類型を好む人たち

昨今ほとんど集まりに出ないが、かつてはよく集いを主宰してもいたし、よく招かれもした。義理と形式を絵に描いたような会合に顔を出すこともあった。そんな席でたまたま隣に座った人が「どこどこの誰々と申します」と名乗ることがある。自己紹介してくる人に知らん顔は失礼なので、つられるように名を告げる。但し、明らかに一過性の出会いでぼくは社名や職業名まで紹介しない。

話しかけてきた人がさらなるひと言ふた言続けることが稀にある。「今日出席した理由は何々で……」と言うから、「そうなんですか」と相槌を打つ。それ以外に応対の方法を思いつかない。たった一度きりだが、自己紹介の後に唐突に「ところで、あなたの血液型は何ですか?」と聞いてきた男がいた。会合のテーマは「献血」ではなかったが、赤十字が協賛団体なのかとバナーに目を向けたほどだった。「O型ですが、それが何か?」と言うと、長く深い話にされてしまいそう。かと言って、「初対面のあなたに血液型を明かす筋合いはない!」などと偏屈になることもない。「O型です」とだけ言って、後は黙った。彼もうなずいただけだった。何のために聞いてきたのだろうか。

血液型や何月生まれや星座が話題になることがよくあるが、別に不快にならない。好きな人はどんどん話題にすればよろしい。ぼくは輪に入らない。人間を4種類や12種類に分けてみたところで、何かがわかるわけでもないと思っている。かと言って、分けることに批判的でもない。どうぞご自由に、というわけだ。


広辞苑などでは類型の定義を「一定種類に属するものごとに共通する形式」としているが、そうではないだろう。最初からそんな種類に属しているのではなく、いろんなサンプルから共通特徴を少々強引に抽出して型を作りラベルを貼ったのである。だから、「私は水瓶座なので……」とか「B型のあなたは……」という、はじめに類型ありきのプロファイリングは手順前後である。まあ、星座や血液型ならいいだろう。だが、「私は慌て者。だから……」などと自ら看板を立てる連中は、それに続けて己の欠点を見事に正当化する。一見ダメそうな慌て者に理があるような論法を組み立てる。

「オレは根っからの感性派なので……」の類には辟易する。「感性派なので、理性のことはよくわからん。腹が立てば怒るし、共感すれば涙を流す。理屈を超えたところで人間どうしは心を通わせるのだと思うんだよな」と一、二行のコピーで一本筋を通すように話をまとめ上げる。ぼくは心中つぶやく、「あんた、それって仮説の論法で、結構理屈っぽいと思うけど」。

誰かにどこかで感性派という類型を教わったのか、あるいは「お前は感性派だ」という天啓があったのか知らないが、十人十色の人間に一言で済ませられるようなラベルが先験的に貼られるわけがない。おびただしいサンプルのことごとくに言及できないから、類型という方便を編み出したにすぎないのである。ともあれ、感性派と理性派などという二元論的類型など不器用極まりない。そんな単細胞的に自分をブランディングする必要はない。類型はつねに変わるのだ。

内容と表現の馴れ合い

ずいぶん長い間、情報ということばを使ってきたものだ。まるで呼吸をするように使ってきたから、立ち止まって一考する機会もあまりなかった。実に様々な文脈で登場してきた情報。ぼく自身も知識という用語から峻別することもなく、情報、情報、情報と語ったり書いたりしてきた。但し、数ヵ月前に本ブログの『学び上手と伝え上手』で書いたように、見聞きする範囲では情報という語の使用頻度は減っている気がする。

それでもなお、この語がなかったら相当困るに違いない。見たままなら「情けを報じる」である。「情け」というニュアンスをこの語に込めたのはなかなかの発案だった。一説に森鴎外がドイツ語を訳した和製漢語と言われているが、確かなことはわからない。確実なのは、広辞苑がここ何版にもわたって「ある事柄についての知らせ」という字義を載せていることだ。「知らせ」であるから、知識でも事件でも予定でもいいし、情けであってもまずいわけではない。

情報ということばは多義語というよりも、多岐にわたる小さい下位の要素を包み込んだ概念である。固有の対象を指し示すこともあるが、ほとんどの場合、具体性を避けるかのように情報ということばを使ってしまう。「情報を集めよう」とか「情報化社会において」とか「情報発信の必要性」などのように。つまり、内容を明確にしたくないとき、情報の抽象性はとても役に立ってくれるのである。


先に書いたように、情報は「事柄」と「知らせ」の一体である。内容と表現と言い換えてもいい。ぼくたちが欲しいのは情報の内容であることは間違いない。ところが、情報はオーバーフローするようになった。そして、ここまでメディアが多様に細分化してしまった現在、内容よりも「知らせ方」の意味が強いと言わざるをえない。知らせ方とは受信側からすれば「知り方」である。その知り方を左右するのは、情報を表現するラベルや見出しだ。

こうなると、内容あっての表現という図式が怪しくなってしまう。内容がなくても、表現を作ってしまえば内容らしきものが勝手に生まれてくるからである。情報価値などさほどないがラベルだけ一人前にしておく、あるいは、広告でよく見られるように、同じ商品だが表現だけをパラフレーズしておく。実際、近年出版される本の情報内容は、タイトルという表現によってほとんど支配されているかのようである。さらにそのタイトルが帯の文句に助けてもらっている。

眼が充血したので眼科に行けば、その向かいに耳鼻科の受付。『春子は、春子なのに、春が苦手だった』というポスターが貼ってあった。かつて見出しは『花粉症の季節』のようなものだったに違いない。そして、それは花粉症対策の必要性という情報と乖離することのない見出しだったはずである。ここに至って、本来の医療メッセージが、花粉症に苦しむ女性、春子さんに下駄を預けている恰好だ。これなら『夏子は、夏子なのに、夏が苦手だった』も『冬雄は、冬雄なのに、夏が好きだった』も可能で、これらの表現に見合った情報内容を後から探してもいいわけである。

情報内部で内容と表現が馴れ合っている。そして、ぼくたちはろくでもないことを、目を引くだけの表現で知らされていくのである。ことば遊びは好きだが、情報を伝えるときに表現を弄びすぎるのはいただけない。

「情報スキマー」としての顧客

十数年前のぼく自身の講義レジュメを繰っていると「情報ハンター」ということばがよく出てくる。色褪せて見え、何だか気恥ずかしい。それもそのはず、情報を探して集めて分析する時代だったのだから。情報コレクター(収集)の時代から情報セレクター(選択)の時代に移り、今は情報スキマーの時代になっている。このことに疎いと道を誤る。

クレジットカード情報を電子的に盗み取るのは「スキミング」。この“skimming”“skim”という動詞から派生している。「すくい取り」という意味だ。ここでは、「情報スキマー(skimmer)」は「情報をすくい読みしたりざっと読んだりする人」という意味で使っている。ラベルだけをちらっと見る。あるいは情報の上澄みだけを掬う――そんな感じである。人は大量情報の「湯葉」だけを食べるようになっている。

ちなみに速読のことをスキミングと呼ぶこともある。よく知られているスキャン(scan)もスキャニング(scanning)とかスキャナー(scanner)として使われるが、これにも「ざっと読む」という意味はある。しかし、もともとは「詳細に念入りに読み取ったり調べたりすること」なので、ぼくの考えるニュアンスを誤解なく伝えてくれるのはスキマーのほうである。


顧客と商品・サービスの間には必ず何らかの情報が介在する。情報は文字とはかぎらない。色・デザインや人の声・顔かもしれないし、状況や空気かもしれない。動機の有無にかかわらず、顧客は何らかの情報を知覚し、その情報を通じて商品やサービスに心理的に反応する。かつて顧客はこうした情報をよく吟味した。今夜のおかずをイワシにするかサンマにするか。そのような、一見どちらでもよさそうなことを決めるのに想像力と時間を使った。そう、購入決定に際して十分に「品定め」をしていたのである。

ところが、すでに大多数の読者がタイトルと帯で本を選ぶように、顧客は自分と商品・サービスの間の情報をスキムする。わずかに一瞥するのみである。にもかかわらず、情報を仕込む売り手のほうは、顧客がじっくり品定めをしてくれるものと信じて情報をふんだんに編集し流している。売り手の発想は、実に何十年も遅れている。

根本的な原因は、すでに古典と形容してもいい「顧客の絞り込み」が未だに十分におこなえていないことだ。顧客は多様化した。老若男女向けや不特定多数向けの情報など、ない! こんなことはみんなわかっている。だが、「どの顧客に対して商品・サービスのどの便益をピンポイントでマッチさせるのか」――このようにポジショニングすることに潔くないのである。やっぱり顧客を広げたがるし、便益をついつい欲張る。その結果、仕掛けた情報が埋もれ認知されない。こんな愚が繰り返されている。