三昧とハードワーク

その昔、集中力のない人がいた。筋金入りの集中力の無さだった。気も心もここにあらず、ではどこかにあるのかと言えば、別のところにもなく、耳目をそばだてているかのように真剣な表情を浮かべるものの、実は何も聞いていない、何も見ていない。彼には、あることに専念没頭して心をとらわれるようなことがないようだった。成人してからは、寝食忘れて何とか三昧に入ったこともなかっただろう。時にがむしゃらさも見えたが、がむしゃらは三昧の対極概念だ。彼は仕事の効率が悪く、苦手が多く、そして疲れやすかった。

三昧は「さんまい」と読む。釣三昧や読書三昧と言うときには「ざんまい」になる。手元の『仏教語小辞典』によると、サンスクリット語の“samadhi”(サマーディ)を音写したという。もともとは不動にして専心する境地を意味したが、仏教語から転移して今では「我を忘れるほど物事に集中している様子」を示す。三昧は立派なことばなのだが、何かにくっつくと意味変化する。たとえば「放蕩三昧」「博打三昧」になれば反社会的なライフスタイルを醸し出す。

突然話を変えるが、勉強や仕事をし過ぎて何が問題になり都合が悪くなるのかよくわからない。昨今ゆとり教育への反省が急激に加速しているが、そもそも何事かを叶えようと思い立ったり好奇心に掻き立てられたりすれば、誰もゆとりのことなど考えないものである。それこそ三昧の場に入るからだ。ゆとりは必ずしもスローライフにつながらない。むしろハードワークゆえにスローライフが約束されることもある。「教育が生活からゆとりを奪う」などという主張は、教育がおもしろくないことを前提にしていた。言い出した連中がさぞかし下手な授業をしていたのだろう。おもしろくて、ついでにためにもなるのなら「~し過ぎ」などということはないのである。


今年の私塾の第2講で「広告の知」を取り上げ、デヴィッド・オグルビーにまつわるエピソードをいくつか紹介した。オグルビーの著書にぼくの気に入っている一節がある。

I believe in the Scottish proverb: “Hard work never killed a man.” Men die of boredom, psychological conflict and disease. They do not die of hard work.
(私は「ハードワークで人が死んだ試しはない」 というスコットランドの諺は正しいと思う。人は、退屈と心理的葛藤と病気が原因で死ぬ。ハードワークで人は死なないのだ。)

ハードワークについての誤解から脱け出さねばならない。ハードワークは、誰かに強制されてがむしゃらに働くことや学ぶことなのではない。嫌なことを強制的にやらされるから過労・疲弊に至るのである。ハードワークは自ら選ぶ三昧の世界なのだ。そのことに「何もかも忘れて、入っている状態」なのだ。「入っている状態」とは分別的でないこと、あるいは相反する二つの概念を超越していることでもある。これと同じようなことを、維摩経では「不二法門ふにほうもんに入る」とも言う。そのような世界には、過度ということなどなく、むしろゆとりが存在する。対象を認識せず、気がつけば対象に一致・同化している。

「愛しているということを、愛しているという認識から区別せよ。わたしはわたしの眼前に愛を見てとるほうではなく、この愛を生きることのほうを選ぶ。それゆえ、わたしが愛しているという事実は、愛を認識していないことの理由になる」
(メルロ=ポンティ)

この愛を生きることが、とても三昧に似通っていると思われる。仕事・学習を生きることが三昧的ハードワークなのである。これに対して、仕事・学習を対象として認識し「仕事を頑張ろう、勉強しなくては」と考えるのは三昧などではない。それどころか、物理的作業の度を過ぎて困憊してしまうのだ。ともあれ、三昧を意識することなどできない。意識できた三昧はもはや三昧ではない。我に返って「あっ、もうこんな時間か。結構はかどったし、いい仕事ができたな」と思えるとき、それが三昧であり疲れを残さないハードワークだったのである。

多忙と多忙感の違い

今さら指摘するまでもなく、実態が「忙しい」ということと「気ぜわしい」ということは同じではない。後者は「多忙感」にすぎない。たとえば、師走を迎え、日々やるべきことが山積しているわけでもないのに、だいぶ先の年末年始の漠然とした予定を睨んで何となく落ち着かなくなっている。誰かに「どう、忙しい?」と聞かれれば、「うん、何だかんだあってね」とケロリと答えるかもしれないが、傍から見れば、多忙どころか時間を持て余していたりする。

数年前までは年に百数十の研修や講演をこなし、出張宿泊も月間で10泊になることもあった。しかも、合間には準備をせねばならないし、企画の仕事も手掛けていた。それでも精神的圧迫感はなかった。一日24時間というキャンバスを描かねばならないというよりも、すでに絵具が塗りたくられたキャンバスに向かうような印象であった。多忙には違いなかったが、意志を自在に貫く余地がないから、ある種の諦観の境地に入っていたのかもしれない。

多忙であることを選んでいるかぎり、精神的にも肉体的にもさほど問題は起こらない。ハードワークとノーワークを天秤にかけてみれば明らかだろう。仕事がなくて退屈極まりないほど辛いことはない。二十代後半に職場を数ヵ所変えたことがあったが、望む仕事にありつけず半年ほど無職を体験した。職を探しながらもなかなか叶わず、やむなく読書三昧の日々を過ごしていた。その時期の独学が財産になっていることは間違いないが、思い出すたびに過剰な有閑にはぞっとする。時間を潰さねばならない苦痛に比べれば、時間が埋まっている忙しさなど大したことはない。多忙はぼくにスローライフの意味を教えてくれた。


「忙」という漢字が「心を亡くす」という意であるのは広く知られている。仕事を追い、仕事に追われていれば、たしかに精神的にまいるだろう。しかし、好きな仕事に集中しているときの状態は心を亡くしているのではなく、心を意識していないと言うべきである。ほんとうに心を亡くしてしまっている人に仕事がやってくるわけがないではないか。実は、多忙よりも危なっかしいのが、仕事の量とは無関係に多忙感を漂わせることなのだ。こっちのほうが心を亡くしている状態に近い。

ふと、かの有名なパーキンソンの法則を思い出した。支出額が収入額を優に超えたり、金持ちほどケチが多いという現実があるので、第二法則の「支出額は収入額に達するまで膨張する」には首を傾げる。しかし、第一法則の「仕事量は、完成までに与えられる時間をすべて使い果たすまで膨張する」はほぼ正しい。官僚の仕事ぶりを観察・研究して導かれた法則だが、おおむねすべての組織や仕事に当てはまるように思われる。

組織における個人の仕事は、仕事の難易度や重要度とは無関係に、許容された時間をすべて食い潰す。わかりやすく言えば、仕事量ではなく時間量のほうが仕事ぶりを決定しているのである。効率よくやれば一時間でできる仕事も、半日与えられていれば半日かけてしまうのだ。したがって、当人はいつも仕事をしている気になっている。まったく多忙ではないのに、当人は多忙感を抱いている。新しい仕事を頼もうとしても、いっぱいいっぱいという状態なのである。多忙感はやがて「仕事のふり」へと変貌する。実際の仕事が減っているのに、忙しそうに見える職場が目立つのは気のせいではないだろう。 

逆説的「スロー&プアー仕事術」のすすめ

どちらかと言えば、ぼくはスローライフ主義者である。スローライフと主義は相容れないかもしれないが、便宜上こう書いておく。スローライフ主義を貫くためには、仕事が早くなくてはいけない。ゆえに、ぼくはスピーディビジネス主義者でもある。スピーディビジネスなんて和製英語っぽいが、ファーストビジネスと言うと、ファーストフードからの連想で「早いが安っぽい仕事」のように聞こえてしまう。

時間をゆっくりかけたいスローライフ主義と仕事をできるかぎり早くこなすスピーディビジネス主義は弁証法的である。どちらが手段でどちらが目的かなどという野暮な認識を超越したところで両者はちゃんと成り立つ。なぜこんな主張ができるのか。それは、「仕事がグズな人は生活で苦労する」「仕事が早い人ほどいい仕事をする」「仕事上手は生活上手である」などがおおむね正しいからである。

スローライフの実践方法よりもスピーディビジネスの実践方法のほうが説きやすくわかりやすい。もっと説きやすくわかりやすいのは「仕事が遅い、仕事が下手」の最大公約数的原因である。いろいろな現場で仕事の実態を見てきたし、教育研修においても演習や実習への取り組み姿勢を観察してきた。その結果、ぼくは仕事を、ひいては生活をダメにする「間違いのないコツ」を発見した。題して『スロープアー(遅くて下手な)仕事術』(ほんとうは何十ヵ条にもなるのだが、今日のところは十ヵ条に絞った)。


1 実力以上に強がってみせろ
世の中、ブランドである。正直に「私は50点人間です」などと言っては損だ。上げ底・背伸び・見栄っ張り・虚勢など何でもオーケー。とにかくよく見せないといけない。

2 他人に厳しく自分に甘く
ノルマは軽めに。60点の仕事を上出来だと考えよう(大学でもそれは「可」なのだから)。自分の仕事は一日遅れてもいいように時間を稼ぎ、他人に任せている仕事は一日早めに仕上げさせる。

3 仕事の出発点でじっくり時間を使え
もし5工程の仕事ならば、最初の工程が一番重要。だから、そこをクリアするまでしがみつくこと。仕事は部品の寄せ集め。全体を見通すビジョンなんて役に立たない。

4 行動よりもよく考えろ
下手に動いて下手な結果を出すよりも、まずは考えてみる。たとえそれが「考えているふり」であっても、軽率な行動よりはましである。  

5 日時を明確にするな
ゆめゆめ時刻で期限を設定してはいけない。そんなことをすると、理不尽に追及されてしまう。「来週に」「今日じゅうに」というのが正しく、アポも「いずれ近いうちに」と曖昧にしておくのがいい。  

6 イエスかノーを明言するな
慎重にイエスかノーかを決める。二者択一の岐路では焦らず騒がず判断を急がない。モラトリアムで済ましておけば、後日どちらにでも転ぶことができる。急いては事を仕損じると言うではないか。どんな約束でも守りきるのは不可能なのだから、小さな約束くらい破ってもかまわない。

7 アマチュアとプロを都合よく使い分けろ
相手が格上、かつ仕事に自信がないのなら「まだ勉強途上なので」と言い訳をしておく。相手が格下ならば、堂々とプロフェッショナル顔をすればいい。真のプロにはプロとアマの二面性がある。  

8 「時間はタダ、いくらでもある」と信じろ
無理して今日じゅうに仕上げなくてもいい仕事がある。いったん決めても変更すればいい。明日は必ず来るわけだし、時間は自分の資源でタダみたいなもの。何とかなるものだ。

9 同時に複数の仕事をするな
所詮、自分の情熱、自分の思い以上の仕事なんてできないのだから、自己愛で生きるのが一番。二兎を同時に追ってはいけない。仕事は、優先順位ではなく、受けた順番に一つずつこなすのが正しい。

10  ばれないように手を抜け
「仕事はマメに、きめ細かく、とことん凝れ」と理屈を言うのがいるが、無視すればよろしい。大雑把で手を抜いても顧客がそれで満足ならいいのだ。そもそもずっと手間暇かけていたら心身が持たない。


逆説的にお読みいただいたであろうことを切に願っている。上手く読み取れる人は仕事のできる人だろう。グズで仕事のできない人は誰のことが書かれているのかピンとこないだろう。えっ、このままで終わると、本気で「スロープアー」を薦めているみたい? なるほど、そう理解される可能性なきにしもあらずだ。それはまずいので、「いずれ近いうちに」フォローすることにしよう。