自分を棚に上げる風潮

「棚に上げる」には二つの意味がある。「無視したり放っておいたりおろそかにする」のが一つ目。このニュアンスが転じて「不利なことや不都合なことに触れない」という二つ目の意味になる。好ましくないことを論じながら、その好ましくない対象に自分を含めない―これが「自分を棚に上げる」ことだ。

息子がのべつまくなし酒を飲む。それを見かねて「おい、酒の飲みすぎはいかんぞ!」と父親が注意を促す。「アル中のオヤジに言われたくねぇよ」と息子が反発する。さて、アル中の父親は自分のことを棚に上げて息子に注意をしてはいけないのか。あるいは、言行不一致なこの父親に息子はこんなふうに反論していいものか。

机上議論的に言えば、オヤジは自分のことを棚に上げて息子に説教してもよいのである。言論に理があるならば、その言論を唱えているオヤジがどんなに行動的にダメオヤジであっても言行不一致な生き方をしていても、言論は有効である。このオヤジが街頭で「通行人の皆さん、酒は控えめに! 過度の飲酒はアルコール中毒を引き起こしますぞ!」と一般論をぶち上げても矛盾にはならない。むしろ議論に個人の人格や性向や習慣を持ち込み「合せ技で一本」を取るような論駁のほうが反則である。

ところが、実社会の論争では、説教めいた主張に対しては「あんたにだけは言われたくない」「お前が先に直せ」と反論するのは当たり前。遅刻を戒める社長だが、その社長自身には遅刻厳禁ルールが適用されていない。まさに「己を棚に上げている」状況である。面と向かって社長批判は出ないだろうが、陰ではダメ社長をこきおろす。


一般論を語るとき、謙虚に自分をその中に含めることができる人は稀である。「われわれ日本人は」と言いながら、自分だけは別の扱いをしている。プラスの価値を論うときは自分も含めることもあるが、マイナスの価値の話になると自分を含まない。たとえば「日本人は危機管理が甘いよ……(オレを除いて)」という具合だ。この都合のよい己の扱いも相当に甘い。

「お正月、芸能人はこぞってハワイです。猫も杓子もです」と現地から中継している芸能レポーターも甘い。彼または彼女は自分も一種の芸能人であることを忘れてしまっている。「芸能人、猫も杓子も」から自身だけを要領よく除外している。このように、自分を棚に上げての話が昨今よく目立つ。自分だけ例外の評論だ。「どいつもこいつもアタマが悪い」と下品に嘆く知り合いは自分を棚に上げているが、ぼくは「おなたがその筆頭ですよ」と内心つぶやいている。

「自分は皆とは違う」という前提で誇り高く論じるためには、言動に支えられた確固たる自信の裏打ちが必要だ。いつもいつもこんな高邁な精神で生きることなど到底無理であるから、ぼくは時々自分を棚に上げてしまう。しかし、自分を棚に上げるという面倒なことをせずに、自分もその他大勢と同じだと認めてしまえばいいのだ。それでもなおかつ自他両方への批判は可能である。自分を棚に上げない潔さが議論の邪魔になるはずがない。