失敗のセンス

家庭料理 天神橋近く.jpgいつもの散歩道から脱線して歩いていたら、だいぶ以前に脱線してそのままになっているであろう店の看板兼メニューに出くわした。シャッターの劣化ぶりから店じまいして久しいと想像がつく。

飲食店は、栄えたと思えばまたたく間に枯れる。盛り上がったり衰えたり。まさに栄枯盛衰だ。一年ぶりに行くとなじみだった店は消え別の店が構えられている。数年ぶりに飲食店界隈に出掛ければ、三分の一、場合によっては半数が入れ替わっていたりもする。十年経てば、総入れ替えということもなきにしもあらず。
タイトルの「失敗のセンス」とは、もしかするとわざと潰れるように経営しているのではないかと思ってしまうほどの、目を覆いたくなるような絶望的センスのことである。店を構えるかぎり、商売繁盛を画策するのは当然だ。にもかかわらず、少数のマニアックな常連だけが顔を出すだけ、やがて彼らの足も遠のいていく宿命を自ら選んでいるかのような店がある。成功するためのセンスを秘訣や法則にするのはむずかしいが、失敗の方程式は簡単に計算が立ってしまう。センスの悪さは失敗のための絶対法則なのである。


センスは、ともすれば感性的な領域に属すると思われがちだが、精神と行動が統一された思慮や良識が近い。ふつうに思考してふつうに実行すれば、大きな失敗を避けることができるのに、ふつうに考えないでふつうにも行わないから「失敗のセンス」が身についてしまうのだ。コンセプトの立て方、訴求点の選び方、情報の並べ方……いったいどうすればこんなセンスを身につけることができるのだろうと思ってしまう店がある。
『亜呂麻』なるこの店。看板兼メニューから読み取れる情報には危ういセンスと負のオーラが充満している。「家庭料理・酒・コーヒー」。どれもがふつうの単語なのに、このように配列してしまうとやるせない違和感で料理がまずそうに見えるから不思議だ。「カラオケ2500曲以上」と並列の「日本各地の名酒いろいろ」が合わない。2500曲も名酒もギャグっぽく見える。
極めつけは、驚きの「一汁三菜ヨル定食」。ヨルにも笑ってしまうが、夕方6:00から開店だからヨル定食に決まっている。メニューの最終行に到って何を今さら「一汁三菜」と本気になっているのか。気持悪いついでに、ここは「秘密のメンチカツ定食」か「ママの手料理15種類」のほうがこの店らしい。いずれにせよ、統一感を醸し出そうとしても失敗を運命づけられたセンスは救いようがない。芳香のアロマを『亜呂麻』と表記した店名までもが、店じまいによって滑稽な寂寞感をいっそう強くしている。立ち去った後、背中に寒いものが走った。

見巧者であれ

サラリーマン時代は、今のようにランチタイムを自分なりにフレックスに過ごせなかった。わずかな昼休憩の間にコーヒーも飲みたいから、仲間と出掛けてはそそくさとランチを平らげ、喫茶店に場を移して雑談したものだ。

ある日、行きつけの喫茶店が混んでいたので、店探しに少し足を延ばした。通りがかった喫茶店の前で同僚のTが立ち止まり、「ここにしよう」と残りの三人を促した。見ればドアに「夏はやっぱり愛す♥コーヒー」とマジックインクで書いた紙が貼ってある。

Tさん、ここはないでしょ。この店構え、貼紙の文言や文字のセンスを見たら、完全にアウトですよ」とぼくは言った。だが、「時間もないし……」とTは譲らず、先導して店に入ってしまった。結論だけを書くと、店に入るなり埃の匂いがした。置いてあるソファは赤で場末のスナックから運んできたような代物だった。ソファのスプリングが不良で、座ればドーンと背中まで埋もれてしまった。見るに堪えない夜の化粧のオバサンが一人。アイスコーヒーは……愛すどころか、口に運ぶのも勇気がいるような味だった。

この一件から、「やむをえないという理由で選択肢を広げて妥協などしてはいけない」という教訓を得た。まったく不案内なことについて、ぼくたちは判断しなければならないときがある。蕎麦屋でも喫茶店でもいい、まったく知らない街で二軒の店があり飯を食うかお茶を飲もうとするとき、店のたたずまいや店名など、ごくわずかな情報から優劣判断をするものだ。どんな判断をするにしても、優劣がつけば優の格付けをした店に賭ける。しかし、二者択一ではないから、「劣劣」と思えば消去法的に選ぶことなどないのだ。義務も義理もない。


ジャズとお好み焼き.jpg

先月、「ジャズとお好み焼き」を謳い、コテをモチーフにしたチラシが貼ってある店の前を通り掛かった。かつての同僚Tなら喜々として立ち寄る店だ。ジャズと蕎麦の店にはぼくも行ったことはある。しかし、演歌の流れるフレンチには行かない。ジャズとお好み焼きはぼくの感覚域には属さない。コテを手にして熱々のお好み焼きを頬張りながら、どんなふうにジャズを聴くというのか。しかも、生演奏なのである。聴くほうのセンスも疑うが、演奏する者のセンスにも異議ありだ。

見巧者みごうしゃ〉なる演劇の表現がある。上手に観劇する力のある観客のことだ。舞台は演じる者の技量だけで成り立つのではなく、観劇者にも同等の観賞眼が求められるのである。芸術一般の鑑賞にも当てはまり、店や料理にも広く敷衍できるだろう。上手は一方によってのみ存在せず、上手の本質に呼応する他方があって初めて生かされる。

下手は下手どうしで持ちつ持たれるの関係を続けるだろうが、上手と出合いたければ自らも上手の眼を養わねばならない。見巧者への道は試行錯誤の連続だが、日々の小さな判断力の積み重ねがやがて暗黙知を授けてくれるようになる。とは言うものの、店選びに関しては今も10回に一、二度は騙されてハズレを引く。

救いがたいほどの”センス”

先週の土曜日である。出張のため朝8時半頃最寄駅から地下鉄に乗った。マスク着用の乗客がちらほら見えるが、土曜日のせいか車内は空いている。ここ三年間職住接近生活をしているので、出張以外はあまり地下鉄に乗る機会はない。たまに乗れば混んでいるので車内の広告にまで目が届かない。その日はゆったり座って車内吊りポスターをじっくり品定めすることができた。

いったいどうしたんだ、大阪市交通局! 思わず内心そう叫び呆れ返った。シイタケとリンゴを擬人化したイラストが描かれた「座席の譲り合いマナー」を促すポスター。そこにはこんな見出しが書かれてあった。

互いに譲って うれシイタケ!
「どうぞ」の笑顔で すっきリンゴ!

これではまるで「おぼっちゃまくん」ではないか。「そんなバナナ」や「おはヨーグルト」を思い出した。いや、こんな言い方はおぼっちゃまくんには失礼だ。おぼっちゃまくんにはダジャレという売りのコンセプトがあった。譲り合いマナーになぜシイタケとリンゴなのか。必然性が見えないから、単なる思いつきのダジャレなのに違いない。一方がキノコで他方が果物というミスマッチも相当にひどい。

正確に言えば、こういう類いのことば遊びはダジャレとは少し違う。技としてはダジャレよりもうんと簡単で、一文字だけ合わせたら一丁上がりだ。これがオーケーなら、「うれシーラカンス」でもいいし「すっきリスザル」でもいい。要するに、「シ」と「リ」で始まる単語なら何だって成立してしまう。


シイタケとリンゴが大阪市の名産品なら理由もわかる。地下鉄のどこかの駅でシイタケとリンゴの物産展があるのなら、短期の季節キャンペーンだろうとうなずける。だが、そんな深慮遠謀はまったく感じられない。誰がどのような経緯でシイタケとリンゴという案に辿り着いたのか。ぼくの思いもよらぬ狙いがあったのならぜひ聞かせてもらいたいものである。

ポスターでここまで救いがたいほどのセンスを暴露しながら、車掌は「インフルエンザ予防のためにマナーとしてマスクを」と生真面目に車内放送していた。トーンが合っていない。そのポスターを見ながらマイク放送を聞いて、同一の発信源とはとても思えなかった。まあ、こんなことはどうでもいい。何よりも、財政難の折、一人前の大人にマナーを促すようなPR活動にお金を投じるのは即刻やめるべきだろう。