どっちが正しいのか?

ランチタイムに来客があるのでご馳走するとしよう。オフィスから歩いて数分圏内にしたい。初めての人にお薦めの店が二軒あり、一つは中華、もう一つがフレンチだとしよう。どっちが正解か……。こんなことを真剣に考える人が現実にいて驚いてしまう。しかも、なかなか結論が出ずに心底悩むらしいのである。ランチ接待というテーマに「正しい・間違い」などあるはずもない。結果は「気に召したか召さなかったか」のどちらかで、正しかったか間違いだったかではない。

最初から来客自身に聞けばいいではないかという意見もある。「この辺りにはまずまずの中華料理店とビストロがあるのですが、どちらがいいですか?」と聞く。なるほど、手っ取り早い方法だ。しかし、ぼく自身のもてなす側の経験上、相手はほとんどの場合「お任せします」と言う。また、もてなされる側としての経験に照らし合わせても、「お任せします」と言うほかない。相手に気もお金も遣わせてはいけないと思うからである。したがって、相手の好みを尋ねるのも芸がなく意味もない。

考えて悩んで答えが出るものと、そうでないものがある。そして、大半の考えごとは正否の次元で片付かない。ランチメニューを前にして少考することはある。時に決めあぐねることもあるが、それは悩みなどではなく楽しみの一つだ。書店で本を選ぶ時も同じ。ポケットマネーの範囲内だから、二冊の取捨に迷ったら両方買えばいい。しかし、それでは面白味がない。何も考えずに両方買うのではなく、二者択一という条件を自分に課すのは一種のゲームとして実に楽しいのである。これとは違って、来客をどんなランチでもてなすかはほとんど直感であってよい。来客の嗜好を知らないのならなおさらで、極端な話、自分の食べたいほうを持ちかければよろしい。繰り返すが、そこに正しい判断などないのである。


ラッセルとホワイトヘッドは共著『プリンキピア・マテマティカ』で「1+1=2」を証明するのに700ページを費やした。これだけ念には念を入れたのだから、どうやら「1+1=2は正しい」と言えそうである。しかし、これを正しさの基準にすれば、世の中は正しくないものの集合でできているようにも見えてくる。「我思う、ゆえに我在り」のようなスーパー名言でさえ、1+1=2の正しさの足元にも及ばない。「我語る、ゆえに我在り」というぼくの創作もデカルトの名言も、怪しさにおいてはいい勝負ではないか。

ここで一つ問いかけてみたい。ABのいずれが正しいのだろうか。

A 他人のことはよくわかるのに、自分のことはわからない。
B 自分のことさえわからないのに、他人のことがわかるはずもない。

哲学命題としてはおもしろいが、現実問題としては深く考えるまでもない。ABのどちらが正しいかなど永久にわからないのである。それどころか、正しい・間違いという尺度を持ち込めるのかどうかも疑わしい。ぼくはAを実感することもあれば、誰かに相談されるときに強くBを主張したくなることもある。実感したからと言って、正しいと確信することなどできそうもない。確かなことは、ABも経験したことがあるという点だけである。

先の土曜日に、審査員を対象としたディベートの勉強会を実施した。12月中旬に大学生によるディベート大会が開催されるが、その論題《大学は主として実社会適応力を習得する場である》の解釈と分析、簡単な立論による練習ディベートをおこなった。ここでも、油断するとつい事の正否を問うてしまうのである。このテーマは定義命題であり、大学というものの役割論・ポジションを争点とする。ゆえに、肯定側に立てば「大学を実社会適応力習得の場」と解釈し、否定側に回れば「そうではない」と反論するロールプレイを演じるのである。「どっちが大学の正しい姿?」などと真理のありかを問うても答は出てこない。

「どちらが正しいのだろうか?」という問いは、ぼくたちが想定するほど有効ではなさそうだ。そう尋ねてまじめに答を編み出そうと四苦八苦しても、あまり思考力が高まることもなく、また意思決定や問題解決がうまくいきそうもない。むしろ、どうあるべきかと考えて自分なりに意見を導き、その論拠を組み立てて他者に説明するほうがトレーニングになりそうである。

問いは思惑を表わす

あることについて問いは理屈上いくらでも立てることができる。たとえば天気に関してなら、「今日の天気はどうなりますか?」と聞いてもいいし、「今日は晴れますか?」や「今日、雨は降らないですね?」と尋ねることもできる。答える側の答えが「晴れ」に決まっていても、これらの問いの形式に応じて答えの形式は変わってくる。「どうなりますか?」に対しては「晴れるでしょう」か「いい天気になりそうです」だが、「晴れますか?」にはふつう「はい」であり、「雨は降らないですね?」と聞かれれば、「ええ、天気だと思います」となるだろう。問いも答えもバリエーションが他にもいろいろありそうだ。

余談になるが、日本語では問いの形式に忠実な肯定形や否定形で答えるのがふつうである。「あなたはXXXが好きですか?」という肯定疑問文に対しては「はい」が好き、「いいえ」が嫌いになる。「あなたはXXXが好きではないでしょ?」という否定疑問文に対しては、「はい、好きではありません」あるいは「いいえ、好きです」のような変則的応答をすることが多い。ところが、英語圏の人々は、相手が「XXXが好きですか?」と聞こうが「XXXが好きではないですか?」と聞こうが、問いの形式には振り回されない。好きなら「イエス」、嫌いなら「ノー」とはっきりしている。

さて、答えの方向性と表現の形式は問い方によってコントロールされる。すなわち、問う側が応答領域を絞ったり膨らませたりできる。この意味では、すべての問いは「誘導尋問」にほかならない。相手に機嫌よく答えさせるか、それとも挑発して感情的に答えさせるか――問う側に技量があれば、意のままに操ることができる。「どちら様ですか?」と「何者だ?」の違いを比べてみればわかるだろう。いずれの問いにも一定した応答できるならば、答える側もなかなかの腕達者である。


もちろん、まったく見当もつかないことやまったく知らないことを尋ねる場合もある。答えの行方が見えないケースである。しかし、そこに上下関係がある時、そして上位者が問う側に立つ時、ほとんどの場合、上位者は自分の思惑を反映した問いを立て、自分の望む方向へと答えを導こうとする。警察官による不審者への職務質問や被疑者への取り調べ、人事部員による応募者の面接などは典型的な例である。

さらに、答えの概念レベルさえ規定することもできる。「出身の都道府県」を聞くか「出身都市」を聞くかは尋問者の裁量だ。「趣味は?」と聞くよりも「好きなスポーツは?」と聞くほうが限定的である(スポーツ音痴は後者の問いに困るだろう)。「その鳥は黒かったかね?」と尋ね、相手が「たぶんカラスだったと思います」と答えたら、「鳥の種類を聞いているのではない! その鳥は黒かったのか、と聞いたのだ!」と一喝する。答える側は「すみません。はい、黒でした」と言い直す。詭弁は問いにも使えるのである。

上位者の誰も彼もが悪意に満ちているわけではない。しかし、上位者の想像力の欠如ゆえに、質問それ自体が意地悪になることはありうる。本人は素朴に聞いたつもりだが、答えようのない問い、答えてもジレンマに陥らせるような問いを発してしまっている。「なぜこんな結果になったのかね?」などは頻度の高い問いだが、ほとんど答えようがない。「あまりいい結果ではなかったね?」「はい」「同様の結果は将来起こりうると思うかね?」「おそらく、あるでしょう」「一人で原因分析をして対策を立てられるかね?」「私一人では難しそうです」「では、誰の知恵を借りればいい?」……このような連鎖的問いと「なぜだ!?」という一発詰問との違いは自明だろう。

誰かがミスをした。あなたは彼を呼び出して問う。「どうしてこんなミスをしてしまったんだ!?」という尋問が生産的であるはずがない。責めを負う側が問われるときに「なぜ」や「どのように」に対して適切な答えを返すことはほとんど不可能なのである。おそらく二者択一型の質問のほうが答えやすい。だが、二者択一の質問は狡猾な手法にもなりうる。「きみのミスは故意によるものか、それとも無意識によって起こったものか?」 尋問者がジレンマの罠を仕組んだ問いである。二者択一ならば、「故意です」はありえず、必然「無意識でした」と答えざるをえない。しかし、どうして人は己の無意識を意識することができるだろう。「何? 無意識? それなら精神の病だな」と決めつけられてしまう。尋問者の思惑を読み切れば、正しい答えは「わかりません」である。瞬時にその答えを見つけるのは容易ではない。 

問いと答えの「真剣な関係」

面接でも会議でも対話でもいい。面接ならインタビューアーが、会議ならメンバーの一人が、対話ならいずれか一方が、相手や別の誰かに質問する。お愛想で、たとえば「元気?」などと尋ねる場合を例外として、それぞれがある意図をもって問いを発していることは間違いない。「なぜ当社を希望したのか?」は理由を聞いている。「問い合わせは何件か?」は事実を聞いている。

おなじみの〈5W1H〉は文章を構成したり企画を起こしたりするときの基本。これらWHOWHATWHENWHEREWHYHOWは質問と応答の関係にも当てはまる。これに「PQか?」というイエスかノーかで答える質問と、「PQのいずれか? 」という二者択一で答える質問を加えれば、すべての質問パターンが出揃う。「その愛犬の名前は?」と尋ねたのに、「わたし? ヨーコで~す」と返してしまったら、聞いた方の意図からそれてしまう。但し、その愛犬に付けられた名前が〈わたし? ヨーコで~す〉ならば的確な答えになっている。

PQか?」という二者択一型で問うているのに、「いろんな考え方があって、たとえばですね……」と切り出した瞬間、もはや答えになっていない。「はい(いいえ)」で即答し、許されるなら理由を述べればよい。「Aランチ? それともBランチ?」とご馳走してくれる相手が希望を聞いてくれたのに、「お任せします」は的確ではない。意図があって尋ねたのに、期待通りの答えが得られない―対話習慣に乏しく、質疑応答を御座なりに済ましているこの国では日常茶飯事の体験である。


今朝のテレビ。民主党の専門家が新型インフルエンザのテーマのもとゲスト出演していた。聞きたいことを街で拾ってきて質問する。「新型インフルエンザのワクチンはどこで・・・打てるのか?」と尋ねる。5W1HのうちのWHEREである。ところが、その議員はWHENを答えたのである――「若干遅れるかもしれませんが、本日から・・・・打てるよう手配をしています」。「いつから」とは聞いていない。場所を聞いているのだ。「場所? 病院に決まっている」とでも思ったのだろうか。「病院で打てるのはわかっているけれど、どこの病院でも、たとえば小さな医院でも打てるのか?」と聞いている意図を汲んであげなければならない。まさか居酒屋や駅の構内で打ってくれると期待して聞くはずがない。

「月曜日と火曜日にどれだけ仕事がはかどったのか?」と尋ねてみた。仕事については暗黙の了解があるので、これはHOWの問いである。しかし返ってきた答えは「水曜日に○○をやるつもりです」だった。この応答は質問に対する二重の「背信行為」になっている。月曜日と火曜日から別の曜日にWHENを転化し、おまけに聞かれもしていないWHATで答えたのである。「最近、社会の動きであなたが特に気づいたことは?」に対して、「先週□□という本を読みまして、社会現象としての△△が書かれていました」と答えてしまう無神経。WHATの意図に答えてはいるが、「あなたが気づいたこと」を知りたいのであって、「本に書かれていたこと」を聞いたのではない。

アタマの悪さも若干影響しているのだろうが、的外れの最大の理由は、(1)集中して質問を聞いていないこと、(2)不都合から逃げることの二つである。つまり、「いい加減」と「ずるさ」なのだ。こんなふうに対話を右から左へと流す習慣がすっかり身についてしまっている。講演会なら適当に話を聞き流してもいいだろうが、少人数の集まりや一対一のコミュニケーションでこんなていたらくでは能力と姿勢を疑われてしまう。質問一つで、答える人間がある程度わかってしまうのだ。質疑応答を真剣勝負だと見なしている硬派なぼくの回りから、厳しい質問を毛嫌いする「ゆるキャラ人間」がどんどん消えていく。それで別に困ったり寂しくなったりしているわけではないが……。

選択の向こうにある選択

別に難しい話を書くつもりはないが、難しい話になりそうな予感もある。

出張に行く時、2冊の本のどちらを持っていくか。悩むほどではないが、少し迷う。しかし、そんな迷いに意味がないことがすぐにわかる。文庫本ならどちらも鞄に入れればすむからである。次に店に入る。A定食かB定食か。まったく内容が違っていれば迷うことはない。しかし、焼鳥店のランチで8種類も鶏料理の定食があると選択は容易ではない。それでも、迷わない方法がある。メニューの最上段のみがこの店の定食であって、残りの7種類を「なかったこと」にすればよい。


一昨日松江で講演して、夜遅くに米子に入り深夜まで気心の合う人たちと談笑した。翌日、午前10時前にスコールのような集中豪雨があり、駅に行けば特急が20分遅れているという。岡山で乗り継いで新幹線で新大阪へ帰るつもり。岡山での乗り継ぎ時間が10分ほどなので、手持ちの切符ののぞみには間に合いそうもない。

ここで一つ目の選択の岐路に立つ。どうすればいいか? この米子駅で駅員に尋ねるか(A)、それともそのままにしておくか(B)。特急が遅れているから時間がある。〔A〕を選択した。「岡山発ののぞみには間に合わないが、別の列車の指定に変更してもらえるのか」と尋ねた。若い駅員は「はい」と答え、「特急が何分遅れるかわかりませんから、とにかく岡山に着いてから変更手続きしてください」(C)と付け加えた。そうすることにした。

名物あごの竹輪を2本買ったものの、手持ちぶさたなので改札を通ってホームに入った。ホームの最後列に行くと、遅れている特急にこの駅から交代する車掌が立っていた。念のためにこの人にも聞いてみた(この人に聞くか聞かないかも選択の一つ)。同じような答えならそれでよし。ところが、「支社が違うので連絡や調整に時間がかかる。岡山での乗り継ぎ列車もすぐには決まらない。まだ特急が来ないから、今すぐ「岡山-新大阪間」の切符を変更されたほうがいい」(D)と、まったく別のアドバイスが返ってきた。

ここで二つ目の二者択一の岐路。岡山で手続きするか(C)、それとも今すぐに変更するか(D)。〔C〕だと変更を先送りすることになる。〔D〕なら余計な心配は無用だ。しかも、さらに遅延するようなことがあっても、もう一度岡山で変更することもできる。〔D〕は〔C〕の対策をも含んでいる。ゆえに〔D〕を選択した。改札を出させてもらい、みどりの窓口で変更手続きをした。もちろん、同じ特急に乗車する人たち全員がその選択をしたわけではない。

結論から言うと、どっちの選択でもまったく問題はなかったのである。倉敷あたりで車内放送があり、乗り継ぐ新幹線の列車が告げられた。その列車はぼくが変更したのと同じであった。新大阪には当初予定よりもおよそ30分遅れで到着した。


別に命にかかわるようなことでもないのに、いったい何を選択しようとしていたのかと、ぼくは考えたのである。あることをを選択して別のことを捨てるのは、何か根拠があってのことだ。切符変更を今すぐにするのか、あるいは乗り継ぎの時点でするのか――この選択にあたっての根拠は何だろう。安心? 面倒回避? 時間があるから? いや、そもそもこの二つの選択に対峙するのは、いったい何のためなのか。この選択の結果、ぼくは「どんな未来を選択」しようとしたのか。気恥ずかしくなるような表現だが、ちょっとでも先の未来を考えるからこそ人は選択するのだろう。

実は、「遅れるのはやむをえないが、なるべく早く大阪には戻りたい」という目的をぼくは選んだのだ。そんなことは当たり前のように思えるかもしれないが、「遅れてもいいか。岡山でメシでも食って帰ればいい」という、表に出てこなかった選択だってありえたのである。そして、「なるべく早く大阪に戻りたい」という選択の向こうには、おそらく何らかの思惑なり目的があって、その思惑や目的も別の選択肢を捨てて選ばれたものに違いない。こうして、選択の連鎖は続く。ちょっと先の視点からぼくたちは現在を選んでいるのである。