アートによる知への誘い

ピカソやモーツァルトだけにアートを感じてすまし顔していては鈍感である。アートはそこらじゅうに潜んでいる。たとえば、テレビで『世界街歩き――シエナ』を見ていて、街の城壁に、坂のある広場に、コントラーダ(地区)のいもむしの図柄に五感が反応した。その街の詳細が記憶の中で蘇ったのは、まったく無知ではなく、二度訪れたことがあるからだ。海外に出掛けるというのは〈ハレ〉の行動だから、経験は強く記憶され懐かしくも機敏に再生される。

いま、芸術ではなくアートと呼んでいるのは、術の外へと目を見開き、ハレのみならず〈ケ〉にも敏感になりたい気分だからである。たしかに、アートへの覚醒は、術とは無縁の日常茶飯事でもつねに起こる。感覚を研ぎ澄まして日常を暮らしていたら、朝の空気に、青空の雲に、民家の壁の汚れた模様に感応することがある。パスタの旬の具材、菜の花にさえアートへのアンテナがプルプルと反応する。

物語を追いすぎると表現やアートが見えず、表現やアートを追うと物語を見失ってしまったりすることがある。ぼくの場合、たとえば映画などがその典型になる。映画観賞は小説を読むほどのキャリアを積んでこなかったので、統合的に愉しむ器用さを持ち合わせていない。しかし、物語を必死に追っていても、アートが一緒に伴走してくれる映画もある。『ニューシネマパラダイス』がそうだったし、最近観た作品では『英国王のスピーチ』がそうだった。


ロゴスとパトス、あるいは理性と感性を対立や背反の概念としてとらえる習性が世間にまだ根強い。だいぶ見方が偏っているし、ステレオタイプでもある。もう口はばったいことは言わないようにしているが、人はロゴス派やパトス派のいずれかの単色だけに染まるほど単純にできてはいないのである。「私は感性人間です」という知人が少なくないが、そもそも人類にそんなカテゴリーなどない。知情意それぞれの成分配合は異なるだろうが、誰もが理性的でもあり感性的でもあり、あと一つ付け足せば、良識的でもあるのだ。

かつては本を読んだり話を聞いたりして刺激を受け、アートに入っていった。ぼくの場合、ベートーベンの伝記を読んでクラシック音楽へ、抽象画の話を聞かされてミロやカンディンスキーへ、古代史を読んで明日香散策へという具合に。ファーブルを読んでから昆虫好きになるのも同じだろう。だいたい学校はそんなふうに知識を手ほどきしてくれているのである。ところが、今では逆である。たまたま美術館に行ったり小さな旅に出掛けたりして、それがきっかけになって好奇心から本を読むことが多い。

本を読んだからといってアートに赴くとはかぎらない。怠け者がそんなふうになるはずがない。しかし、アートに触れ合ってから本を読むのはさほどむずかしくない。こちらのほうが流れがスムーズである。この半月で『大英博物館古代ギリシャ展』『法然――生涯と美術』『パウル・クレー――おわらないアトリエ』を観てきた。またしてもギリシア文明やギリシア神話の本を本棚から取り出したし、お気に入りのクレーの画集をめくったりしている。本棚に『選択せんちゃく本願念仏集』はあるが、読んでおらず、法然についてはほとんど知らない。この機会に少し勉強しようと思う。「思い立ったが吉日」とよく言うが、先に動いて鑑賞して感じ入ってきているから、このことばには誘導力がある。

サプリメント依存症候群を嘆く

依存までは至らなかったが、仕事や出張で多忙な時期に体調を気遣ってサプリメントを用いていたことがある。特にビタミンとミネラル系、それに宴席の後に肝臓によさそうなもの。なければないで何ともなかったが、常備していたので必然習慣的に常用することもあった。効能実感はほとんどなかったと思う。現在は、思い出したように時折りビタミンやウコンを摂るが、一種のまじないである。もちろん、まじないすら信じてはいないが……。

昨年6月渡米した折りに、土産代わりに総合サプリメントを二箱買ってきた。結果的に土産にならずに自家消費していて、まだ一箱目の途中である。個包装になっており、その一袋に大小様々な固形の粒が10種類ほど入っている。そのうちの半数がふつうの人では飲みづらいほどの大きさだ。この個包装の品目すべてを喉から胃に送り込むには訓練が必要だろう。アメリカ人は何でも大きなものを好むものである。

ちなみにサプリメントは英語で“supplement”と綴り、「サプラムント」のように発音する。よく使われる形容詞が“supplementary”で、こちらは「サプラメンタリ」と発音する。この形容詞は後に“toを伴って「~を補足(補充、追加)する」という意味になる。つまり、サプリメントとは「主なるもの」に対する副次的存在なのである。今さら強調するまでもなく、「不足を補う」という基本概念が転じて、書籍や雑誌などの「補遺、付録」に使われることが多い。たとえば正規の主教材に対して、副教材などをサプリメントと呼ぶわけだ。


日本では自明のようにサプリメントを栄養補助食品や健康補助食品の意味で使っているが、英語はもっと汎用的である(常用の昭和55年版と古い英和中辞典にも新しいオックスフォード英英辞典にも、“supplement”に栄養や健康のサプリという定義は見当たらない)。栄養や健康のサプリという場合は“dietary supplements”、具体的に“vitamin supplements”と言う。但し、コストコなどの売場で「サプリメントを探しているが、どこに置いてあるか?」と聞けば通じるだろうし、実際にぼくはそのように尋ねて教えてもらった。

好事家的薀蓄という悪い癖が出た。「主あっての副」が忘れられつつという主張が本旨である。主の足りないところを補うのがサプリメントであるはずなのに、「主なき副」に依存するとはどういうことか。飽食の時代にサプリメントなる副食は不要だろう。いや、偏食気味だから補うのだと言うのか。それならば、主食において偏食を是正するのが筋である。セサミンよりもゴマを、DHAよりも青魚の全食――アタマからシッポまでを日々実践すれば済むことなのだ。

サプリメントの話は生き方や学び方全般に通じる。主が「ケ」という日常生活に根ざし、副が「ハレ」という非日常行事に現れるのである。たとえば、日々仕事をしているからこそ「仕事術」というサプリメントの学習に意味がある。自力で何事かを成そうとし、それでも足りない何かをほんの少量、外部から調達するのが学びのまっとうな姿なのではないか。ろくに仕事もせず仕事をしようともしない連中を集めて職業訓練を施しても、主なき副だけの成果など期待できない。過剰摂取したサプリメントは放出されるか内臓に沈積して副作用をもたらす。決して日常生活世界の活動にうまく取り込めないのである。

人それぞれのテーマ

休みの朝だが、少し調べたいことがあって本を読み、ついでに関連項目をネットで拾っていた。電源オフの直前、知り合いのブログをいくつか覗いた。更新頻度はいろいろあるが、みんな頑張って書いている。ぼくはと言えば、ブログを始めてから今年の6月で丸2年になる。ほとんどの読者はぼくを知っている人たちだと思われる。そんな読者のうち、数人の知人もしくは塾生は驚きを示す。驚きは、「感心する」と「呆れる」の二つの意味を含む。

感心してくれる人は褒めてくれている。表現はいろいろだが、おおむね「よくもまあ難しいテーマについて週に45日も書けるものですね」に集約される。呆れる人は必ずしも貶しているわけではないのだが、なぜもっと小さな記事にしたり写真を入れたりしてフレンドリーにしないのかという意味を込めて、「よくもまあ難しいテーマについて週に4日も5日も書けるものですね」と評するのである。そう、いずれの人たちもコメントの内容は変わらない。

ぼくの筆頭読者はぼく自身なのである。まず自分のアタマを整理するために文章化している。文章化の第一義は、あくまでも考えを明快にして筋道を通すためであり、それをメッセージにして第三者に伝えるのはその次の段階だ。「よくもまあ難しいテーマ」と言われるが、難易の感じ方は人それぞれである。また、ぼく自身小さなノートにメモしている事柄を発展させた話が中心なので、自分ではまったく難解なテーマだとは思っていないし、よそ行きにアレンジしているわけでもない。


問い返したい、「よくもまあ、自分のことや身の回りのことなど、どこにでもありそうな話を毎日毎日書けるものですね」と。昨日は誰々と飲食し、会社では何々をして、自宅で子どもや犬と遊んで、風呂に入って寝た、明日から旅行だ、楽しいな……このような体験と感想の羅列だけなら、ぼくなどもう何も書けなくなってしまう。ほとんど毎日がきわめて日常的なの連続で、非日常的な晴れハレなどめったにないから、たちまちネタ切れを起こしてしまうに違いない。

辛辣なアイロニーのつもりはない。若い頃何度も日記に挑戦したが、日々の出来事や思いを徒然なるままには書けなかったのだ。明治の文豪たちの筆致、たとえば「檜屋にて山本と飯を食らふ。日高くして酒を一合ばかりあおる。ほろ酔い気分のまま、外気に触れるや否や小便を催すなり」のような文章が、精細に丹念に筆書きされたのを羨ましく眺めたものである。平凡な日常を観察する習性を持ち合わせてはいるが、そこまで接写的に感想を連ねるのは苦手だった。やむなく、気づいたり考えたり想像したりすることを書くようになったのである。

作家の阿刀田高も講演で同じようなことをユーモラスに語っていた。正確には再生できないが、「自分はミステリーなどの創作ばかりを手掛けている。創作は大変だろうと同情されるが、そんなことはない。自分からすれば私小説なるものを書く人間のほうがずっと大変だと思う」という話があった。まったく同感なのである。「私」の視点から日々のおこないや小さな事件や思いつきを真面目に書き綴ることはぼくにはできない。

自分のこと、身の回りのことを諄々と書く私小説家には、マンネリズムにびくともしない逞しさを感じてしまう。「朝六時半に起きた。寒い朝だ。トイレに立って小便をする。洗面で髭を剃り顔を洗い髪をセットして着替え、妻とトーストを食べた。昨日はイチゴジャム、今朝は黒ゴマペーストであった」。仮に一度こう書いたら、別のページで二度と同じことを書けない。また、この程度のことを文飾豊かに言い換えようとも思わない。ゆえに、ぼくは体験や知識から触発された考えや意見を主として書く。それならいくらでも書けるからだ。決して偉ぶっているのでもなければ、私の日々を徒然記す作者を馬鹿にしているわけでもない。「テーマは人それぞれだ」と思いなしている次第である。