかる」ほうがいいに決まっている。だからと言って、芸術鑑賞において「わからなければならない」必要性やノルマなど一切ない。「こんなもの、わかるってたまるか!」という反発や居直りさえあってもいい。


もしかして学校教育は「わかる」ことを当然のように前提にして成り立っているのではないか。どんなことにも答えがあって、その答えを見つけたら「わかった」と見なし、答えが見つからなかったら「わかっていない」と判定を下す。こんな調子で、「わからないことはつまらないこと」と決めつけるような空気を充満させて、つまらない教育を膨らませているのではないか。

「わかる」の対極に「わからない」があって、その二つの状態しかないのであれば、まるでON/OFFのデジタル処理みたいではないか。そんなバカな話はない。「わかる」にはいろんな程度の「わかる」があり、「わからない」にもいろんな程度の「わからない」がある。人によって度合が異なるものなのだ。「それなりにわかる」という、きわめてファジーな了解の仕方すらある。「わかる」と「よくわかる」の差が、実はよく「わからない」のである。

もしあることについて「完全にわかる」ことがありえないのだとしたら、ぼくたちはたぶんすべてのことについて「あまりよくわからない」状態に置かれているに違いない。そして、たいせつなことは、あまりよくわからないからつまらないなどと刷り込みをさせず、むしろ、あまりよくわからないからこそ楽しいのだという方向へ子どもを導くことだろう。

今日の話、わかったようでよくわからないという印象をお持ちになったのであれば、お詫び申し上げる。