はい、いいえ、わかりません

きわめて限られた場面での話である。どんな場面かと言うと、仕事の現場や会議での意見のやりとりである。たとえば誰かが何かを主張する。その主張へはおおむね「同意する」「同意しかねる」「何とも言えない」の三つのリアクションがある。あるいは、誰かがその主張に対して「~ですか?」と質問する。この場合も、「はい」「いいえ」「わかりません」の三つの応答が考えられる。話をわかりやすくするため、後者の応答パターンを取り上げる。

「あなたは仕事をしていますか?」への応答は「はい」か「いいえ」のどちらかである。「わかりません」は考えにくい。「シゴト? ワカリマセン」と外国人が答えるケースは無きにしもあらずだが、質問の意図がわかる人なら「はい」か「いいえ」で答える。「わかりません」が返されるのは、「あなたは仕事が好きですか?」の場合。「仕事はしているが、好きかどうかがわからない」または「仕事をしたことはないので、好きかどうかがわからない」のなら、「わかりません」と答える以外にない。

問いかけが、たとえば「以上の私の提案に対して、賛否と理由を聞かせてほしい」という、少々議論含みになってはじめて三つの反応の可能性が生まれる。そして、答える人は「はい」「いいえ」「わかりません」と方向性の表札を示し、しかるのちに理由を述べる。意見交換のあとに表札を変えてもいいが、理由も明かさないまま表札を「いいえ」から「はい」へ、「はい」から「いいえ」へところころと変えるのはよろしくない。なお、「わかりません」には理由はいらないという意見もあるが、そうではない。「わからない」だけで済ますのは「関与しない」と受け取られかねない。「わからない」と答えても、「何がわからないか」を説明する責任を負うべきだろう。


現時点でわからないことは、どうあがいてもいかんともしがたい。だから、「わからないこと」を素直に「わかりません」と答えるのを躊躇することはない。むしろ、下手に見栄を張ったり背伸びしたりしてまで「はい」や「いいえ」で答えてしまうと逆に問題を残してしまう。但し、何かにつけて「わかりません」を繰り返していると、「なんだ、こいつは! バカの一つ覚えみたいに……」ということになり、頼りないプロフェッショナルとの烙印を押されてしまう。もちろん、意見のやりとりを前提とする会議のメンバーとしての資格もやがて失うことになるだろう。

誰だって、プロフェッショナル度が高まるにつれ、「はい」か「いいえ」かの二者択一のきつい局面で決断することを求められるようになる。かと言って、毅然とした空気を全身に漲らせて「はい! いいえ!」と力むこともない。決死の覚悟になるから、意見撤回できなくなるのだ。軽やかに「はい」または「いいえ」を明示して、思うところを素直に語ればいいのである。  

三つのリアクションの他に、実はもう一つ、どうしようもない、論外のリアクションがある。それは「無言」だ。無言は「いいえのひねくれた変形」。黙秘も法律上はれっきとした権利だが、共通感覚的には印象が悪い。ぼくの経験では、ダンマリを決め込む人間のホンネは「ノー」である。ホンネが「イエス」ならば、ふつうは「はい」と表明するものである。もちろんイエスマンもいるし、儀礼的な「うなずき」もあるが、黙っている者はそのいずれでもない、「陰のあるレジスタント」だ。なお、複数回繰り返す「はい」と「わかりました」には注意が必要だ。ともに「承っておきます」というニュアンスに近い。