有名人とコマーシャル

あの人たちはテレビコマーシャルで自分が宣伝している商品を、日々の生活の中で実際に使ったり用いたりしているのだろうか。宣伝していながら、宣伝している商品とは別のものを使用しているとしたら、そのつど心理的違和感やちょっとした罪悪感などにさいなまれはしないのだろうか。ぼくなどは、ことばと考えと行為が大きくズレてしまうと、浮遊したような二重人格性を強く己に感じてしまうので、なかなか不一致を受容することはできない。

とは言え、あの人たちの生活は日夜スポンサーによって監視されているわけではない。だから、おそらく当該商品に束縛されることはないだろう。同業他社のコマーシャルに出演しないかぎり、現スポンサーに文句をつけられる筋合いはない。数千万円(場合によっては億以上)もの契約金は、スポンサー商品の日常的使用に対してではなく、あの人たちのスポンサーへの忠誠に対して支払われるのである。「契約期間中は、他社に浮気するような背徳行為はいたしません」という、「制約の誓約」への報酬と言い換えてもいい。

生真面目で几帳面な有名人は、年間数本のコマーシャルに出演しながら、もしかするとすべての商品やサービスを愛好しているかもしれない。公私を問わず、誰に見られようと、まったく後ろめたさもなく正々堂々と正真正銘の消費者として生活していたら、これは大いに褒めてあげてもいいことだろう。

古い話ゆえ叱られることはないから告白するが、ぼくは大手家電メーカーのP社とS社の広報・販売促進を同時に手掛けていた時期がある。どちらかと言えば、P社は他社の仕事をすることに寛容であったが、S社は一業種一社を絶対条件としていた。オフィスで使っていたテレビは両社いずれでもない他社製であったから、テレビのない部屋で打ち合わせをしていた。いつまでも隠し通せないと観念して、徐々にテレビやオフィス家電をおおむねS社製に買い換えた。このように、大変な気遣いをしたのを覚えている。二股には勇気がいるのである。


FN香は、コマーシャルしているあのヘアカラーを何ヵ月かに一回程度使っているのだろうか。自宅で地毛を自分自身で染めているのだろうか。少なくともコマーシャルの設定はそうなっているようである。「そんなの、行きつけの超高級美容サロンで別ブランドの商品で染めているに決まってる」と誰かが言っていたが、真相はわからない。もしそうならば、その美容院であのヘアカラー商品は話題にならないのだろうか。

UAは自宅でもガスで調理しているのだろうか。まさか自宅がオール電化などということはないのだろう。いやいや、もしオール電化であったとしたら、その一部をわざわざガスへと再リフォームしたとは考えにくい。あの人は役柄上のみガスを使っていて、実際は電気党かもしれないのだ。では、YS百合とK雪はどうだろう。前者のあの人はS社のテレビ映像を楽しみ、P社製では見ないのか。後者のあの人は、その逆なのか(こう書いてから「あっ」と気づいたが、ぼくが直面したジレンマのP社とS社の実名がわかる人にはわかってしまった。書き直すのも面倒なので、このままにしておく。なにしろもう時効だから)。

ぼくはビール党ではない(ビール党のみならず、あまり熱心な左党ではない)。にもかかわらず、あのYE吉のビールの飲みっぷりを見るたびに、特にこの夏のような酷暑の夕方にはグラスに注いで飲んでみようかとそそのかされたものだ。あの人、あのメーカーのあのビールを契約期間中に飲み放題なんだろうなと想像する。だが、K社やA社のビールを飲んでいたらがっかりだろうな。いや、ビール党でない可能性だってある。TM和もハム嫌いでないことを願うが、みんな芸達者な人たちだから、本物のペルソナは素人にはわからない。

いったい何人の自分がいるのか?

「分類」についていろんな本を読んだし、企画における情報分類や編集の話もよくする。分かるために「分ける」のだけれど、分けても分けても分からないことは分からない。なんだか禅問答のようだが、理解しがたいことを何とかして分かりたいという願いが分類へと人を動かしているようだ。分かりたいのは、おそらく安心したいためかもしれない。全人類を血液型によって4パターンに分けるなど無謀で大胆なのだが、帰属の安心や他人の尻尾をとりあえず押さえておきたい心理がそこにあるのだろう。

誕生月や星座による分類は血液型よりも多くて12である。百人がいれば、平均して1パターンにつき89人の仲間が出揃う。この場合、老若男女や貧富や頭の良し悪しは問わない。指標は誕生月と星座のみである。そんな分かりきったグルーピングをしてもしかたがないような気がするが、ぼく自身もいろんなことを分類しているのに気づく。なぜぼくたちは、多数のいろいろなサンプルをサンプル数をよりもうんと少ないカテゴリに分けたがるのだろうか。ちなみに百のサンプルを百のカテゴリに分けるのは分けないことに等しい。

分類するよりも、一つの事柄に複数の特性を見つけるほうが創造的な気がする。一人の人間に潜んでいる相反する特徴や多重性の人格や様々な表情のペルソナ。そう言えば、小学校の低学年の頃に流行った七色仮面を思い出す。雑誌を読みテレビにも夢中になった。今でも主題曲をちゃんと覚えている。「♪ とけないなぞをさらりとといて このよにあだなすものたちを デンデントロリコやっつけろ デンデントロリコやっつけろ 七つのかおのおじさんの ほんとのかおはどれでしょう」。「七つの顔を持つおじさん」なのである。これはすごい。「本当の顔はどれでしょうか?」と、クイズになってしまうくらいのすごさなのだ。


「ピンチヒッターはなぜチャンスヒッターと言わないんだろう?」と、開口一番、全員に問いかけるA。「そう言えば、そうだねぇ~」と乗ってくれるB。黙って知らん顔しているC。「そんなこと、どうでもいいじゃないか!」と吐き捨てるD。「ちょっと待って」と言って、すぐにネットで調べようとするE。そのEを見て、「調べないで、想像してみようぜ」と持ちかけるF。「オレ、知ってるよ。誰かが怪我すると『危急の代役』が必要になるからさ。ゲームの場面のチャンスとは関係ないんだ」と薀蓄するG

みんな性格の違う、AからGまでの7人。実は、この7人全員がぼくの中にもあなたの中にも棲みついているのである。ぼくたちは人間力学によってテーマによって状況によって、やむなくか都合よくか、意識的か無意識的かわからないが、7人を使い分ける。野球のことならBEGになり、話がファッションになるとCDになり、エコロジーになればAFになるのである。血液型や星座の窮屈さに比べれば、ずいぶんダイナミックな変幻自在ではないか。そう、すべての人は七変化しちへんげする七色仮面。

自分が「何型」ということにいつまでも喜んでいるようでは、幼児的退行と言わざるをえない。そんな一つのパターンに閉じ込められることを素直に受け入れるべきではないだろう。人間が一つの性格・一つの特徴しか持たないならば、それはほとんど下等動物以下ということになる。そんなバカな! 状況に合わせて関係を変化するから環境適応できているのである。一つの型を貫くことを普遍とは言わない。それは偏屈であり、変化に開かれず閉ざすことを意味する。