巨人の肩に乗っているか?

「巨人の肩」の話、知っている人なら読売ジャイアンツの豪腕投手の肩でないことはお分かりだろう。これは万有引力でおなじみのアイザック・ニュートンの言だ。ニュートンは言った。

「もし私がより遠くを眺めることができたとしたら、それは巨人の肩に乗ったからである」

巨人の肩とは、人類が引き継いできた知の集積の比喩である。

人はこの世界に手ぶらで生まれてくるが、まったくのゼロ状態ではない。すでに遺伝子の中に数百万年前の人類とは異なる、「進化した可能性」を秘めている。他の動物と大きく隔たる潜在能力を発揮できるかどうかは別問題としても、何がしかの踏み台を保有していることは間違いない。やがて、学習と経験を通じて知識を蓄え世界を少しずつ広げていく。具体的に言えば、学校にはカリキュラムという踏み台があり、図書館や書店には書物という踏み台がある。こうした踏み台は時代を追うごとに性能がよくなり高くなっていく。

この踏み台が巨人の肩なのである。ぼくたちは地面に立って世の中を見渡す必要はなく、先人たちの知をうまく活用して一気に高いところから展望する機会に恵まれている。江戸時代の寺小屋で学ぶ子どもたちも誰かの肩に乗っただろうが、肩の高さがだいぶ違う。いつの時代も、後世は前時代までの叡智を活用できる。しかも、巨人はどんどん大きくなり数も増えていくから、理屈の上では人類はより遠くより広く世界を眺望できるようになっていくはずだ。


だが、話はそう簡単ではない。たとえば物理学の世界。なるほど相対性原理は人類史上最大級の巨人だから、その肩に乗れるアインシュタイン以後の物理学者の望遠力は、アインシュタイン以前の先輩を圧倒しているだろう。けれども、これら先輩たちは別の巨人の肩に乗っていたわけで、自分たちよりも後にさらに大きな巨人が現れることを想像することはできなかった。つまり、残念がりようがなかった。素人考えでは、アインシュタイン以前と以後で学徒の研究労力は天と地ほどの差があるように思える。

言語学ではソシュール、哲学ではデカルトなどのように、歴史の節目となる巨人があらゆる分野で出現した。発明なら、火薬、羅針盤、活版印刷、蒸気機関、自動車、コンピュータ……。そのたびにより大きな巨人の肩へと乗り移ってきたわけだが、そのように乗り移って際立った望遠力と視界を手に入れたのは、一握りの人々に過ぎないのではないだろうか。たとえば、書物を読まず文書も残さず、ただひたすら論争だけに明け暮れたソクラテスの肩をぼくたちはうまく乗りこなせていると言い切れるか。

いや、逆に、巨人の肩に乗ることによって知の重要な何かを落としてしまっているフシがある。人類全体に関してはニュートンの言う通りかもしれないが、個としての人間の能力はここ一万年、確実に高まったと言いうるかと問えば、ぼくは少し怪しい気がしている。すぐれた巨人の肩に乗れる後世の人々がつねに優勢であることを示す証拠は乏しい。ソクラテスばかりで恐縮だが、文字を通さずに誰が何を語ったかを逐一記憶して議論するなど、想像を絶する知力ではなかったか。

巨人がいても、肩に上らねばしかたがない。仮に肩に乗っても見渡さなければ意味がない。巨人の肩はいくらでもあるし、いつでも乗せてくれるのだが、乗ろうとしない時代のようである。現在、月平均読書量が一冊以下の人々が過半数を占めるらしい。本一冊読むのに重い腰を上げねばならないのだ。巨人の肩に乗って遠くを見晴らす以前に、現代人はまず肩に乗ることから始めなければならないようである。