この話、すべってるのか、すべってないのか……(後編)

広告論第2講の当日、女子大に向かう前にデパートのフルーツ売場に寄った。「イチゴ」を買うためである。自分の責任ではないものの、第1講の遅刻は失態だ。遅刻に言い訳はきかないし、そのマイナスを消し去るのは容易ではない。マイナスを消してなおかつプラスに転じるためには、裏ワザを使わねばならない。それが「イチゴ」であった。女子大生の数だけイチゴを買った。よく覚えていないが、40個とか50個という単位だったと思う。
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〈苺一絵〉 Katsushi Okano
「今日は広告表現に先立つコンセプトの話をします。コンセプトとは概念であり、そのモノの特徴をかいつまんで簡潔なことばで言い表わすものです。たとえば……」というような切り出しで講義を始めた。だが、コンセプトをひねり出すのはこんな簡単なことではない。経験を積んだプロでも苦労する。そこで一計を案じ、初学者のためにモノを自分なりのイメージで表してもらうことにした。
何のことはない、持って行ったイチゴを女子一人に一個ずつ配り、そのイチゴを下手でもいい、写実的でも印象的でも抽象的でもいい、とにかく自分なりにノートに描かせるのである。大粒のイチゴを紙袋から出して見せた時点で、歓声が湧き上がる。静まるのを待って、おもむろに「今から遊び心で広告コンセプトを勉強します。イチゴを一人に一個配ります。課題が終われば食べてもいいです」と告げた。再び、歓声が上がった。

同じイチゴはない。すべてのイチゴは総称的にイチゴと呼ばれるが、一つ一つ違っている。いま目の前に配られたその一個のイチゴにしても、置く場所によって光の当たり方が変わる。描き手がどんなふうに見るかによってもイチゴのコンセプトは変わる。学生たちはしばし神妙にイチゴを眺めていた。これほどイチゴを凝視したのは人生初めての経験に違いない。やがてあちこちで鉛筆が動き始める。描き上がったら隣同士で見せ合うようにと言ったので、終わった人たちの間から会話が始まる。
全員が描き終わり会話も静まったのを見計らって話し始めた。「今日皆さんに配った本物のイチゴは、判別するのがむずかしいほど、どれもこれも似ています。しかし、スケッチされたイチゴは現物のように無個性ではなく、みんな特徴があって違っていますね。ただのイチゴに観察者の個性が反映されて、一つ一つにコンセプトが生まれたのです。同じイチゴをいま食べずに持ち帰ってもう一度描いてみると、また別の表情が浮き上がってくるでしょう。」
「いやだ、いま食べた~い」とあちこちで声が上がる。「いいでしょう。どうぞ」とおあずけを解除。おそらく講義中に容認された初めてのデザートタイムだっただろう。しかし、これで終わるわけにはいかない。「いいですか、皆さん」と騒がしさを制して黒板に向かった。「一つのイチゴを描く人、つまりコンセプトを編み出す人は、その時にふさわしく、しかもその時に限定される一枚の絵を描かねばなりません。それを《苺一絵》と言います。そう、まさに《一期一会》なのです」と締めくくった。全員がポカンとして静まり返った。
講義室を出た直後、助教授が近寄ってきて言った。「とても感動的な講義でした。広告っておもしろい。でもね、岡野さん、彼女たちが一期一会という四字熟語を知っていたら、ぼくらも普段の講義で苦労しませんよ」。そして「はっはっはっ」と高笑いした。逆説的だが、この日ぼくは、学び手のレベルに決して妥協するまいと心に誓った。今日のような話へと学び手を引き上げなければ教育は劣化すると思った。ちなみに、ぼくは第3講については何を話したのか、まったく覚えていない。

知ると知らぬは紙一重

先週「なかったことにする話」を書いてから、しばらくして「ちょっと待てよ。もしかして誤解されているのではないか」という思いがよぎった。実は、何かをなかったことにする裏側には、何かを重宝がるという状況があることを言いそびれてしまったのである。たとえば、「なかったことにした情報」の対極には「偶然出合った情報」がある。ぼくたちは、日々膨大な量の情報をなかったことにし、ごくわずかな情報だけに巡り合っている。

出張でホテルに泊まる。チェックイン時にフロントで「朝刊をお入れしますが、ご希望の新聞はございますか?」と聞かれることがある。ぼくの場合、自宅やオフィスで購読しているのと違う新聞を指名する。一昨日の夜もそう聞かれたので、ある新聞を指名し、その朝刊が昨日の朝にドアの隙間から室内に届いていた。そこにおもしろい記事を見つけた。そして、ふと思ったのだ、「今日自宅にいたら、この情報に出合わなかったんだなあ」と。

こんな時、情報との縁を感じる。いや、そう感じるように「赤い糸」をってみる。この一期一会の瞬間、大海を成すようなその他の情報はどうでもよくなる。もちろん、こんな感覚は次から次へと読書をしている時には湧き上がってこない。仕事で情報を追いかけねばならないときは知に対して貪欲になっているから、情報の希少性が低くなってしまっている。やや情報枯渇感があるからこそ、一つの情報に縁を感じるのだ。欲張ってはいけない。情報を欲張りすぎても、つまるところ、個々の情報の価値が薄まるだけなのだろう。


一昨日新幹線で読んだ本の一節――「言葉をないがしろにすれば、そのしっぺ返しがくるのは当然 (……) 貧しい仕方でしか言葉と接触しなければ、『ボキャ貧』になるのは当たり前」。これがぼくの持論と波長が合ったので下線を引いておいた。

8月と9月に私塾で「ことば」を取り上げるので、上記の一節は身に沁みる。特別な努力を払わなくても、誰もがことばをそこそこ操れる。これが、まずいことになる。何とか使えてしまうから、ことばをなめてしまうのである。それはともかく、このことをずっと考えながら、昨日の夕方に書店に立ち寄り、ことば論とは無縁の、ふと手に取った一冊の本の、これまたふとめくったページの小見出しに「言葉の不思議な力」を見つけてしまったら、縁の糸が真っ赤に染まるのもやむをえない。立ち読みせずに買って、いま手元にある(縁で巡り合ったが、何度も読み返せるのでもはや一期一会ではないが)。

隣りの一冊を適当に繰ってみたら別の情報が目に飛び込んできたのだろう。もしかすると、そこにも別の縁があったのかもしれない。新聞にせよ本にせよ、ある情報を知るか知らぬかは、文字通り紙一重だ。間違いなく言えることは、知りえた情報は存在したのだが、知りえなかった情報はなかったことにするしかない。なかったことにする潔さが、紙一重で知りえた情報を生かすことになる。個々人における知の集積は、気の遠くなるような無知を後景にした、ほんのささやかな前景にすぎない。縁の情報がその前景に色を添えてくれる。