人を見て法を説く法則

Marketing→Targeting web.jpg copyright.png 方法や発言が変わることはよくないことなのだろうか。数年前におこなっていたやり方や言っていたことを今翻してはいけないのか。居直るわけではないが、「あなたの言うこと、していることはころころ変わる」と言われても痛くも痒くもない。なぜなら、方法や発言は変わるもの、変わるべきものだからだ。環境や時代によって変わり、付帯状況によって変わり、そしてそのつどの考え方によって変わる。

方法や発言を仮にポリシーと呼ぶことにしよう。ポリシーは、何よりもまず、相手次第で変化する。あのときのぼくのポリシーはAさんたちに向けて発言したものであった。今回はBさんたちに向けてのものである。たとえば、ぼくの研修でもっとも引き合いの多い『プロフェッショナル仕事術』では、対象が五十代と三十代とでは講義ポリシーが変わる。前者には仕事を収束させるスキルが重要であると伝え、後者には仕事を拡散するスキルを磨けと説く。所変われば品が変わるように、相手が変わればポリシーが変わるのである。
冒頭に書いたように、ポリシーは環境や時代、付帯状況、ぼくの考え方の変化に応じて変わるから、同じAさん相手であっても、2ヵ月前のあの時と今とでは違う。ここでお気付きだろうが、変わるポリシーというのは下位概念的なものであって、もとより臨機応変を本質に持つものである。そのようなポリシーの変更を矛盾などと呼んではいけない。矛盾とは今ここで相反する二つの法則が成り立ってしまうことだ。相手が変わり時間が経過していれば、相反する事態は決して生じてなどいない。

繰り返しになるが、方法や発言のような下位概念的なポリシーは変わる。いや、変わらねばならない。しかし、その下位概念的なポリシーをくくる上位の法則までもが変容しているわけではない。AさんにXと言い、BさんにYと言うのは、いったいどういうことなのか。それは、人を見て法を説くことにほかならない。人を見て法を説け、あるいは今という時代を洞察して法を説けなどというのは、万人に通じる普遍法則と言ってもいい。
ビジネス成功のために「売れる商品を作れ」などと言われる。これは、「売れる商品を作れば売れる」という意味になり、明らかにナンセンスな同語反復だ。どの売り手もこのように考えて行動すれば、当該商品が溢れて供給過多になり、熾烈な企業間競合と価格競争が必然になる。こんな混沌状況では普遍法則など成り立つはずもない。もはや「売れるものづくり」などという発想は役立たずなのである。
日米だけに限ってもマーケティングの定義には温度差があるが、いずれにも「顧客」という用語が含まれている。しかし、この顧客はもはや大衆や不特定多数という意味からはほど遠い。今日においては、「人を見て法を説く」ときの「人」と同じく、個別であり、きわめて限られた特定の人々でなければならない。企業は何を作るのかを絞り込むと同時に誰に売るのかを絞り込まねばならない。言い換えれば、その商品からどんな価値をどんな顧客に感じ取ってもらうかということだ。マーケティング(Marketing)という広義の概念をターゲティング(Targeting)という狭義の概念に置き換えることが必然になったのである。

テレビコマーシャル考

television commercial.jpg今もマーケティングの企画をしたりコピーを書いたりもする。かつては広告の仕事をしたことがあるので、少しは制作の裏事情もわかっている。デフォルメはやむをえないが、ウソをついてはいけない。このことは心得ておくべきことだ。

とは言うものの、この「ウソ」の解釈がむずかしい。ありもしないストーリーづくりをしても商品の特徴を偽らなければウソにはならない。時には過剰演出もあるだろうが、それもウソではない。小説のことを「虚構フィクション」と呼んで「虚偽」とは言わないように、広告における虚構性をウソと決めつけるわけにはいかないのである。しかし、ウソではなくてもノンフィクションだと胸を張れるかと問えば、やっぱりフィクションも混じることを否めない。テレビコマーシャルはフィクションとノンフィクションのはざまで揺れ動く。
あることを誇大に強調し、別のことを語らないというのも、たかだか15秒枠で訴求せねばならないテレビコマーシャルの宿命である。「歯医者さんが薦めるPCクリニカ」というのがあったが、どこの歯医者さんかは不明である。もしかすると適当な歯医者さんかもしれないし、第一人者の歯医者さんかもしれない。「やっぱりDHCだね」と言われても、何が「やっぱり」なのかわからない。売上ナンバーワン即納得でもないからだ。

何度見てもぼくが苦笑いするのが、「う~がい、手洗い、にんにく卵黄~」である。健康の三点セット? たしかにそんなふうに聞こえる。そして、「 ばあちゃんの言う通り」と続く。ばあちゃんは年中うがいをして手洗いをしてにんにく卵黄を一日何粒かを目安に飲む。そのことをばあちゃんは孫たちに教えているようだ。孫の年齢にしてにんにく卵黄というのも不思議だが、「ばあちゃんの言う通り」というくらいだから、もしかすると愛用しているのかもしれない。極めつけは「 あ~あ、ばあちゃんにゃかなわない」だ。もうお手上げなほど、ばあちゃんは偉いのである。つまり、にんにく卵黄も偉いということだ。フィクションかノンフィクションか……わからない。

たぶん11月頃から流れ始めたコマーシャルがある。元テニスプレーヤーの杉山愛を起用した歯磨きシュミテクトだ。一部始終のせりふをここに書かないが、「歯がしみる、知覚過敏にいい」云々という内容。それはそれでいい。実証もされているのだろう。ところが、コマーシャルの最後に、懸命に宣伝したはずの杉山愛が「すぐにでも使ってみたいと思います」と言うではないか。おいおい、あなたはまだ使ってないの!? とツッコミを入れざるをえない。
コマーシャルに起用された本人が使ってから宣伝してもらいたいものである。大衆的なヘアカラーを訴求する大物女性タレントが白髪が目立たないなどとおっしゃるが、たぶん本人は自分で染めているはずがない。セレブな美容院でもっと高価なもので染めてもらっているに違いないのである。あの知覚過敏歯磨きのコマーシャル、すでに流れてから3ヵ月以上になると思うが、杉山愛はまだ「すぐにでも使ってみたい」と言っている。今使い始めても、もはや「すぐに」ではないだろう。

付箋紙メモの行き先

いろいろと自問していることがおびただしい。問われていることも多数、ここに依頼されているテーマが上乗せされて、少々収拾がつかなくなっている。かと言って、忙しくなったり慌ただしくなったり気が急いたりしているわけではない。ただ、何と言うか、散漫としていて焦点を絞り切れない感覚に陥っている。こういう感じを「付箋紙がいっぱい貼ってある状態」とぼくは呼んでいる。

「付箋紙がいっぱい貼ってある状態」に良いも悪いもない。その状態は価値判断と無縁の現象にすぎない。もし無理にでも意味を見い出そうとするなら、どちらかと言えば好ましくないことが一点だけある。それは、ここまで書いてきてもなお、頭の中は一行メモの付箋紙で溢れ返っていて、何を書こうとしているのか未だに定まっていないことだ。カオスの中からカオスをなだめる術は生まれてこない。カオスの状態は外部からの強い刺激か、あるいは外部に対する執拗な働きかけによってのみ秩序へと向かう。

考えたい・深めたい・広げたいテーマが山ほどあって、思考・深耕・展開への意欲も指向性も強いのだが、何から手をつけて何と何を関連づけていくかがよく見えない。誰もが身に覚えがあるはず。抱えているすべてのテーマについて、浅瀬で逍遥している時間が延々と続くのだ。繰り返すが、それでもここに良し悪しなどない。なぜなら、一寸先は闇かもしれないが、視界の開けた眺望点かもしれないからである。


秩序へ向かう一つの方法は、一枚の付箋紙だけを偶発的に取り上げて、他を見えないところに格納してしまうことである。今日のところ、こうして手元に残ったのが「事業の目的、顧客の創造」というメモである。ピーター・ドラッカーのあまりにも有名な次の箇所が、この付箋紙メモの発端になっている。

If we want to know what a business is we have to start with its purpose. And its purpose must lie outside of the business itself. In fact, it must be in society since a business enterprise is an organ of society. There is only one valid definition of business purpose: to create a customer. (……)
「事業とは何かを知ろうとすれば、まず事業目的が出発点になる。しかも、事業目的は事業それ自体の外部に見出さねばならない。実際、企業は社会の一器官であるから、事業目的は社会にあってしかるべきだ。唯一妥当な事業目的の定義は顧客の創造である」(拙訳)

事業目的が顧客の創造であり、それがすべてで最終目的であるという議論を、いろんな機会に耳にしてきた。しかし、目的と手段がある時、なぜ目的のほうが手段よりも重要なのかを説明できた人はいない。このドラッカーの説を引く人たちは、事業目的が顧客の創造にあるのだから「それが一番重要だ」と、あまりにも短絡的なのである。人生の最高善であり最終目的を「幸福」だとする時、その幸福に近づく行程や手段を重要度で下位に見立ててよいのか。ノーである。上記の文章から三、四段落後に書かれている次の文章と併せて考えてみる必要がある。

Because it is its purpose to create a customer, any business enterprise has two――and only two――basic functions: marketing and innovation.
「事業の目的は顧客の創造であるから、いかなる企業も二つの、たった二つの基本的な機能を持つことになる。すなわち、マーケティングとイノベーションである」(拙訳)

マーケティングとイノベーションという機能によって顧客の創造へと向かう……これが事業なのだというわけである。一点注目せねばならないのは、顧客の創造の「顧客」が原文では“a customer”と「一顧客」になっている点である。決して集合名詞ではない。ドラッカーに与するかそうでないかの前に、きちんと解釈だけはしておきたいものだ。この先いくら書いても一晩で答えが出るわけでもないのでここでピリオド。続きはいずれ取り上げるが、ビジネスマンなら暇な折りに一考する価値があると思う。


脳内が収拾不能になったら、とりあえず上記のように書いてみることである。何もしないよりもきっと少しは見晴らしがよくなるはずだから。

複雑と単純のはざま

テレビドラマはめったに見ないが、ある番組をBSハイビジョンで見終えてそのままつけっぱなしにしていたら、『坂の上の雲』が始まった。毎週同じ曜日同じ時間帯に拘束されてしまうシリーズドラマに熱心ではないので、普段はすぐにチャンネルを変えるか電源を切る。だが、このときに限ってエコに反してテレビをつけたまま雑用したり本を読んでいた。画面には時々目を向ける程度だったが、音声は当然耳に入ってくる。

たまたま「その場面」ではテレビの前に座り込んでお茶を飲んでいた。秋山好古が上京してきた弟の真之と飯を食っている場面だ。兄が酒を一気に飲み干し、その茶碗を弟に渡す。弟が櫃から飯を盛って漬物をおかずにして腹へと流し込む。茶碗は一つ。やりとりの台詞は細かく覚えていないが、一つの茶碗に象徴される生活スタイルを「身辺を単純に」と描写していたのが印象に残った。しばらくして電源を切ったが、就寝前に身辺単純を「シンプルライフ」に読み換えて、ぼく自身の日々の生活をなぞったりしていた。

というのも、偶然なのだが、その前日にノートに「思考複雑、言論明快、行動単純」という表題で次のようなメモを、文章未推敲のまま記していたからである。

それぞれの四字熟語に異論がないわけではない。場合によっては、思考も言論も行動もすべてシンプルをモットーにしてもいいわけだ。しかし、思考単純、言論単純、行動単純と書き換えてみると、どうしても思考単純だけには納得がいかない。なぜなら、思考の特権は現実から乖離して「何でもどんなふうにでも巡らせる」という自由自在性にあるからだ。自由自在性は複雑をも意味する。どんなに複雑に思考をしても、誰にも迷惑をかけることはないだろう。翻って、その複雑思考をそっくりそのまま言論化すれば他者が困り果てる。ゆえに、若干の複雑さが残るにしても、言語は明快であることが望ましい。また、社会での協働という観点に立てば行動もわかりやすほうがいいだろう。現実側から並べ換えると、「シンプルに行動し、わかりやすく対話し、そしてしっかり考える」ということになる。


一昨年までぼくは『シンプルマーケティング』を標榜して何度も講演していた。今でもこれが拙いとは思っていないが、誤解を招いたかもしれないと反省している。シンプルであるべきは手法としてのマーケティングである。そのことを訴求したいがために、ぼくは市場そのものを「売り手と買い手、商品・サービスと貨幣」の4要素を中心に見るべきだと提言していた。弁明が許されるなら、決して「4要素のみ・・」と言ったわけではない。さらに付け加えるならば、売り手も買い手も人間であるからコミュニケーション・消費・欲望なども含んでいるし、商品・サービスには技術・便益・満足などが関わり、貨幣には金融・価値・家計などの要素が無関係ではない。4要素は周辺へと広がる。中心には周縁がついてまわるのである。

実に複雑な現象をとらえて単純に考えることはできない。複雑な事柄は複雑に考えて扱うしかないのである。しかし、科学がそうしてきたように、複雑怪奇に潜む本質をシンプルな法則でまとめようとし、誰かに伝え誰かと行動して方策を立てるのは人のさがである。複雑な要素を秘めているはずのゲーム――たとえば競馬、囲碁・将棋、サッカーなど――に必勝法や定跡を模索しようとする心理同様、つかみどころのない市場の中にぼくたちは「確かなマーケティング法則」を発見したいと願っている。

単純化は人間能力の限界から来るものなのだろう。複雑を単純に見立てようとするのは、言論と行動のための方便にすぎない。何かを解決するために誰かとコミュニケーションしたり行動したりしようとすれば、複雑な現象を解体して「単純に箇条書き化」することは絶対条件なのである。しかし、しばし解決を棚上げし、言論や行動をも括弧の中に入れてしまえばどうだろう。ぼくたちがいる市場は複雑であり、いかなる手立てを講じても単純に思考することはできそうもない。億単位の売り手と買い手に商品とサービス、兆単位の貨幣……複雑をあるがままに複雑として見つめることは無駄ではない。この作業を経たのちにはじめて、シンプルマーケティングが「身の丈に応じたマーケティング」ということが明らかになるだろう。

「一人歩き」を見直す

「一人歩き」と言っても、実際の歩行とは関係ない。使い慣れたマーケティング用語が勝手に一人歩きしてしまっている話。

「市場の動きをよく見て」「顧客の立場から言うと」「ニーズはいったい何か」……こんな言い回しが比較的多く飛び交う環境にいる。振り返ってみると、自分自身がこうした表現の発信者であることも少なくない。ところが、ここ数年、講演や会議や打ち合わせで、この種のことばを使うにつけ聞くにつけ、何かが引っ掛かってしかたがない。

その引っ掛かりが、暗黙の前提や相互了解から来ているらしいことがわかった。いちいちことばで説明しなくても、「市場は存在」し、当然ながら「顧客の立場は存在」し、「ニーズも存在」する。マーケッターや企画者はほとんど疑念もなく、このような姿勢を共有している。そして、お互い十分にわかったつもりになって、もはや定義や存在を再確認しようとはしない。気がつけば、概念が一人歩きしているではないか。

マーケティング、いや、もっとくだけて「商売」と言ってもいいだろう。ひょっとしてあなたは、商売に理屈を持ち込んで議論しても勝ち目がないことを知っているがゆえに、「商売は理屈じゃない」という持論側に立たされてはいないだろうか。なるほど、「商売は実践あるのみ」という定説には逆らいにくい。しかしながら、それは市場も顧客もニーズもわかっているからこその実践なのであって、そうではない状況では理屈や理論なくして商売を考えることはできない。理屈がなくても今日一日の商売は実践できるが、理屈を抜きにしては明日以降の商売は語れない。

ぼくたちは、市場について、顧客について、ニーズについて、「理屈抜きに」――あるいは「もはや問う必要もないほどに」あるいは「さも当然かのように」――よくわかっているのだろうか。非力を認めざるをえないが、たぶんノーである。


通常数百個しか売れない商品が「どういうわけか」1万個売れた。望外の幸せはマーケティング的に説明がつくか? それは市場が成長した証か? この市場には魅力があるのか? 自社に参入適性はあるのか? ここで言う市場とは1万人の人々から構成される場か? 機会か? それともニーズか? そうでなければ、いったい何なのか? その商品によって1万人のユーザーはどんなニーズを満たしたのか? 1万人に共通する顧客特性はどう割り出すのか? 割り出せはしない、しかし特性がバラバラだということはわかった、では、それはいったいどんな次の手を示唆しているのか? ニーズは一様だったのか? そのニーズはどうすれば知りうるのか、アンケートで聞いてみればわかるのか? 「なぜこの商品をお求めになりましたか?」と訊ねて、消費者はその「なぜ」を的確な言語で表現できるのか? 仮に文章で書いてくれたとして、それをそのまま鵜呑みにできるのか? あるいは、その文章から市場の、顧客の、ニーズの何を読み取るのか?

機関銃の弾のごとく”?”を連ねてみたが、考えてみれば、市場の、顧客の、ニーズの何が真であるか、ほんとうにぼくたちはわかっているのだろうか、いや、わかることができるのだろうか。「どこまで行ってもわからない。わからないからこそ、徹底的に客観的に問うべきだ」。こう考えて、マーヴィン・バウワーは「マーケティングとは一言で言えば、『客観性』だ」と達観したのだろうか。

客観性は主観性と二項対立の関係にある。絶対的な客観性ならば、主観性を消去しなければならない。それは「無我」を意味する。マーケティングとは無我の心境なのか。自分が考える市場や顧客やニーズと、実体としての市場や顧客やニーズは一致しているのか。こんな視点に立つと、まるで「現象学」みたいになってしまうが、主客の一致などというものが商売に存在するのか、ひいては「顧客のニーズを踏まえて」とか「顧客サイドに立って」などということが実際にありうるのかどうかは、あらためて問い直すべきテーマだろう。

何が真理かは、結局マーケッター自身が自分の眼力によって見極めるしかない。市場や顧客やニーズのところに真理があるのではなく、したがって、調査はもちろんのこと、客観的視点にも限界があり、ゆえにマーケッターは市場や顧客やニーズを自分のアタマの中で想定し、編集し、構築、検証、再構築するしか法はない。現在、ぼくはこの方向性で「概念の一人歩き」に見直しを加えつつある。

「誰にとって」という基本的な視点

私塾の最終講で「マーケティングの古典」を紹介し、現在にも生かせる普遍的な考え方や有効性を探ってみた。一時間ちょっとの講義のあと、三人の塾生に自社のマーケティング戦略について発表してもらった。一事例につき、発表15分、他塾生からの質疑応答10分、5班に分かれての事例討議が10分、各班からのコメント発表2分、ぼくの総括講評が5分という流れである。

事例の発表や意見交換を通じて、アタマではわかっていても、なかなか実践できない事柄がいかに多いかということに気づく。それは、ぼく自身にとっても歯がゆくも困難なハードルである。しかし、みっちり5時間半の中で、成功図式とまでは言えないまでも、成功するために踏まえるべきパターンらしきものがシンプルに浮かび上がってきた。


市場にはいろいろなニーズやウォンツが渦巻いている。なくては困るモノやサービスへのニーズから、なくてもまったく困らない贅沢なモノやサービスへの欲望に至るまで、消費のステージが何段階もある。そして、すべての段階において、消費行動の多様化と高度化は著しい。消費行動の多様化は「顧客の絞り込み」を求め、高度化は「イノベーション」を求める。したがって、企業のプロフェッショナルにとっては「誰のために、どのような新しいモノ・サービスを提供できるか」が命題になってくる。これが、よく知られた「ポジショニング発想」である。

もう一つ、基本の基本となるのが、「ユニーク・セリング・プロポジション(Unique Selling Proposition=USP)」。「固有の売りのうたい文句」というニュアンスになるだろうか。もう半世紀も前に生まれた、「この商品を買えば、こんな利点がある」というマーケティングのコンセプトだ。この考え方は後々に「自他の差別化戦略」につながってくる。

たとえば、二店の焼鳥屋がいずれも「ジューシーで歯ごたえのよい肉質」をアピールしたら、もちろんそのことは利点ではあるけれども、どちらの店を選ぶかという決定要因にはならない。雰囲気の良さを想像させる店名、店構え、旨さを際立たせるタレや塩、価格など、他店にない固有の利点を認知してもらわねばならない。「この店に入れば、ここが違う」という差異化のためには、どの顧客にとっての利点なのかというポジショニングも絡める必要がある。


カフェのRサイズ200円、Mサイズ250円、Lサイズ300円。サイズの呼び方や値段はそれぞれ。これは端的に三種類のニーズに対応している(つもり)。価格とサイズ案内のMサイズのところには「Rよりお得なサイズ」と書いてあり、サイズのところには「さらにたっぷりサイズ」とある。いずれの文言も「利点」を訴求している(つもり)。

だが、人間心理の研究不足である。コーヒーは嗜好品である。だから50円払ってRにして「お得なサイズ」という思いにはならない。「どうせなら多めに」という顧客もいるが、最初からRに決めている客には店側が訴えるMLの利点は伝わりにくい。嗜好品は、量が多ければ多いほどいいというものではないからだ。これは、昼にざる蕎麦を食べに行って、50円アップで大盛にするのとはちょっと違う。一般的に「増量または減額」が得の理論だが、商品によって変化する。エステやマッサージは「時間延長」が得、交通機関は「時間短縮」が得。とはいえ、顧客次第で絶対ではない。

私塾の塾生は、配付資料を2枚増量しても誰も感涙極まらない。枚数が少々減っても、あるページに目からウロコのすごいことが書いてあれば、そこに利点を見い出す。「本日は特別に講義2時間延長のおまけ!」と利点を売り込んでも、「定時に終わって、メシにでも行きましょう」という塾生が大半だろう。平凡な帰結になるが、時代の、特定の人間の、心理と具体的なニーズ・欲求に正確にマッチする利点探しを大いなる想像力で極めるしかない。「誰にとって」という視点から始めることは、証明済みの法則と考えてよさそうだ。  

師走の候、古典に入(い)る

幸か不幸か、師走になると出張がめっきり減る。地元での講演や研修も12月は少ない。と言うわけで、オフィスにいる時間が長くなる。「幸か不幸か」と書いたものの、決して「幸」とは言いがたい状況かもしれない。唯一の慰めは、多忙期に備えて知のインプットができるという点だろうか。

「知のインプット」などと洒落こんだ言い方をしてみたが、何のことはない、日頃腰をすえて読めない本や資料に目を通すだけの話である。今年は古典を読み直している。源氏物語ブームであるが、古典イコール文学ではない。一昔前の思想ものや歴史・文化だって古典になりうる。わざわざ本を買いにはいかない。かつて一度読んだものをなぞったり、買ったけれども未だ読破できていない書物に挑んだりしているところだ。

加速する情報化時代、昭和までの著作は古典という範疇に入れてもいいかもしれない。では、なぜ古典なのか? 実は、11月に高松で数年ぶりに再会したY氏の古典への回帰の話に大いに刺激を受けた。退職されて数年、六十歳も半ばを過ぎた今、ビジネスや時事関連の本をすべて処分し、書斎をそっくり読みたい書物に置き換えたとおっしゃる。食事をしながら、シェークスピアや小林秀雄を高い精度で熱弁される。大いに感心し、啓発された。

仕事柄、時々の話題や最新の動向にはある程度目配りせねばならない。でなければ、時代に取り残される。しかし、新作ものばかりでは焦点が定まらない。新刊を休みなく追い求めるのは、煽られて次から次へと新しいサプリメントを求める心理に似ている。これに対して、一時代を画した古典は大きくぶれない。価値の評価は上下したとしても、生き残っている古典は継承されてきたのであり、継承されたということはいつの時代も選ばれるに値したのである。サプリメントとは違って、こちらは身体によいおふくろの手料理みたいなものだ。


1219日は今年最後の私塾の日である。以上のような環境にいるぼくなので、私塾スペシャルの今回、心底古典講座にしたかった。それは、しかし、5月の約束を破ることになる。すでに「マーケティング」でテーマは決まっているのだ。

「失われた十年」からの数年間でマーケティング理論は激変した。激変のみならず、諸説入り混じり、何をお手本にすればいいのかわからない状況だ。こうなった最大の要因はインターネットである。「売買」という概念は牛を呼び売りした三千年前から変わったわけではないが、メディアの多様化とともに売買関係や売買心理は新しい領域にぼくたちを誘った。

すでに決まっているテーマとぼくの関心事が相容れないわけではない。一計を案じるまでもなく、マーケティングと古典を単純につなげばいいのである。題して“Marketing Insight Classic”。敢えて日本語のタイトルにしない。理由は、“Classic”には古典という意味以外に、「最高、一流、重要、模範、決定版」などのニュアンスがあるからだ。

サブタイトルはわざと長ったらしく「マーケティングの分野に足跡を残した古典的思想に知と理を再発見して今に甦らせる」とした。何と切れ味のない文章なんだ! と自己批評はしたが、ぼくが今まで「幅広く勉強してネタを仕込み、じっくりコトコト煮込み濃縮してきたエキス」だし、そんな名前のスープもあるくらいだから、これでいこうと決断した次第。

人を見て法を説けるか?

「人を見て法を説け」とはご存知釈尊のことばだ。どちらかと言うと、好きなセオリーである。相手にふさわしい働きかけをするという意味では、接客はもちろん、マーケティングにも通じる法則である。

イエス・キリストが「広告マン」と謳われるなら、釈尊は「マーケッター」と呼んでもいいかもしれない。ピーター・ドラッカーが何かの本で「姉と妹の、あるいは独身者と既婚者の、靴に対する価値観の違い」を論じていたが、「人を見て靴を売れ」と応用できる。だが、足の大きさを測れば売るべき靴のサイズはとりあえずわかるだろうが、人の内面に潜む価値観を見抜くのはそう容易ではない。

よく「やさしく、わかりやすく説明せよ」と上司に叱られている社員がいるが、やさしくてわかりやすい絶対法則がそこらに転がっているわけがない。やさしさとわかりやすさは「絶対」という修飾語とは相性が悪いのだ。何かを説明されても、人によって理解のスピードや思い起こすイメージは違う。この名句は「説明はカスタマイズせよ」という意味である。


しかし、しかし、しかしである。ここから先の話は「しかし」を三回繰り返すにふさわしい。

順序からすると、まず「人を見る」。それから「法を説く」である。この順番が変わるとまずい。好き放題に法を説いた後で相手を見ても手遅れになってしまう。

くどいが、整理すると、(1) 目の前にいる人の能力や性質をよく見定めよ、そして、(2) その人がよく理解できる方法で真理を説明せよ、となる。この順番はゲームソフトと同じで、ステージ(1)をクリアしないことにはステージ(2)には進めない。

さあ、冷静に考えてみようではないか。ビジネスにしてもスポーツの世界にしても、人の能力や性質は簡単にわかるものなのだろうか。何年かけようと、人事部長や監督の眼力がお粗末ならどうにもならない。犯罪心理学者が「彼は社会から孤立していたんでしょうね」とパーフェクトに普通のコメントをする時代、心理学にも全幅の信頼を寄せることはできない。

(1)の壁、実に高い。どこからよじ登ればいいのかわからず、すぐさますべり落ちそう。さらに、奇跡的に(1)の壁を超えることに成功しても、現実的には説く側も凡人であることが多いゆえ、説明できるほどの真理を極めていることはめったにないだろう。つまり、(2)の壁も聳え立つほど高い。


何だか底無しのジレンマに陥って悲観的になってしまいそうだ。そう、全身全霊を傾けるくらいの本気がないと、「人を見て法を説く」ことなどできないのである。凡人にとっては「人を見ず、法も説かない」のが無難なのか……。

いや、そうではないだろう。この名句は、ちょっと高い地位に就いているという理由だけで人を見れるようになったと錯覚し、挙句の果ては真理とはほど遠い法を好き勝手に垂れまくる人たちに向けられた、永遠に成し遂げられぬテーゼに違いない。自戒を込めて、「分相応に人を見て法を説けるようになりたい」と締めくくろう。驕らず謙虚に、驕らず謙虚に、驕らず謙虚に。これも三回繰り返すにふさわしい。