便利が奪ってしまうもの

便利と不便について考える機会が増えてきた。このブログでも十数回は取り上げたように思う。ぼくの基調となる考えは、意識的に「インコンビニエンス(不便)を生きる」ということに尽きる。便利によって得たものと失ったものの収支は便利の恩恵を受けている――少なくともそう錯覚している――あいだはわからない。結果がすぐに見えればぼくたちも少々の修正を加えるが、便利の副作用はすぐには現れない。気づいた頃には手遅れということが大いにありうる。

便利のお陰で身につく能力と、不便ながらもどうにかこうにか身につける能力には甘辛あまからの度合にだいぶ違いがある。便利はおおむね「らく」と「スピード」を目指す。「イライラしないで気持よく」と言い換えてもいい。しかし、こう言った瞬間すでに破綻を来たしている。便利な自動車は便利な高速道路で渋滞してイライラと不快を招く。その結果、ドライバーたちは大いに不便を感じたりしている。ならば、始めから不便を生きれはいいではないか。

昨夜のらりくらりと本を読みながら、時折りなまくらにテレビの『エチカの鏡』を覗いていた。例のマイケル・サンデル教授のハーバード大学での講義「ジャスティス」の場面を写していた。その後は大学生のディベートに取り組む模様であった。これもちらほらと見る程度。この種の番組はぼくのテーマへの追い風になるはずなのだが、あまり手離しで喜べない。カリスマ講義もディベート技術も本来とてもきついことを題材にしているにもかかわらず、学び手のノリがコンビニ感覚で軽々しい印象を受けることがある。


サンデル教授の投げ掛ける問いはこうだ。「暴走列車を運転するあなた。このまま進めば5人を轢き殺してしまう。だが、列車を右に逸らせば、そこにいる作業員一人は犠牲になるが5人は助かる。あなたならどうするか?」  この質問に答えはない。要するに、自ら考えることに意義がある。結論を下してその論拠を説明するトレーニングなのだ。「解答は必ずしも存在しない」のはもはや明白だから、特別に目新しい話ではない。

一部の学生の解答が紹介されたが、他にどんなものがあったのか興味津々である。便利生活で飼い慣らされたという点では日米ともに大学生に大差はないように思える。この程度の質問のある講義を絶賛するようでは、わが国の教育のありようを嘆くしかない。ぼくの私塾ですらハーバード大学よりも難しくて答えのない設問を用意している。ちなみに、暴走列車を運転するぼくは余計なことをせずに真っ直ぐに進む。線路上の5人のうちわずか一人でも暴走列車の轟音に気づくほうに期待する。

今朝の朝刊で新刊予告の広告。『デジタル教育は日本を滅ぼす』(田原総一朗)には、「便利なことが人間を豊かにすることではない」とある。その横の広告は『頭脳の散歩 デジタル教科書はいらない』(なんと田中眞紀子と外山滋比古の共著)。ぼくがこの二冊を買い求めることはないだろうが、デジタル化と便利(あるいは促成)が教育のキーワードであるのは間違いない。便利が奪ったものは何なのか? ことばの力と考える力である。この意味で、答えの定まらない問題を解くのもディベートもデジタル教育よりはすぐれた処方箋と言えるだろう。しかし、肝心要は日々の生活場面だ。不便に戻って、段取りと機転の工夫をする習慣形成こそがはじめにありきなのである。

〈インコンビニエンス〉を生きる

昨日使った「愚者と知者」の対義語関係もしくは二項対立に違和感が残ったかもしれない。ふつう愚者とくれば「賢者」である。ところが、この賢者、人生の摂理や宇宙の哲理を悟りきった隠遁的存在を漂わせてしまう。愚かな者という表現を素朴で軽い気持で使っているから、賢者よりもうんと身近な知者にした次第だ。バカに対して「賢くて知恵のある人」という意味合いである。

本題に入る。愚者と知者を分かつ一線、それは知識・学問でもなければ度量でもない。知識豊富かつ学問に秀でている愚者がありうる。また、度量という懐の深さや大らかさが知者を確約するわけでもない。人は、便利から過剰に受益し安住することによって愚者となり、不便と戦いながら何とか工夫をしようとして知者となるのである。したがって、一人ひとりが、時と場合によって、バカになったり賢くなったりする。

〈コンビニエンス〉を指向すればするほど、ぼくたちは愚かさを増す。この反対に、不便・不都合・不自由の〈インコンビニエンス〉を受容して改善したりマネジメントすることによってぼくたちは知恵を発揮する。コンビニエンスに胡坐をかくよりも、インコンビニエンスと共生するほうが賢くなるということわりである。だが、注意せねばならないのは、インコンビニエンスをコンビニエンスへと変えようとする知は、コンビニエンスの恩恵に浴しようとする魂胆に支えられている。すなわち、知者は愚者へと向かうべく運命づけられているのだ。便利から不便へとシフトする人間がめったにいないのは、愚者から知者への変容がたやすくないことを示している。


ホモ・サピエンスの考古学的歴史を辿れば、不便や欠如が知恵を育んだことは明らかである。困惑が工夫を生む。粗っぽい事例で恐縮だが、獣に襲われたり食糧が腐敗する不都合が「火」を生み、草食動物を巧みに狩猟できないから「犬」を訓練して猟犬とし、農作によって貯えた小麦や米がネズミに食われるので「猫」を飼い始めた。もちろん、諸説いろいろあるが、あることがうまくいけば別のまずいことが発生し、そのつどアタマをうんと使ったに違いない。環境の変化がつらい、だから適応しようとして進化する。つまり、インコンビニエンスが人類を知者へと導いた。

同時に、知恵を絞り苦労して手に入れたコンビニエンスも増大してくる。もちろんさらなるコンビニエンスのために知力が増進することもあるが、不便な環境に汲々として捻り出す知力には及ばないだろう。言うまでもなく、不便だから便利にしようというのは後付けの話である。決して初めに不便ありきではない。たとえば、電話のない時代、不便はなかった。電話に関して不便を感じたのは、町内のどこかの家が電話を設置して隣近所の取り次ぎをしてくれるようになったからだ。取り次ぎするのも面倒、取り次がれる方も気を遣う。というわけで、日本電信電話公社にこぞって加入するようになり、時代が便利になった。

公衆電話や自宅の電話は十分に通信を便利にしてくれた。携帯電話がない時代、不便はなかった。しかし、どこかの誰かが携帯を発明してコンビニエンスをもたらした。するとどうだろう、電池が切れた、携帯を自宅に置いてきたなど、携帯が使えない状況になったとたんに不便が発生してしまう。携帯に慣れ親しんだ人間は立ち往生し、愚者であることを露呈する。携帯のなかった時代、ぼくたちは緻密なことばを交わして時間と場所の約束を取り決めた。携帯を手にした今、「10時に京都駅。着いたら携帯に電話ちょうだい」でおしまい。言語の知だけを見ても衰えているのは明らかだ。

賢くなりたければ、コンビニエンスに依存しないことである。時々意識的にインコンビニエンスを生きてみる。すぐに答えを見ないで、難問を解こうと試みて知を使う。絵文字でメールを送らずに、じかに会って思いを伝えてみる。コンビニエンスへとひた走る現代、愚は知よりも強し。ゆえに、ゆめゆめ油断することなく、知を以て愚を制しなければならない。インコンビニエンスを生きることが、一つの有力な方法である。