テレビコマーシャル考

television commercial.jpg今もマーケティングの企画をしたりコピーを書いたりもする。かつては広告の仕事をしたことがあるので、少しは制作の裏事情もわかっている。デフォルメはやむをえないが、ウソをついてはいけない。このことは心得ておくべきことだ。

とは言うものの、この「ウソ」の解釈がむずかしい。ありもしないストーリーづくりをしても商品の特徴を偽らなければウソにはならない。時には過剰演出もあるだろうが、それもウソではない。小説のことを「虚構フィクション」と呼んで「虚偽」とは言わないように、広告における虚構性をウソと決めつけるわけにはいかないのである。しかし、ウソではなくてもノンフィクションだと胸を張れるかと問えば、やっぱりフィクションも混じることを否めない。テレビコマーシャルはフィクションとノンフィクションのはざまで揺れ動く。
あることを誇大に強調し、別のことを語らないというのも、たかだか15秒枠で訴求せねばならないテレビコマーシャルの宿命である。「歯医者さんが薦めるPCクリニカ」というのがあったが、どこの歯医者さんかは不明である。もしかすると適当な歯医者さんかもしれないし、第一人者の歯医者さんかもしれない。「やっぱりDHCだね」と言われても、何が「やっぱり」なのかわからない。売上ナンバーワン即納得でもないからだ。

何度見てもぼくが苦笑いするのが、「う~がい、手洗い、にんにく卵黄~」である。健康の三点セット? たしかにそんなふうに聞こえる。そして、「 ばあちゃんの言う通り」と続く。ばあちゃんは年中うがいをして手洗いをしてにんにく卵黄を一日何粒かを目安に飲む。そのことをばあちゃんは孫たちに教えているようだ。孫の年齢にしてにんにく卵黄というのも不思議だが、「ばあちゃんの言う通り」というくらいだから、もしかすると愛用しているのかもしれない。極めつけは「 あ~あ、ばあちゃんにゃかなわない」だ。もうお手上げなほど、ばあちゃんは偉いのである。つまり、にんにく卵黄も偉いということだ。フィクションかノンフィクションか……わからない。

たぶん11月頃から流れ始めたコマーシャルがある。元テニスプレーヤーの杉山愛を起用した歯磨きシュミテクトだ。一部始終のせりふをここに書かないが、「歯がしみる、知覚過敏にいい」云々という内容。それはそれでいい。実証もされているのだろう。ところが、コマーシャルの最後に、懸命に宣伝したはずの杉山愛が「すぐにでも使ってみたいと思います」と言うではないか。おいおい、あなたはまだ使ってないの!? とツッコミを入れざるをえない。
コマーシャルに起用された本人が使ってから宣伝してもらいたいものである。大衆的なヘアカラーを訴求する大物女性タレントが白髪が目立たないなどとおっしゃるが、たぶん本人は自分で染めているはずがない。セレブな美容院でもっと高価なもので染めてもらっているに違いないのである。あの知覚過敏歯磨きのコマーシャル、すでに流れてから3ヵ月以上になると思うが、杉山愛はまだ「すぐにでも使ってみたい」と言っている。今使い始めても、もはや「すぐに」ではないだろう。

「はい!」 元気な返事は要注意

自分が「はい!」と元気よく反応することもあるし、相手がこちらに対応して「はい!」と元気な場合もある。ぼくはめったなことでは調子よく愛想を振りまかないが、「来週に大阪? じゃあ、食事に行きましょう」と軽やかに条件反射することはある。しかし、「は~い! ぜひぜひ!」と愛想よく返事をする人と実際に食事をすることはきわめて稀である。逆も真なり。「近々相談に乗ってくださいよ」に対して「はい!」とぼくが元気に答えるときも、めったに仕事成立には至らない。

元気な返事が一種の虚礼であり社交辞令であり人間関係の潤滑油であることを知ったのは、十年くらい前。ずいぶん晩熟だったものだ。それまでぼくは、「はい」とは承諾であり賛成であり実現に向けて努力をする意思表明であると純粋に考えていたのである(「はい!」と元気よく返事されたら、ふつうは性善説に傾くだろう)。だが、ぼくはもう騙されない。考えてみれば、「はい」で会話が終わること自体が不自然なのだ。実行に至るのなら、どちらか一方から「では、日時を決めましょう」となるはずである。


事はアポイントメントにおける「はい」だけに終わらない。「例の案件、考えてくれた?」に対する「はい!」にも気をつけるほうがいい。経験上、「考えた?」への「はい!」は十中八九考えていないし、「分かった?」への「はい!」も99パーセント分かっていないし、「できる?」への「はい!」は「できないかも」と同義語である。最近のぼくは「はい!」は”イエス”ではなく、「とりあえず返事」であることを見抜いている。だから、「はい」で会話を終わらせてはいけない。コミュニケーションが少々ギクシャクしても、“5W1H”のうち少なくとも二つくらいの問いを追い撃ちしておいたほうがいい。ついさっきも、元気な返事の欺瞞性を暴いたところだ。

夕方4時半に来客がある。コラボレーションでできるビジネス機会について意見交換をする。担当のA君に内線で確認した。「何かテーマなり提案内容を考えてる?」と聞いたら、「はい!」と返事が元気である。言うまでもなく、この開口一番の「はい」は「考えていない」ことを示す兆候だ。「たとえば?」でもいいのだけれど、あれこれと取り繕う可能性もあるので、ちょっとひねって「考えたことを紙に書いた?」と、逃げ道のない追い撃ちをかけた。「いえ、書いてはいません」と彼。この後、考えていないことが暴かれていった2分間の経緯は省く。

ソシュールを乱暴に解釈すれば、書いたり話したりするなど言語化できないことは「アタマの中でも考えていない」ことになる。ことばを発して初めて思考は成立する。「口に出したり書いたりはできないけれど、ちゃんと考えていますから」はウソである。「考えてはいるけれど、うまく言えない」というのもコミュニケーションの問題ではなく思考力の問題である。うまく言えないのは語彙不足だからであり、語彙不足ならば理性的思考はしづらいだろう。厳しい意見になるが、「うまく言えないのは、考えていないから」なのである。


「はい!」はぼくへのウソであると同時に自分への偽りだよと、A君に言った。人間は自分が考えていると思っているほど考えてはいない、とも言った(ぼく自身の反省でもある)。最後に「このブログに『A君につける薬』という新しいカテゴリを作ったら、『週刊イタリア紀行』よりも人気になるかもしれないな」と言ったら、「いや、それはご勘弁を」と平身低頭。「ネタは無尽蔵なんだけどなあ」とぼく。いずれ本にして出版してもよい。すでに「あとがき」までできている――「書物に、実社会に、人間関係にと、A君につける薬を求め続けたスキル探訪の旅は終わった。結局、そんな薬はなかった。最後の頼みは、A君自身の毒を以って毒を制すことである」。