相互参照はキリがない

忙しさにかまけて、インターネットでさっさと調べることがある。インターネットも百科事典のように〈相互参照クロスリファレンス機能〉を備えている。たとえば、ある本で知った専門語を手繰っていけば、そこから蜘蛛の巣のように相互参照のネットワークが広がっていく。両者の違いは、百科事典の場合には全巻の内部で相互参照が成り立っているのに対して、インターネットでは参照や引証がほとんど無限連鎖していくという点である。

この無限連鎖はまずい。本題から逸れてエンドレスサーチャーになってしまうからだ。そこで、ネットの利用に関しては歯止めになりそうな条件をつけるようにしている。まったく何も知らない事柄については、初動手段としてウェブを利用する(辞書は机上に置いてあるので、用語の意味はめったにネットでは調べない)。さらに、ある程度はわかっているが、具体的な事例が欲しいとき、身近にある書物以外に何かないだろうかとネットで調べることもある。もう一つは、いずれは読んでみたいと思っているが、当面のところ時間もないし他の本で手が一杯のとき、ネット上で読める専門家の書評や論評をとりあえず予備的にアタマの片隅に入れておく。松岡正剛の『千夜千冊』などはとてもありがたい無料の公開情報である。

正直に言うと、自分でもどこかで喋り研修のテキストなどでも使っているくせに、ふとした勘違いで間違ってはいないかと思ってインターネットにあたることもある。詠み人知らずの情報ではまずいので、ウィキペディアではなく、極力専門家のシラバスやその人たちが開設しているサイトを読んでみる。手元にどんな本でもあるわけではないから、そういう場合にはほんとうに重宝する。だいたい、気になって調べる時は事実誤認している意識がどこかにあるので、結果として念のために確かめておいてよかったと胸を撫で下ろすケースが多い。


浅学だが論理学を曲りなりに勉強し実践してきたから、〈小概念不当周延の虚偽〉という専門用語について知っているし、それが「小さな情報から大きな結論を導いてしまうことによって犯してしまう誤り」であることくらい承知している。たとえば、「彼は遅刻した。ゆえに信頼できない」などがその一例。一度だけの遅刻によって信頼できない男というレッテルを貼ると虚偽を導出してしまいかねない。他に好例がないかと思ってネットで調べてみたら、その項目で検索された最初のページの上から8番目に「オカノノート」が出てきた。どこかで見たと思ったら、本ブログではないか。思い出した。この用語が登場するブログ記事をぼくは以前書いていたのである。

自分の書いたものをあやうく参照するところだった。いや、ちょっと待てよ。それが仮にぼくではなく別の誰かが書いたものであったとしても、その誰かがもしかするとぼくの書いたものを参照したかもしれないではないか。ソースのわからない情報というのは、こんな具合に相互参照が繰り広げられて雪だるまのように膨らんでいる可能性がある。ふと思い出したが、以前ぼくがM君に話してあげたとっておきのエピソードを彼がある勉強会で披露した。後日、その勉強会に出席していたK君にいみじくも同じエピソードをぼくが語ったら、「先生、Mの話のパクリですね」と言われたことがある。ネット上では情報発信の本家がどこかはわからない。ぼくにしたって、そのエピソードをどこかで知ったのだから。

それにしても、変な尻尾だと思って正体を暴こうとしたら、それが自分に辿り着くなどというのはインターネット特有の現象ではある。ぼくのような人間には、小さく閉じられた世界の中でささやかに調べたり考えたりしているのがお似合いなのだろう。ブログやツイッターに日夜目配りしているのはよほどの暇人である。ふつうの仕事をしてふつうの生活をしていれば、たとえ義理があろうとも知人友人のサイトのことごとくに目は届かない。「岡野さんのブログを読ませてもらっています」と言われても、ほとんどがお愛想だ。そうそう、ネタの仕込みとして、ぼくと会う前日か当日にさっとブログに目を通している人は案外多いかもしれない。

アイデンティティという本分領域

インターネットとメールの時間は最大で一日2時間と決めている。これは最大値なので、そんな日は月にほんのわずか。ブログを書くのに半時間以内、お気に入りに10件ほど入っている著名人・塾生・知人のブログに目を通したり気になる情報をチェックするのも半時間以内。PCにはずっと電源は入っていることが多いが、インターネットとメールで1時間を超えることはまずない。なにゆえにこのような自制について書いたかというと、仕事の本分が、ともすればPC的な作業に侵犯されているのではないかと危惧するからである。

ぼくは代表取締役という立場にあるが、企業経営者であることを本分だと考えたことはない。創業以来、ぼくの本分は「企画者」であり続けている(青二才的に言えば、「世のため人のための企画者」)。最近では「アイディエーター(アイデア創成人)」と自称して、知・技・生・業・術などに関する新旧さまざまなテーマについて新しい切り口を見つけ出し、発想し編集し著し提示し語ることを仕事にしている。マーケッターとかコンサルタントとかレクチャラーなどとも呼ばれるが、これらの肩書きはアイディエーターの下位概念にすぎない。つまり、ぼくの仕事におけるアイデンティティ(自分らしさ、自己が自己である証明)は「アイディエーション(アイデア創成)」にあると自覚している。

そのように強く自覚していても、PCによる作業はそれ自体があたかも本分であるかのような顔を見せる。IT技術者でないぼくにとって、キーボードを叩き、キーワードを検索し、メールのやりとりをするのは仕事の本分にとって手段にすぎない。その手段に一日の半分を食われるようであってはならない。すべての仕事が前段で掲げたアイデンティティに接合している自信はない。しかし、自分らしさから大きくかけ離れた仕事とアイデンティティ確立の仕事の間に、ストイックな「節度線」なるものを引いておくべきだと少々肩肘を張っている。


アイデンティティには「自己同一性」などの訳もあるが、人間ばかりに使うことばではない。たとえば、野球とソフトボールは瓜二つだが、厳密にはそれぞれに「らしさ」があって微妙にDNAが違う。延長になるとソフトボールではノーアウト2塁の状況を設定する。いわゆる「タイブレーク」だが、この方式を北京五輪で野球に用いたのは記憶に新しい。あのような制度を野球で使うのは、小さなルール改正の一つであって野球の本分を汚すものではないと言い切れるのだろうか。

妥協なき質実剛健と思われるかもしれないが、ぼくは野球の本分に「引き分けなし」と「決着がつくまで戦い続ける」があると考えている。日本のプロ野球の引き分け制度は、野球のおもしろさを半減させ本分を歪めているのではないか。延長12回で決着がつかなければ引き分けとするのが現状だ。すると、同点で12回裏開始時点においては「先攻に勝ちがなく後攻に負けがない」が確定する。この引き分けルールもタイブレークも苦肉の策ではあるが、野球というスポーツの遺伝子組み換えになってしまってはいないか。

野球の話をがらりと変える。大学時代、ぼくは英語研究部に所属し二回生の終わりから一年間部長を務めた。部長在任中に数人の部員が「交流機会が少ない」のを理由に辞めたいと言ってきた。副部長は留まるように説得しようとしたが、ぼくは去る者追わずの姿勢を貫いた。「この部の本分は英語研究であって、交流ではない。交流の意義を否定しないが、交流優先で研究お粗末では話にならない。厳しいようだが、君たちの英語力で何が交流か。交流だけを望むなら、根無し草のような他部へ行けばよい」と突っぱねた。それから30数年経つが、今も私塾の運営に関してはこの考え方を崩してはいない。しっかりと学ばない集団に交流などありえないのである。

食のアイデンティティの話を書くのが本意だったが、前置きそのものが一つのテーマになってしまった。ブログを書く制限時間の30分が過ぎようとしているので、食の話は明日以降に綴ることにする。