知はどのように鍛えられるか(2/2)

言うまでもなく、知とは「既知」である。既知によって「未知」に対処する。たとえば、ぼくたちの知は問題と認知できる問題のみを想定している。そして、問題を解決するべくスタンバイし、これまでに学んだ法則あるいは法則もどきにヒントを求めようとする。このようにして、程度の差こそあれ、ある種の「なじみある問題」は解決を見る。しかし、解決されるのはルーチン系の問題がほとんどで、真に重要な問題は未解決のまま残されることが多い。ぼくたちが遭遇する重要で目新しい問題の大半は、つねに想定外のものであり、法則が当てはまらない特性を備えている。

バリアもハードルもハプニングのいずれもなければ、大概の問題は何事もないかのように解ける。いや、勝手に解けることすらあるほど、苦労なく対処できる。経験の中に類似例があれば、ぼくたちの解決能力は大いに高まる。「この道はいつか来た道」や「この道は前とよく似た道」なら、誰だって既存の法則や解法を水先案内人よろしく活用して、目をつぶって歩いて行くことができる。だが、話はそんなに簡単ではない。現実世界はバリアだらけ、ハードルだらけ、ハプニングだらけなのである。

高齢者住宅や民家型デイケアセンターの設計を手掛ける一級建築士の友人がいる。「あまり大きな声では言えないが……」と断ったうえで彼はこう言った。

「正直な話、バリアフリーの行き届いた住宅というのは万々歳というわけにはいかないのだよ。床も壁も敷居にも凹凸がないから、お年寄りは危険の少ない環境で暮らしている。安心感を持つことはとてもいいことだけれど、長い目で見ると甘やかされた状態に安住することになる。ところが、一歩外に出れば小さな凹凸がそこらじゅうにある。バリアフリーに慣れきった感覚はほんのわずかな起伏にも対応できず、ちょっとつまずいただけで転んでしまうのさ。」


この話を聞いてぼくは思った、「これはまるで知のありようと同じではないか」と。問題解決の知に限定すれば、ぼくたちは認識できる問題だけを対象とし、そのうちでも解けそうなものだけに取り組む。時間に制約があればなおさらそうなってしまう。解けそうにないと判断すれば、問題集の巻末模範解答を覗き見るように、その道の誰かに答えを求めようとする。あるいは類似の先行事例にならおうとする。この状況での知は、バリアフリー環境で甘やかされた「要介護な知」にほかならない。そもそも調べたらわかることをソリューションなどとは呼ばないのである。

〈わからない→考える→まだわからない→さらに考える→それでもわからない→外部にヒントを探す→見つからない→誰かに相談する〉。これだけ手間暇かければ、知はそれなりに鍛えられもしよう。答えが見つかることが重要なのではなく、答えを見つけるべく自力思考することが知的鍛錬につながるのだ。昨今の問題解決は〈わからない→誰かに相談する〉あるいは〈わからない→調べる〉など、工数削減がはなはだしい。思考プロセスの極端な短縮、いや不在そのものと言ってもよい。甘ったれた練習をいくら積んでも、バリアだらけハードルだらけハプニングだらけの現実世界では右往左往するばかりである。

以上のことから、本番よりも甘いリハーサルが何の役にも立たないことがはっきりする。こと問題解決の知に関するかぎり、普段から難問に対して自力思考によって対峙しておかねばならないのだ。その鍛え方を通じてのみ、本番で遭遇するであろう「未知の問題」への突破口が開ける可能性がある。ぼくは、この知をつかさどる根底に言語を置く。言語を鍛え、対話と問答を繰り返して形成された知こそが有用になりうる。事変に際して起動しない知、アクセスできない知は、知ではないのである。 

難易の別を超えて

難易度ということばを聞くと、受験テストの問題集を思い浮かべてしまう。星印が三つ付いていたら難度が高く、一つだったら易しい。星一つばかりの設問を解いていたら簡単だ。途中で易しい問題ということを忘れて、解ける快感だけを覚えていく。できた気になるから、学習心理上のストレスはほとんどたまらない。しかし、本番で少々難度が上がればたちまちアウト! リハーサル段階では少々難度の高いものに挑戦しておかねばならないのだ。

少々何度の高い問題というのが微妙である。半分くらい解けるのがいいのだろうが、解けるか解けないかは現在の力量にかかわる。完全な全問正解にはほとんど学習効果がない。かと言って、全問解けないようではやる気も出ない。しかし二者択一なら、手も足も出ないことを何度も体験しておくほうが現実世界の問題解決には役立つ。リハーサルだからこそオール不正解でも許される。要は、解こうとしたプロセスの質だろう。

語学を例に取ればわかりやすい。たとえば英会話学習のゴールをあいさつやショッピングに置いていても、学習した範囲内で現実の会話が収まることはまずない。自分が話す分には知っていることだけ伝えればいいが、相手は自分がわからないことを話し伝えてくる。認識という点では、入門も基礎もない。ぼくたちは学んだ範囲内でコミュニケーションを統御することはできない。相手は難易の別などおかまいなしなのである。すべての幼児は家庭内および社会的コミュニケーションの場で、自分の力以上の困難な状況を乗り越えて成人していく。すべての人間は、ヒナが羽ばたきを覚えるように、大人世界のことばに齧りついて生きている。


語学を始める人にぼくは中上級から始めよと助言する。いや、正確に言うと、現在の母語の語学力と知識に見合ったレベルで学習すべきだと教えてあげる。知識には未知の事柄を想像する機能がある。ことばや概念の何から何まで知らなくても、行間や文脈を読む想像力が働くものだ。ぼくは英語もイタリア語も中上級からスタートした。CDは倍速にして聴いた。こんな早口のネイティブはいないだろうと思えるくらいのスピードに食らいつく。それで本番はちょうどよい。初めてイタリアに行ったとき、バールのバーテンダーは第二次世界大戦の話を持ちかけてきたが、理解できた。「はじめまして」「こんにちは」程度の学習しかしていなかったら手も足も出なかったはずである。

話は語学だけにとどまらない。一般的な学習(つまり、リハーサル)は易から難へと想定しているが、本番には難易が混在している。いや、すでにそこにはそんな区別すらない。ぼくはいま、社会人のためにこの記事を書いている。社会人になって何事かについて学ぶのと学生で学ぶのとは大違いである。社会人にとっては目的は明日の行動と一体化しなければならない。どこか遠くにある目的などではなく、明日の仕事で学びが現実的な効果を発揮してもらわねば困るのだ。悠長な猶予期間はない。

「難しい」という泣き言をほざくのをやめよう。現実世界は、ある意味ですべて難しいのだ。唯一、現実のハードルを低くできるとすれば、リハーサルでのハードルを自分の現在の能力よりも高く設定するしかない。「あのセミナーは易しかった、わかりやすかった」と感想をもらすのはよい。しかし、それが現実世界を生き抜く糧になったかどうかこそが問われるべきである。そして、易しく身につく糧よりも苦労して身につけた糧のほうが実践では役に立つ。「良薬は口に苦し」という常套句を引くまでもない。苦いとか難しいとコメントをする暇があったら、黙って口に放り込むべきなのだ。