「ケースバイケース」はずるい

国語辞典を引いていて、調べている語句と違う箇所にふと視線が落ちて無関係な情報を拾ってしまうことがある。昨夜は、【来る】ということばに目が行ってしまい、「このコロンボときたら(=という人は)、本当に警部かどうかさえ疑いたくなる人相・風体だ」という例文に出くわした。探してきたのか作ったのかはわからないが、なかなか愉快な文例ではある。

愉快ではあるが、初対面時に限定された用法だ。刑事コロンボをよく知るぼくとしては、あの人相・風体ゆえに魅力を感じるわけである。数々の難事件を最終的には必ず解決するのだから、警部かどうかを疑うなんてとんでもない。

「この〇〇ときたら、本当に政治家かどうかさえ疑いたくなる人相・風体だ」とするほうが、思わず膝を打ちたくなるほどぴったりくるではないか。「〇〇」に実名を入れたい政治家は五万といるが、大事なのは人相・風体よりも能力だ。

政治や政治家の話は公言しない主義だが、昔の話なら少しはいいだろう。

「大臣、もし~のような事態になれば、どんな対策を立てられますか?」と記者が尋ねた。紳士的でまっとうな質問である。これに対して、時の大蔵大臣はこう応じたのである――「仮の話には答えられない」。平然と言いのけたその姿の向こうに、この大臣の、ひいてはその他大勢の政治家たちの想像力の限界をしかと見届けた。

「この問題をどう解決するのか!?」という詰問は直截的で厳しい。しかし、上の例では、大臣が気を遣わずに答えられるよう、わざわざ「もし~ならば」と仮定で記者は質問したのだ。考えを発展させるとき、「仮にこうだとしたら」という前提を積み重ねていく。未来のことを推論するのだから、何かを前提として結論を下すのは当たり前である。


「仮の話には答えられない」という応答がいかにひどいか。「もし大雨になれば、どうされますか?」に対して、「雨が降っていないので答えられない」、「雨が降ってから考える」と対応するのに等しい。これは間抜けである。「大雨」を「大地震」に置き換えても、間抜けの論理が変わらないから、「君、そんな質問は大地震が起こってからしたまえ!」と苛立つのに違いない。危機管理能力が低いと評する前に、絶望的なまでの想像力の無さこそを嘆くべきだ。

先送り、慎重に検討、状況を踏まえて判断、よく精査など「潔くない逃げ口上」がはびこる。批判側も論争不器用につき、このような言い逃れを封じることができない。ぼくはこうした逃げ口上の大親分が「ケースバイケース」だと睨んでいる。

個々の場合や事例に応じて考えたり、そのつど柔軟に振る舞うようなニュアンスがあるため、「ケースバイケースで行こう」に目くじらを立てる人は少ない。しかし、これほど性悪しょうわるなことばはない。どのケースかを特定しない点では「仮の話に答えられない」に通じる。ケースが明白になってから考えようというのは「先送り、棚上げ」そのものである。

自分自身の経験を振り返ってみればよい。ケースバイケースで済まして、うまくいったためしがどれだけあっただろうか。このケースならこうして、あのケースならああしてと緻密なシミュレーションなどしていないのだ。いざケースに直面しても対策の施しようがない。実際に問題が発生したとき、「大臣、ケースバイケースで行こうとおっしゃったでしょ? どうするんですか?」と聞いてみればいい。きっと大臣はこう答える――「よし対策を練ろう。ケースバイケースで」。そう、ケースバイケースバイケースバイケース……ケースを携えた旅は延々と続く。 


辞書を引いていて偶然コロンボに出くわし、それが政治家のアタマと語彙へと移ろった。知らず知らずのうちに、ぼくの意識の中で昨今の政治文脈が張り巡らされつつあるのだろう。