続・万年筆のサバイバル

万年筆のペン先は紙質にうるさい。もちろんペンが紙に対して優位ではないから、紙側からすれば万年筆を選ぶということになる。しかし、ペンと紙の相性は両者だけで折り合うのではない。媒介となるインクの存在が欠かせないのだ。インクの色合いや「液性」について豊富な表現力を持ち合わせないが、さらっとしたインク、やや粘りのあるインク、粒子の微細なインクなどがあることくらいは、長年書いてきたからわかる。

「このインクの色がぴったり」と確信しても、文具売場の照明と自宅やオフィスの照明が違う。ペン先の硬さによってはインクの出方や滑り方が違うし、紙質によっても色はデリケートに変化する。ましてや、ここに紹介するような下手な写真では数分の一も写実的に再現できない。それでも貧困な語彙を補う足しになればと思ってお見せする。

Fountain pen ink.JPG濃いめのセピアは栗色に近い。こげ茶とは違うが、よく目を凝らしてもわからない。同じ栗でも赤ワインに近い色を買った。実際は紫がかってはおらず、文字の書き終わりのかくで濃い赤が出る。このペンはセーラー。
Kobe INK物語の「長田ブルー」と生野区の加藤製作所の万年筆という、ディープな組み合わせ。だが、ブルーグレーとも言うべき繊細な色だ。
パイロットの月夜というインク。万年筆はペリカン。
モンブランの万年筆にペリカンのロイヤルブルー。


黒インクはカートリッジで持っているが、ほとんど使ったことがない。黒しか使わなかった時代もあるが、今は青。現在はボトルで5種類あるが、すべて違う。先にも書いたが、ペンと紙を変えれば、インクの色が変化する。

ぼくは18歳のときに英文タイプライターを使い始めた。そのくせ、万年筆でも英文をよく書いていた記憶がある。日本語のワープロを使い始めたのが1987年。つまり、それまでは公私ともに書くときは手書きだった。仕事では原稿用紙も使っていたし、若い頃からの習慣であるノートはすべて手書きである。手書きを少しも苦にしないが、1990年頃からは画面に向かってキーボードを打つほうが多くなった。刷り上がりと同じ体裁で見えてしまうために、文の完成度の高さと錯覚してしまう。やがて推敲に手を抜くようになる。

最近は原点に戻って、コンセプトの出発点はすべて手書き。論理から離れて偶発的なアイデアを期待するときは万年筆。そして、色を変えることによって気分や発想を変える。証明などできないが、つねに同じ形で現れるフォントとは違う文字の形、その文字のインクの滲みが、これから書こうとする表現に影響を与えそうな予感がする。いや、それは表現などではなく、思考そのものを誘発しているのかもしれない。

大した文章を書けるわけではないが、万年筆を使う時はこの一文字を軽んじてはいけないと気が引き締まる。カーソルで不要な文字を消すのとは違って、書き損じに抹消の線を入れるときも文字を挿入するときも、人を扱っているような気になってくる。万年筆そのものの重さに加えて、紙に滲むインクを通じて文字の重みが掌から伝わってくる。

万年筆のサバイバル

「紙の本ははたして生き残ることができるか否か」という議論が現実味を帯びてきた。他方、ペーパーレスが叫ばれてからも紙のドキュメントはオフィスから消えていない。それどころか、社内でやりとりしたメールをわざわざ紙にプリントアウトして打ち合わせしている始末。紙は根強く執拗に生き長らえている。いや、死滅することはないと断言できそうだ。少なくともぼくは、紙と電子をうまく併用していこうと思う。

仮に千年前にUSBCDなどの記憶メディアが開発されていたとしよう。度重なる戦争や略奪を経てもなお、そこに記録された情報は無事に現在まで持ち堪えているだろうか。インフラはデータを守りきってくれただろうか。紙の場合はどうか。おびただしい文書が散逸したとは思うが、幸いなことにぼくたちは古代からの書物を今も読むことができる。幾多の戦乱期を経た古文書の類を今も読むことができる。これに比べると、ぼくたちが依存している電子メディアはたかだか四半世紀ほどの保存力しか証明していない。電子メディアには一触即発で消えてしまう怖さがある。

紙に印刷された事柄のほうが、画面から頭に入ってくる情報よりも、よく記憶に定着する。これはぼくの実感であるから、普遍化するつもりなどない。ぼくは紙の威力をひしひしと感じている。紙がITに追放されることなく、それどころか、十分に併存できているのに比べると、紙と一番相性がいいはずの万年筆は頼りない存在になった。このクラシックな筆記具が奇跡的に復活して、キーボードに拮抗できる見込みなどとうの昔に消えてしまったかのようだ。


長く愛用してきたシェーファーの万年筆を20年前に紛失してから、主に水性ボールペンを使い、ここ数年は書き味なめらかな油性ボールペンでノートやメモを書いている。10本ほど持っている万年筆の出番はきわめて少ない。気に入った万年筆を折々に買ってきたが、メーカーがいろいろ。つまり、インクカートリッジが違う。メーカーによってはインクまで指定される。これに、黒いインク、ブルーのインク、ブルーブラックなど好みに応じて取り揃え、インクを変えるたびに手入れをするのも面倒だ。

万年筆と言いながら、結構ケアせねばならず、万年にわたって使いこなすのはむずかしいのである。山田英夫『ビジネス版悪魔の辞典』では、【万年筆】は「調印式のために、出番を待ち焦がれている筆記具」と位置付けられている。また、別役実『当世悪魔の辞典』では、「手に合ったものになるまでに時間がかかるから、たいていその間に失くしてしまう。失くさずにたまたま持っていると、手に合ったものになったとたん、寿命がくる」。いずれも、万年筆の使用場面には言及しておらず、惨めな身の上話になっている。

決して安っぽい存在ではない。高価かつ高級品である。知的な筆記具として他を寄せつけない存在だ。それなのに、あまりにも軽い扱いしか受けていない。とても不憫である。10本の万年筆を前にしてぼくはノスタルジックになった。小学校か中学校卒業のときに買ってもらった万年筆。今は手元にあるはずもないが、あの時の大人になったような知的高揚感は今も忘れない。サバイバルすら危うい万年筆にもはやリバイバルはないのだろうか。

ぼくは自分一人の万年筆復活プロジェクトを起ち上げた。きっかけは、色と滲みの再発見。大したプロジェクトではないが、一歩踏み出して手持ちの万年筆を再活用することに決めた。この話の続きは一両日中に書いてみたい。