愉快な名言格言辞典

レストランのメニューは勝手に決まらない。何がしかの意図に基づいて決まっている。その意図を〈編集視点〉と呼んでみると、同じようなことが辞典にも言える。辞典のコンテンツも適当に決まるのではなく、特殊な知識や文化などを背負った編集者が、ある種の編集視点からコンテンツを取捨選択している。
名言や格言、ことわざの類に大いに関心があったので、若い頃からいろんな書物や辞典を読みあさってきた。ただ、箴言しんげんというものはおおむね単発短文であるから、覚えてもすぐに忘れてしまう。記憶にとどめようとすれば、文脈の中に置いたり他の概念と関連づけたりする必要がある。しかし、別に覚えなくても、手元に置いて頻繁に活用していれば、自然と身につくものだ。

国語辞典の定義や表現にも編者の視点が反映されるが、名言格言ではさらに顕著になる。「世界」と銘打てばなおさらで、日本人が拾ってくる名言格言はフランス人のものと大いに異なる。写真の辞典はフランス人が編集したもの。索引を拾い読みするだけで、ぼくたちの発想との類似と相違が一目瞭然である。
まずギリシア、ラテン、聖書由来がおびただしい。中国・インド・アラビアがたまに出てくるが、この辞典の世界とは「西洋世界」と言っても過言ではない。それはともかく、おもしろいのは「各人は自己の運命の職人」というような長たらしい見出しが独立しているという点。名言格言をこの見出しにするとは、かなり主観的な視点と言わざるをえない。
「神」にかかわる名言格言はきわめて多い。「神」と「神々」を分けてあるし、「神の正義」という独立の項目もある。「ぶどう酒」に関する名言もさすがにいろいろと収録されている。「前払いをする」という項目は日本の辞典ではありえないだろう。
見出しの項目だけでも、日本人と西洋人の編集視点の特徴が見えてくる。ぼくたちにとって後景と思えるものが前景になっている(その逆もある)。世界というものへの視点がきわめてローカルだということも勉強になる。

時代のフレームと想像力

かつてポンペイの遺跡に佇んだとき、歴史の不思議に感懐を抱いた。13世紀から16世紀に生きたルネサンス人たちは、この遺跡のことを知らなかった。ポンペイがヴェスヴィオ火山の噴火によって火山灰に埋もれ「史実から消えた」のが紀元前79年のこと。そして、この遺跡が発見されたのが1599年、すでにルネサンスは余燼期に入っていた。しかも発掘が始まるのは150年後の18世紀半ばだ。さらには、遺跡の全容が解き明かされたのは20世紀に入ってからである。

ルネサンス人の過去になかった出来事が、現代のぼくたちの過去に刻まれることになった。まったく当たり前のことなのだが、ある時代に生きて別の時代に生きていないことを、「そんなもの運命だ」と片付けるだけでは想像力不足かもしれない。

知識ジャンルの広さと情報量に関するかぎり、平均的現代人は古代から中世のどんな偉人たちをもはるかに凌いでいる。彼らが一生に出合った情報量を、おそらくぼくたちは数日のうちに浴びている。ただ、思考力や洞察力は必ずしも情報量に比例しない。先人たちを圧倒する知の巨人が次から次へと出現しないところを見ると、どうやら現代人は日々接している情報を上手に吸収して知として蓄えていない様子である。


フランシス・ベーコンだったと思うが、古代ギリシア人がどんなに凄かったとしても地中海の小さな世界にいただけで、アジアや新大陸のことも知らない、世界三大発明の火薬、活版印刷、羅針盤を使ったこともない――というような批判をした。真意が「昔の一握りの知恵に縛られるな」だったのだが、「それを言っちゃおしまいよ」とついこぼしたくなってしまう。この論で言えば、いつの時代も過去人は現代人よりも料簡が狭いことになる。

先の先から見れば、過去のすべては、時代ごとのフレームに拘束された知識と情報の歴史に過ぎない。ところが、まったくそうではない。現代人が手も足も出ない想像力が何百年も何千年も前に発揮されたのである。たしかに当時の時代のフレーム内での想像だっただろう。科学万能の現代から見れば、稚拙な知識に基づく知恵だっただろう。だが、現代人も今の時代のフレームから逃れるわけにはいかない。つまり、彼らの生きた時代のフレームでものを見たり発想したりすることはできない。

情報都市に暮らして膨大な情報に接している日々。想像力は歴史上一等の輝きを見せているのか。過去人よりもたくましい創意をたずさえてよく考えているのだろうか。ぼくにはまったくそうは思えない。それどころか、情報に強く依存している分、自家製想像力は脆弱になってしまっている。情報活用スキルよりも情報に依存しないスキルが重要なのであり、「調べる癖」に負けない「想像する癖」を身につけるべきなのだ。古代ギリシア人よりもぼくたちのほうが世界の地理に詳しく知識も豊富だろうが、これはぼくたちのほうが〈世界〉をよく知っていることを意味するものではない。

タブー命題を封印してはいけない

誰から教わったのか覚えていないが、青年期から「政治と宗教」の話はタブーだと心得てきた。けれども、親しい友人となら平気でテーマにするので、いつでもどこでも絶対禁忌きんきと見なされているわけではない。政治や宗教とは無関係な、いろんな人々が集まる場や会合では、話題にしたり言及したりしないほうがいい、暗黙のうちにそうなっているのだから……というわけだ。議論やお喋り好きにとっては、舌に軽はずみをさせぬよう言い聞かせておくべき「禁じられたテーマ」ではある。

つまり、政治と宗教の両方に関わらない人たちにとって、「何かの席上」で論じることがタブーとされている。ところが、議員が政治と無関係の人たちに「政治」を語ることはタブーではなく、また僧侶が宗教と無関係の人たちに「宗教」を語ることもタブーではない。政治家にとっては「宗教問題」だけがタブー、また宗教家にとっては「政治問題」だけがタブーになっている。なぜぼくたちは、いずれのテーマもタブーとして封印しなければならないのか。


十数年前、ディベートの論題を決める際に上記のことが問題になった。政治や宗教の論題はやめるほうがいいというのが多数であった。多数意見を前にすると俄然ノーを突きつけたくなるぼくだ。強く主張した。

「ディベートは『論争のシミュレーション』、誤解を恐れずに言えば、ある意味で『議論ごっこ』なのだから、目の色変えて本気になってもらっては困る。アメリカでは『堕胎の是非』や『黒人生徒への学校の開放』のようなテーマも取り上げていた。極論すれば、どんなテーマでもよいはずだ。」

誰に睨まれようと、今もこの考えに変わりはない。タブー性の高い命題を互いに了解したうえで、議論好きの親しい人間どうしが集まり、たとえ口論寸前の過激なムードになっても咎められることはないはず。それがオープンなディベート勉強会という形になって、何かの拍子で第三者や報道関係者に公開されることになったとしても、ぼくは「見えざる世論」に遠慮することはないと思っている。

政治と宗教のみならず、タブーとしていったん「禁」のラベルで封印されると、どんな話題も公然と論議のマナイタに載せにくい。腫れ物に触らぬよう扱われているうちに、やがて社会的良識から乖離して「治外法権」へと逃げていく。もとより論議という関与しかできないぼくたちにとって、治外法権という温床に鎮座する禁忌命題はまったく手に負えなくなってしまう。そしてよりも深刻なのは、健康、病気、身体的特徴などタブー命題コレクションがますます増えつつあるという事実なのだ。クールに凝視して取り上げ、時には怒りながら、時にはわらいながら、論うことを忘れてはいけない。


油断していると、タブーは日常茶飯事の領域にまで忍び寄ってくる。タブーを侮ってはいけない。人間はタブー発言を耳にすると結束する習性を備えているのだ。「マスクなんてしなくてもいい」とか「マスク求めてドラッグストアに並ぶ連中の気が知れない」とか「インフルエンザにかかったら罹ったでしかたがない」とか、ゆめゆめ公言してはならない。世論が一斉にある方向に向かっている時は流れに逆らわないのが賢明なのだ。そして、やがてこんな弱腰が「異様なほど生真面目でおもしろくない社会」をせっせと築いていくことになる。世界から「ニッポンの常識は世界の非常識」とまたまた揶揄される。ついさっき、ある英文ニュースで「日本は戦争中だ。敵は新型インフルエンザ」というのがあった。案の定だ。

オイルショック当時、トイレットペーパーを買い漁る連中をバカにしたら何十倍もの非難を浴びせられた。後年、誰が愚かであったか、いずれに理があったかが自明になった。「言うべきこと」と「言うべきでないこと」を現在進行形の渦中で判断するのはむずかしい。しかし、結果がどうであれ、何でも言っておくことがマイナスになるとは思えないのだが、この考えは危険なのだろうか。