「おかしい」と言うなかれ

携帯電話会社のテレビコマーシャルに「おかしいことをおかしいと言う勇気」というのがある。「そうだ、その通り!」と膝を打ちたくなるか……。まったくならない。「勇気」などと頼もしげに言われても、「ふ~ん」と反応するしかない。いや、正確に言うと、少々苛立ちさえ覚える。

おかしいことをおかしいと言うのに勇気などいらない。ただそう言えばいいだけの話だ。美しい花を美しいと言い、汚い店を汚いと言い、バカな者をバカと言うのと同じである。この国では未だに「自分が感じることをそのまま言に出してはいけない、もし出そうと思えば勇気を振り絞る必要がある」という暗黙の前提があるのか。
おかしいことをおかしいと言うのに勇気などいらない。だからと言って、好きなように言えばいいと主張しているのでもない。これは〈同語反復トートロジー〉の一つになっている。「ダメなものはダメ」と言って話題になった女性政治家がいたが、こういうものの言い方をしているかぎり、論議が前に進む余地はない。ただ堂々巡りするしかない。ちなみに、「売れるものを作れ」というのも類語反復である。

くどいが繰り返す。おかしいことをおかしいと言うのに勇気などいらない。いや、おかしいことをおかしいと言ってはいけないのである。誰かの意見に異議を唱えるとき「おかしい」という表現などありえないのだ。「おかしい? 何がおかしいのか言ってもらおうじゃないか!」「おかしいものはおかしい!」「おかしいとしか言えないお前のほうがおかしい!」……となって、傍で聞いていると昔の漫才師のボケとツッコミようである。
「おかしい」と感じるのは主観である。その主観を「おかしい」と主観的に表現しているかぎり議論は成立しない。こういう批判は口先だけの、根拠なき反駁であり、人格否定につながってしまう。議論が口論になり果てる。わが国の一流論客と評される人物でも、だいたいこのレベルに止まっている。
「おかしい」と評してはいけないのである。もし「おかしい」と言ってしまったら、理由を述べるべきである。他に、ナンセンス、馬鹿げている、話にならない、矛盾している、意味不明だ、わけがわからん……なども議論におけるタブー表現である。もっと言えば、こうした表現によってコメントしたり批判したりするのは、勇気ではなく、むしろ臆病の表れであり、ほとんどの場合、議論が苦戦に陥っていることの証である。