語句の断章(13) 逆説

「パラドックスについて、知っている?」と聞けば、「はい」と答える。次いで、「では、ジレンマとの違いは?」と続けると顔が曇る。ぼくも若い頃はこんなふうだった。何となく違いはわかるが、いざ説明する段になると困惑したものだ。

ジレンマは両刀論法と呼ばれ、陥ってしまうと決断に右往左往してしまう。「ぼくは生涯独身を貫くべきでしょうか、それとも結婚すべきでしょうか?」に対して、「独身は不幸だ。結婚も不幸だ。しかし、きみは結婚しないかするかのいずれかを選ばなくてはならない。ゆえに、いずれにしてもきみは不幸になるだろう」と推論を立てるのがジレンマである。この推論を立てたのはソクラテスらしいが、あくまでも論理学上の三段論法の一つの見本に過ぎない。こんな人生不幸観は現実的ではないのだ。

パラドックスはジレンマとは違う。パラドックスとは「逆説」のことである。当然、何もないところに逆説は生まれない。広く受容されている通説があるからこそ、逆説に出番がある。逆説ばかりを言う人間をアマノジャクとさげすむ傾向があるが、数えきれないほどの定説や正説が逆説によって覆されてきた。それが歴史というものだろう。

正しいと見なされている通説が危なっかしい時に逆説は唱えられる。たとえば、「疲れたらアタマを休めよ」にぼくたちは納得する。ずっとそう言われてきたしそうしてきたからだ。しかし、さほど疲れが取れないことにも気づく。そこで、「疲れたらアタマを使え」という逆説を実践してみる。実際、こうして成果を上げている人が大勢いるのも事実なのである。正確に言うと、「仕事Aで頭が疲れたら、仕事Bに頭を使え」。疲れたら何もしないのではなく、疲れたら対象を変えるという発想だ。

「負けは負け」なのに、「負けるが勝ち」と敢えて逆説を立てる。するとどうだろう、どう考えても表現的に奇妙な説からふつふつと真なるものが浮かび上がってくるではないか。「急がば回れ」も「急がば急げ」に対する逆説だったに違いない。一見真理に反するようだが、こちらも真理っぽいぞというのが逆説である。発想法の一つとして、頭が疲れたら逆説を唱えてみたらどうだろう。

明快表現のパラドックス

「意味の共有」はコミュニケーションの重要な原義の一つであった。他者に自分の意図を伝えて理解してもらうことであるから、現在もなお必要不可欠なコミュニケーションの機能である。言うまでもなく、言語を通じて共有化する意味は、不得要領ふとくようりょうであるよりは明快なほうが望ましい。丁寧で遠回しな表現では意味理解に時間を要する。むしろ、少々露骨であっても単刀直入な言い方のほうが意味は伝わりやすいのである。

対象や現象をものの見事にピンポイントで表現できればどんなに気持ちがいいことか。しかし、百万言を費やしてもそんな気分になれることは稀である。語彙が豊富な表現上手にとっても、最適語でメッセージを言い表わそうとする課題はおそらく生涯つきまとうに違いない。対象や現象なら、文字通り、ある程度「かたどどられている」が、観念や感情の意味となると、つまびらかに語り尽くし書き留めるのは難業である。

繰り返すが、ある事柄の輪郭を鮮やかにとらえてその内実を浮き彫りにするのは容易ではない。だが、自分と他者が意味を共有するためには避けて通れない試練である。にもかかわらず、ぼくたちはなぜその試練に立ち向かわないのか。好球を必打するようにことばを駆使しようともせずに、なぜ敢えて表現を迂回させようとするのか。迂回とは持って回った婉曲的語法のことである。差し障りのないよう、穏やかに、また露骨にならぬよう「ぼかしことば」を頻繁に用いるのはいったいどうしてなのだろうか。


人にはトラウマがあったり語りえぬ苦悩があったりする。社会には触れてはならぬタブーがあり、他者の心情や人権への配慮が求められる。今さら肝に銘じるまでもなく、まずまずの良識を備えていればわかることである。そう、良識ある人々は差別的表現を遠ざけようと意識する。差別的なことばは具体的で直接的な表現の一種なのである。ある意味で、名と実が近接して関係が明快なのだ。明快であるからこそ具合が悪い。したがって別のことばに言い換える。ここにぼかしことばの出番がある。

数年前からボケや痴呆症を「認知症」に言い換えようと厚労省が主導してきた。言い換えても実体に影響を及ぼさないが、従来の表現で苦痛を覚えてきた人たちの気持ちをやわらげることはできる。それでも、『ボケになりやすい人、なりにくい人』という書名の本は存在するし、普段の会話では「痴呆症」ということばを耳にする。差別語論はさておき、痴呆のほうが明快であり事態の深刻性を醸し出している。認知症を病だと「認知」していない人もいる。「認知していればそれでいいではないか」というわけである。

言い換えられた新語で傷つく人もいる。人にはそれぞれの痛みの「ツボ」があり、すべてのことばが万人に快く響くわけではない。婉曲表現のそのまた婉曲表現などということになれば、意味を共有するどころか、会話そのものがなぞかけ合戦と化してしまう。表現をぼかせば通じにくくなり、これではいけないとばかりに明快な表現を用いると相手に棘が刺さってしまう。これが明快表現のパラドックスである。パラドックスではあるが、別に悩むことはない。綱渡りさながら明快な表現を探し工夫することに躊躇する必要などさらさらないのである。