会話に飢える人々

ものの売り買いにともなうことばのやりとりは、たとえば昭和30年代では現在よりも多かったはずだ。家族団欒にともなう談話と並んで、買物に際しての会話は日々のコミュニケーションにあって質と量のいずれも重要であった。町内では角のタバコ屋に喫茶店、駄菓子屋に金物店、二筋ほど向こうの商店街には食材の店が立ち並んだ。会話なしに買物はできなかった。いや、ものを売ったり買ったりする行為自体がコミュニケーションのレールの上を走ることにほかならなかった。

昨日こんな話を聞いた。スーパー入口前の駐輪場で高齢の女性客と、これまた還暦を過ぎている駐輪整理係の女性が立ち話をしていた。店内で買物をすること10分弱、外に出ると駐輪場では二人が寒風の中でまだ話し込んでいたそうだ。聞き耳を立てれば、次のような声が聞こえてきたという。「一人暮らしのうえに、商店街のないこの界隈ではコンビニやスーパーばかり。ただ商品を選んで黙ってお金を出してお釣りをもらうだけ。形だけの愛想があるだけで、話す機会などまったくない」。

少し考えさせられた。核家族化が当たり前になって一人暮らしの高齢者が増えた。家庭での会話は当然消えてしまっている。かつて毎日通った商店街は重く翳り、昔なじみがどんどん廃業していく。足腰が弱って商店街を歩く元気もない。便利なスーパーで日々少量の食材をまかなうのもやむをえない。レジで立ち話はないだろうし、別のお客さんとの世間話もありそうもない。先の駐輪場係の女性が面倒がらずにお客さんと立ち話をした背景には、彼女にも会話への飢えがあったに違いない。これは高齢者限定の話ではない。


身近な会話が消えた。町内や街中から「話のある買物光景」が消えた。とはいえ、しーんと静まり返っているわけではない。潤いのあるやりとりに代わって、処理手続のための雑音は増幅している。最近のお笑い芸人がコンビニのネタを披露し観客が笑いころげる。店員のマニュアルトークが不自然であり常識から外れているからである。多数の人々がそう感じているから舞台上で取り上げられると笑う。しかし、慣れは恐い。現実のコンビニに行けば、そのようなトークで平然と買物を済ませてしまうのだ。

魅力ある街と人間味という観点から、ぼくはコンビニと自動販売機の廃止論をずっと唱えてきた。メリットとデメリットを天秤にかけて議論する猶予はない。一切合財の経済効果や便宜性や雇用などの条件も考慮しない。ひたすらデメリットだけを取り上げれば、まず第一に、コンビニも自販機も美しくないのである。街の景観価値を高める存在ではない。第二に、売り手が商売の工夫をしないのである。商品について知らなくても売れてしまうのだ。第三に、会話の不在である。会話なんていらないという買い物客がいるのを知っているが、沈黙の売買関係はまるで覚醒剤の取引みたいではないか。

自販機に音声合成の仕掛けをしてもムダである。それこそ処理手続が最大関心事であることの証になっている。コンビニ店員のほとんどが音声合成的に決まり文句を告げる。コンビニはかぎりなく大型自販機へと変貌していく。いつぞや酒屋に行き、新製品のビールの味を尋ねれば、二代目らしき若い主人が「私は酒を飲まないんで、わからない」と答え、「じゃあ、○○をください」と言えば、「冷えたのがないので、表の自動販売機で買ってください」と言われた。なるほど、これだって会話にはなっている。但し、処理手続の会話だ。こうして、商売から味が消え、関係の妙が消え、街は会話と景観を失う。  

あんなこと、こんなこと

とてつもなく何でもない話、三題。


本の話。と言っても、読み方ではない。買い方である。週に一回ペースで散歩がてら書店に立ち寄って、書評でチェックした本を見たり、抱えているテーマに関係ありそうな本を探したり。しかし、たいてい書物との出会いは偶然に任せている。

何冊かまとめ買いをするとき、日によってぼくは相反する消費行動をとる。ある日、「この一冊で終わり」と踏ん切りをつけカウンターに向かう途中に発作的にもう一冊買い足す。別の日は、勘定直前に引き返して本棚に一冊を戻す。一冊の加減で読み方が変わったりはしない。

言うまでもなく、買わなかった一冊に後悔することはない。必要だったら次に買えばいいからである。では、余計な一冊を嘆くかと言うと、そうでもないのだ。衝動の一冊が愛読書になったり、とても役に立ったりすることがよくある。ちなみに、この前の土曜日は一冊買い足した日。その買い足した一冊を鞄に入れて出張に出ている。


その土曜日。本屋の帰りにコーヒーを飲みたくなって、チェーンのカフェに入った。そこで買った本のすべてにざっと目を通した。わずか30分ほどだったがけっこう読めるものである。ちょっぴり満足げにぶらぶらと帰路についた。若い男性が前から歩いてくる。ふいにぼくの方へ近づいてきた。人通りが少ない夕暮れ時、ほんの少し身構えるか、もしくは心構えをしておくのが正しい。

「すみません、このあたりにケンタッキーかマクドナルドありませんか?」

よりによってなぜこの齢のぼくを指名する? 若い人に聞けばいいし、若い人が歩いていないなら、若い人に出会うまで歩き続ければいい。そのうちチキン屋さんかハンバーガー屋さんに行き着くだろう。だが、彼はラッキーだった。なぜなら、さっきまでいたカフェのすぐ近くにマクドナルドを発見していたからだ。指を示し、ことばを添えて教えてあげた。とはいえ、子どもに「この近くにショットバーある?」と尋ねないほうがいいのと同様、中高年にバーガー店への道案内は期待しないほうがいい。


出張3泊目の今夜、さっきホテルにチェックインした。住んでいる人に悪いので固有名詞は伏せるが、こんな殺風景な駅前も珍しい。ほとんど何もない。無機的な空気が張りつめている。駅に着いたら何か腹ごしらえしようと思っていたのに、店がない。駅売店は店じまいの最中。まったく食欲をそそらない売れ残った弁当が一つ。これは買えない。

やむなくホテルの方向に歩く。背広姿の若い男性が前から歩いてきた。ぼくの「すみません」に彼は身構えた(ように見えた)。

「この辺りの方ですか?」
「いいえ。何か?」
「あのう、近くにコンビニないですかね?」
「コンビニなら、そこにありますよ。」 彼が指をさした道路向うにコンビニが見えた。

コンビニで、駅売店の遠慮のかたまりよりはましな弁当を買った。土曜日の道案内の一件と重なった。彼の目にはコンビニ頼りの気の毒なオジサンに見えたに違いない。