幸せに形はあるか、ないか(2/3)

幸福について、一昨日書いた文章ではカミュ、ジイド、アリストテレスの相互参照ができた。こんなふうに記憶を辿ってリファレンスを見つけると愉快な気分になる。書いたり話したりする醍醐味の一つである。そして、いつだって愉快なことは幸せなことなのだ。その幸せを「ほら、これが幸せだよ」と言って人に見せることはできないし、手に取って確かめることもできない。

幸福というのはつくづく不思議な概念である。世界のどこかにオアシスやパラダイスのような具体的な形として存在しているものではない。自分の外を追い求めても幸せが見つかる保証はない。チルチルミチルの青い鳥を持ち出すまでもなく、幸福――または幸福の象徴――が自分の手の届くところにあったりすることをぼくたちは知っているはず。いや、あるとかないとか、見えたり見えなかったりするのではなく、幸福とは感じるものにほかならない。ただ感じるのみ。幸福の真のありかは、おそらく感じることの内にしかない。

幸福論から敢えて少し脱線することにする。次の文を読んでほしい。

Aを達成するために、Bを講じる」

この文章が妥当ならば、対偶の関係にある「Bを講じないなら、Aを達成できない」も妥当である。簡略的に言えば、「Bがなければ、Aはない」ということ。Bが原因(手段)でAが結果(目的)という構造であり、BAに先立って「行動手順的に重要」であることを示唆している。しかし、見落としてはいけないのは、Aという目的を定めなければBに出る幕などないという点。つまり、「構築手順的に重要」なのはAのほうなのである。戦略や政策の構想につきまとう悩ましい問題だ。


上記の「Aを達成するために、Bを講じる」の具体的な例として、くどいが、もう一文。

「知を広げるために、本を読む」

「知を広げるという目的のために、本を読むという手段を講じる」のだが、すでに明らかなように、これは「本を読まなければ、知を広げられない」をも意味する。ここであることに気づく。ぼくたちが目的と呼んでいるものは、ある手段によって獲得する価値でもあるということだ。知を広げるという目的は、本を読むことによって得られるメリットでもある。

では、「本を読むために、知を広げる」は成り立つか。たいていの人にとって成り立ちそうにない。なぜなら、行動手順的には《本を読む→知を広げる》が正しく、また、読書というものは何かそれよりも大きな目的のための手段にすぎないと、多くの人が考えているからである。けれども、「本を読むために、お金と時間をつくる」なら承認するだろう。この時、本を読むは目的であり、お金と時間によって得られる価値になっている。

話を幸福に戻してみる。お金と時間をつくる、本を読む、知を広げる……これらは何のためなのか。「人生や人間関係を豊かにするため」と答えた瞬間、大きな目的を語ったことになる。大きな目的は大きな価値である。さっきメリットとも言った。でも、価値とかメリットというのは、やっぱりその先に何かが想定されている。それが幸せなのだろう。そして、おそらくすべての営みは幸福につながろうとしている。幸福は価値でもメリットでもなく、その向こうに何もない。すべては幸福止まり。もしそうであるならば、いつでも幸せだと感じればいいだけの話である。 

《続く》