併読術について

アリストテレス「哲学のすすめ」.jpgのサムネール画像年半近く続けてきた読書会〈Savilna 会読会〉が昨年6月を最後にバッタリと途絶えてしまった。別に意図はない。何となく日が開き、主宰者であるぼくがバタバタし、そしてメンバーからも再開してくれとの催促もないまま、今日に至った。ついに今夜から再開する。何でも「新」を付けたらいいとは思わないが、リフレッシュ感も欲しいので〈New Savilna 会読会〉と命名する。

それぞれ自分の好きな本を読んでくる。文学作品以外はだいたい何でもいい。そして、書評をA412枚にまとめて配付し、さわりを伝えたり要約したり、また批評を加える。「この本を薦める」という、新聞雑誌の書評欄とは異なり、「私がきちんと読んで伝えてあげるから、この本を読む必要はありません」というスタンス。カジュアルな本読みの会ではあるが、根気よく続けていれば一年で数十冊の本の話が聴けるという寸法である。

昨年までは毎回7~10人が発表していた。久々のせいかどうかは知らないが、今夜の発表者は4人と少ない。実は、ぼくは写真左の『身近な野菜のなるほど観察録』を書評しようと思っていた。おびただしい野菜が紹介されているが、夏野菜に絞って話をし、ついでに書評者自身の夏野菜論を語ろうと思っていた。しかし、4人とわかって、それなら少し骨のあるものをということで、写真右の『アリストテレス「哲学のすすめ」』を選択した。骨があると言っても、『二コマコス倫理学』などに比べれば入門の部類に入る。


読書についてよく考える。本を読む時間よりも本を読むことについて考える時間のほうが長いかもしれない。自分の読書習慣についてではなく、誰か他の人から尋ねられて考える。どんなことかと言えば、「どのように本を読めばいいか?」という、きわめて原初的な問いである。たいして熱心に読書してきたわけでもないぼくに聞くのは人間違いだ。もちろん歳も歳だから、ある程度は読んできた。だが、ノウハウなどあるはずもなく、いつも手当たり次第の試行錯誤の連続だった。

本ブログを書き始めて4年が過ぎたが、その間、読書についてあれこれと書いてきた。最近では、一冊一冊読み重ねていって〈知層〉を形成しようとするよりも、複数の本を併読して〈知圏〉を広げるほうがいいと思っている。一冊ずつ読んでもなかなか知は統合されない。一冊を深く精読することを否定しないが、開かれた時代にあっては「見晴らし」のほうが知の働きには断然いい。

複数の、ジャンルの異なる本を手元に置いて併読している。「内容が混乱しないか?」と聞かれるが、ぼくたちのアタマは異種雑多な知を処理しているではないか。現実に遭遇する異種雑多な情報や課題や問題を取り扱うのと同じように本も読む。精読や速読ばかりでなく、併読術も取り入れてみてはどうだろう。

読んだふり

会読会を3年前から主宰している。ずいぶんごぶさただと薄々気づいていたが、調べてみたら昨年6月以来集まっていない。そのことを反省するものの、メンバーの誰からもプッシュも問い合わせもないのも不思議な話だ。なければないで済むのならいっそやめようか。いや、むしろ逆で、無用の用と割り切って意地でも続けたくなる。 来月あたりに再開するつもり。

どんどんページを捲って楽しめる本もあれば、宿題として強制でもされないと読めない本もある。ましてや、読んだ本について仲間に語るとなると、単に読むだけではない、読解咀嚼力を試されるプレッシャーもかかる。しかし、ここに「読んだふり」という方法がある。これをテーマにした二冊の本を紹介する。 


一冊は『読んでいない本について堂々と語る方法』(ピエール・バイヤール著)。目次に目を通しただけで、ろくに本文を読みもせずに薀蓄できる方法を指南する。但し、タイトルに似つかわしくなく、まったく胡散臭い本ではない。ちなみに、一部の本について、ぼくはかねてからろくに読まずに「類推読み」をしてきた。たとえば一章のみ、いや、場合によっては一頁だけ読んで本について語ろうと思えばできないことではない。

もう一冊は読んだふり(河谷史夫著)。著者の書評を集めた本だ。読みもしていないのに読んだふりして書評を書くようなニュアンスがあるが、これも別に怪しい本ではない。むしろ、この本は前著とはまったく逆のコンセプトで題名を付けている。

「あなたのあの書評はいいですねぇ。相当深く読み込んでおられますねぇ」と褒められた時に、「いえいえ、ろくに読んでいませんよ。ただ読んだふりしてるだけです」と答えるのだ。実は、ものすごい読み方をしているにもかかわらず。こちらは、よく読んでいるくせに齧っただけのふりをする、読書ダンディズム。

古典も新刊書も読みたい、しかも熟読も多読もしたいと欲張るのなら、これら二冊が象徴する読書法を取り入れざるをえないだろう。ところで、ここで紹介した二冊をぼくがどの程度読んだのか。それは想像にお任せする。ある本について語る時、読んだのか読んでいないのかは案外見破られないものである。

メッセージを読む

今日の夕方は、去る87日以来の会読会である。参加予定は12名。全員が発表して少し意見を交えていると、あっという間に2時間やそこらが過ぎてしまう。読書の会だけにかぎらない。普段の会議でも打ち合わせでも、ことばをしっかりと駆使せねばならないときは、時間もエネルギーも大いに消費する。まさに言語行為は肉体的であり精神的だ。真剣に挑んだあとは心身ともに疲れ切っている。

ご存知のように書物には著者紹介欄がある。表紙裏や奥付の上覧や背表紙にプロフィールが載る。著者名もなくプロフィールもない本をぼくは読んだことがないが、少し想像してみよう。誰が書いたかわからない本。和歌では詠み人知らずはあるが、本ではないだろう。いや、無名な人たちが書いた文集を集めたものはある。あるにはあるが、「○○新聞文化部編」とか「□□の会編」などの編者が示されている。実名もなく仮名もなく匿名もない、著者名不在の本。雑誌やインターネット上の記事ならともかく、そんな、たとえば200ページくらいの本をぼくたちは懸命に読めるだろうか。

次の文章を読んであなたはどう感じて、どう評価するだろうか。

旅を楽しもう目的地は最重要ではない。一番たいせつなのは目的地に到達しようとする過程である。『目的地に行ければ幸せになるだろうな』とわたしたちは考える。だが、ふつうそうはならない。ゴールを定めることは重要だが、もっとも重要なのはゴールを達成することではなく、ゴールを目指す過程を楽しむことなのである。


「いいメッセージだ、誰が言ったか知らないが、共感する」、あるいは「つまらん、誰が言ったか知らないが、反対だ」とあなたは言いえるか。発信元不明のまま――権威筋であれ近所のぐうたらオヤジであれ――あなたは共感または拒絶の評価を下せるか。ぼくたちはことばによるメッセージに感動したり説得されたりするが、実はそこに発信者が誰なのかがわかっている状況がある。人の気分を強く支配するのは、メッセージそのものよりもむしろ、たとえば誰がどんな調子でそれを言ったかのほうなのである。そのくせに、発信者が定かでないインターネット上の情報につい信頼を置くという身勝手をしてしまう。

先の文章は、The Only 127 Things You Need―-A Guide to Life’s Essentials”からの引用(ぼくが訳したもの)。昨年渡米した折りに買った。未翻訳本だと思うが、直訳すれば『あなたに必要なたった127のこと――人生のエッセンスガイド』というような題名だ。ドンナ・ウィルキンソンという女性が著した本で、各界の著名人にインタビューし、健康から生き方に至るまでのメッセージを紹介し説明している。著者のキャリアやプロフィールと無関係に、あるいは当該文章がドクター何某という人物の言であることを知らずに、純粋にメッセージの意味と対峙するのは至難の業だ。

読書とはまさにかくのごとし。本の中身だけでなく、発信者のキャリア、権威、人格などを知らず知らずに読み込んでいる。同じメッセージでも、ニーチェが言ったか憎い知人が言ったかで響き方が変わるのだ。これが人間の本性。だからと言って、やむをえないというつもりはない。それはそれとして、付帯状況や背景にとらわれずにメッセージのみをじっくりと読んでやるという意地か抵抗を見せたいと思う。

ちなみにぼくは上記の引用文に大いに共感した。実際にそこで書かれている考え方を実践しているから。同時に、たとえば「成功とは旅である。目的地ではない」(ベン・スイートランド)ということばを覚えていて、二重写しのように読めた。このように、メッセージを読むことには、多分に読む側の知の都合が働くものなのである。

速読は「読み方」なのか

昨年一月に会読会を始めてから、読書について考える機会が増えた。「同じ本を二度読むほうがいいのか」、「読みながら傍線を引き付箋紙を貼るべきか」、あるいはもっと根本的な「どんな本をどのように読むか」などを問うては答え、その答えの理由も考える。とりわけ、古典的な「速読か精読か」という問いを無視できない。今のところ、平均的読書人が本を速く読む必要などないという立場を取る。速読とは本の内容に向けられた行為ではなく、本の冊数をこなす行為にほかならない、と考えるからである。

趣味が多読なら、浅く広く速く読めばよろしい。また、特定テーマにすでに詳しい職業人の場合は、関連図書をいくらでも速読できるに違いない。あるいは、課題として読書を迫られている人は、とりあえず急いで通読しておきたいだろう。速読はこれらの人々の願望やニーズに応えることができそうだ。ここで言う速読とは「速やかに目を通すこと」であって、よく理解することまでは約束しない。まったく知らないことが書かれた本を30分やそこらで読むことはできない。ある程度理解できている内容なら、知識量に応じた速度で読めるのである。

英文ライティングを生業とし始めた二十代の後半に英語上達の方法をいろいろと独学していた。文章スタイルも英文雑誌のエディトリアルも広告コピーの勉強もした。その勉強の一つに速読があった。アルファベットという26の表音文字だけの文章と日本語の文章の速読をまったく同列で語ることはできない。また、外国語と母語という相違も決定的である。しかし、視野を広げてパターンを認識するという点はまったく同じだ。

英語では速読をスキミング(skimming)とスキャニング(scanning)に大きく分ける。スキミングは要点の読み取りであり、重要な記述とそうでない記述を嗅ぎ分ける作業である。要点や重要な箇所は読者それぞれだから、スキミングという速読の結果、読み取った内容も読者それぞれである(このことは読書行為の特性であって、速読や精読とは無関係だ)。他方、スキャニングは検索型の読み取りである。パソコンのウィルスソフトと同じで、スキャンしてウィルスを探すように、ある特定のキーワードや目当ての用語をさっと見つけ出す。いずれも速読のための技術としてトレーニングも考えられている。


速読は精読よりも理解と記憶にすぐれているという説もある。これには一理ある。たとえば、ゆっくり喋る人の話が分りやすいとはかぎらない。意味はことばのつながりや文脈において成されるので、間が空くと理解に時間を要する。音声を聴き取れさえすれば、早口のほうが理解しやすく記憶に残りやすいという側面もたしかにあるのだ。しかし、他者ペースの話を聞くにせよ自分ペースで本を読むにせよ、結局はスピードの遅速ではなく、頭がついていくかどうかの問題になってくる。

功罪という点では、速読そのものに「罪」などない。過ちは人に起こる。それまでの自分の読書体験の貧しさを顧みず、ただひたすら速読すれば本の内容がよく理解できるという早とちりである。「功」については、先にも書いた、見える文章群の範囲を広げるという点が最大だろう。しかし、広角認識ができるから速読できるのか、それとも速読するから広角認識が得られるのかのどちらが真なのか判然としない。まるでニワトリとタマゴの関係に思えてくる。

速読するために別の訓練があるのか、あるいは速読そのものが何かの訓練なのかという問い方もできる。ぼくにとっては、広角認識もスキミングも、速読がらみのスキルはすべてトレーニングに思えてくる。しかも読書のためではなく、スピード思考のためのトレーニングなのである。速読は本の読み方の一つのメソッドと言うよりも、思考や言語の活性化に役立つのではないか。本の理解と記憶を保証はできないが、頭を働かせる功ならありそうなのである。

速読は「読み飛ばし」の技術でもある。読み飛ばせるのは、内容をある程度分かっているからだ。ある方面の本を何冊も読んでいれば、類似の本ならば要点も分かるだろうし読み飛ばしもできる。しかし、断言してもいいが、まったく知らないことをハイスピードで読むことはできない。仮に速読できたとしても、理解はいい加減、後日記憶にも残っていない。いや、理解も記憶も完璧だと言うのなら、その御仁はモーツァルト級の天才に違いないのである。

何をどう読むか

ぼくが会読会〈Savilnaサビルナを主宰していることはこのブログでも何度か紹介してきた。サビルナとは「錆びるな!」という叱咤激励である。本を読み誰かに評を聞いてもらっているかぎり、アタマは錆びないだろうという仮説に基づく命名だ。登録メンバーは20数名いて、毎回10名前後が参加している。前回などは二人のオブザーバーも含めて14名だったので、発表時間が少なくなった。せっかく読了して仲間に紹介しようとするのだから、最低でも10分の持ち時間は欲しいが、少人数では寂しく、また、賑わうこと必ずしも充実につながるものではないので、少々悩む。

今のところ年に8回をめどにしている。あまり本を読まない人でも、皆勤ならば8冊は読むことになるわけだ。この会読会では書評をレジュメ2枚以内にまとめることを一応義務づけている。そして、新聞雑誌での著名人による書評が当該図書の推薦であるのに対して、この勉強会の書評と発表は「自分が上手に読んだから、話を聞いてレジュメを読んでもらえれば、わざわざこの本を読むまでもない。いや、すでにあなたはこの本を読んだのに等しい」と胸を張ることを特徴としている。なお、ネタバレになるので詩や小説を取り上げないという約束がある。それ以外の書物であれば、時事でも古典でもいいし、洋の東西も問わない。

なぜ書評を書くか。これはぼくの「本は二度読み」という考えを反映している。娯楽や慰みで読む本を別として、読書には何がしかのインプット行為が意図される。そして、インプットというものは一度きりでは記憶として定着しないから、できれば再読するのがいいのである。しかし、一冊読むのに数日を要し、再読に同じ時間を費やすくらいなら、別の本を読むほうがましだと考えてしまう。結果的には、「論語読みの論語知らず」と同じく、「多読家の物知らず」の一丁上がりとなる。本に傍線を引き、欄外メモを書き、付箋紙を貼っておけば、200ページ程度の本なら再読するのに1時間もかからない。読書の後に書評を書くという行為には再読を促す効果があるのだ。


さて、書評で何を書くか。実は、これこそが重要なのである。まず、決して要約で終ってはならない。要約で学んだ知は教養にもならなければ、人に自慢することすらできない。一冊の本を読んで、要約的な知を身につけた人間と、その本の一箇所だけ読んで具体的な一行を開示する人間を比較すれば、後者のほうがその書物を読んだと言いうるかもしれない。そう、具体的な箇所を明らかにせずに読後感想を述べるだけに終始してはいけないのである。したがって、引用すべきはきちんと引用し、読者として評するべきところをきちんと評するのが正しい。誰も他人の漠然とした読後感想文に興味を抱きはしない。

きちんと引用しておけば、書評に耳を傾けてくれる仲間にその書物の「臨場感」を与えることができる。引用には書物の凹凸があるが、感想はすべての凹凸をフラットにならしてしまう。これぞという氷山の一角を学べる前者のほうがすぐれているのだ。何よりも、引用こそが知のインプットの源泉にほかならない。ともあれ、ルールという強い縛りではないが、以上のような目論見があれば、10人集まる会読会では、仲間の9冊の本を読むのと同じ効果がある。少なくとも読んだ気にはなれる。

どんな本をどのように読むか。強制された調べものを除けば、原則は好きな本を楽しく読むのだろう。世には万巻の書があるから、好奇心を広く全開しておくのが望ましい。食わず嫌い的に狭い嗜好範囲で小さな読書世界に閉じこもっているのはもったいない。ぼくの読書はわかりやすい。知識の補給としての書物と、発想や思考を触発する書物の二つに分けている。前者と後者の割合は2:8程度。前者には苦痛の読書も一部あるが、後者は嬉々として著者と対話をする読書である。対話だから真っ向から反論も唱える。今は亡き古今東西の偉人たちとの対話が個別にできるほどの愉快はない。たとえば、『歎異抄』を読むということは、親鸞の知と言について唯円と対話するということなのだ。

これまで、取り上げる書物については、文学作品以外に制限はなかった。次回6月の会読会では、初めての試みとして「読書論、読書術」にまつわる本を読んでくるという課題を設けることにした。会読会メンバーの最年少がたしか37歳なので、今さらハウツーでもないのだが、自分の読み方を客観的な座標軸の上に置いてみるのも悪くないと思った次第。ぼくは二十代半ばまでに50冊以上の読書論、読書術、文章読本の類を読んだ。大いに勉強にはなったが、中年以降になったら読書術の本を読む暇があったら、せっせと読書をすればいいと考えている。ゆえに、今回のハウツーものの課題は一度きりでおしまい。 

読書しながら世話を焼く

春眠不覺暁しゅんみんあかつきをおぼえず」の盛りまではまだしばらく時間がある。春の眠りは心地よくて朝が来たのもわからないという、この生理機能の前に「本を読んでいると眠くなる」という兆しが現れる。読書だけでなくテレビを見ていても考えごとをしていても、季節が寒から暖へと移り変わる頃はついうとうとしてしまう。歳のせいかもしれないが、この習癖(?)は若かりし時代も同じようにあった。顕著なのが就寝前なので、本を読みながらそのまま熟睡に入るのはまんざら悪いことでもないだろう。

昨年から“Savilna(サビルナ)を冠にした会読会を始めた。知の劣化を読書と書評によって食い止めようという試みで、「錆びるな!」をもじった名称だ。この会読会を意識して読むべき本を選別することはまったくない。ぼくなりに読みたい書物の今年のテーマはあるわけで、それに背いてまで受けを狙うような本の読み方はしない。とは言うものの、今年に入って読了した何十冊かの本の中からどれを書評するかという段になると、ただ自分が気に入ったり動かされたりしたという基準だけでは選び切れないのである。


有志が集まる会読会で彼らが読んでいない本について書評するような決まりがなければ、読書ほど私的で自由な楽しみはないだろう。書誌学者や評論家でもあるまいし、好き勝手に読んで大いに自分だけが学べばよろしい。しかし、レジュメを一、二枚にまとめてメンバーに配り、さわりの引用文と書評を紹介しようとすれば、読もうと思い立ったときの本の選択基準とは別の読み方を強要されてしまう。生意気な言い方をすると、ぼくにとっては別段教訓的でもないが、彼はこれを知って目からウロコだろうとか、別の彼には仕事上のヒントになるのではないかという思惑が読書中に働いてしまうのである。

勉強のため、あるいは楽しみのためにその本を選んで読むことにした。にもかかわらず、読書を通じて自分自身が学んでいるのではなく、「このくだりをみんなに知っておいてほしい」などと、まるで親が幼い子どもに昔話を読み聞かせるような心境になっている。「この箇所は、ぼくがくどくど説明するよりもそのまま引用したほうがよさそう」と思っていることなどしばしばなのだ。えらくお節介を焼いているものである。

しかし、考えてみれば、企画業や講師業という仕事にサービス精神は欠かせないのである。振り返れば、会読会が始まるずっと前からぼくの読書の方法は、自他のためだったような気がする。本を読みながら自分がよく学び楽しみ、その学び楽しんだテーマや文章を誰かと分かち合いたいと願うのは当然至極だろう。「自分の、自分による、自分のための読書」の純度に比べて、第三者を意識した読書の純度が低いわけではない。ついでに世話を焼いているだけの話だ。それはともかく、年に何十冊も本を読んでいながら片っ端から忘れてしまう読書人にとって、書評をまとめたり発表したりするのはプラスになるだろう。読みっぱなしよりもたぶん記憶は深く濃密である。

ブリコラージュな読書

今年1月からスタートしたサビルナ会読会が昨日7回目を迎えた。忘年会も兼ねメンバーが拙宅に集まっての勉強会だった。自分自身が取り上げた本も含めて、この一年で60冊前後の書評を聞いたことになる。仲間が読んだ書物のレジュメを読み話を聞くだけで、ある程度概要がつかめる。今年ぼくは100冊以上の本を乱読したと思うが、本の読みっぱなしはほとんど何も残らない。読書の効果を維持しようと思えば、再読するか、この会読会のように仲間に読後感想を語るのがいい。

自分がどんな本を読んでいるかを公開するのははばかるが、敢えて今年会読会で紹介した書物を紹介しておく。

📗 村上陽一郎『やりなおし教養講座』
📗 ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』
📗 布施英利『君はレオナルド・ダ・ヴィンチを知っているか』
📗 入不二基義『足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想』
📗 安部公房『内なる辺境』
📗 
マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』
📗 眞淳平『人類が生まれるための12の偶然』。

もちろん上記の7冊がぼくの今年のベストというわけではない。安部とポランニーのは古い本で再読、入不二のはアメリカから帰る機中での読書、他のもだいたい出張中の車中での通読である。感動した本というよりも書評しやすくて興味を覚えてもらえるような本を選んだ。同じ本をみんなで読んで感想を述べ合うのもいいが、それぞれがお気に入りの本を選んで解説するのは評論の学びになる。ぜひ来年も、できれば毎月一回のペースで続けていこうと思っている。一気に大勢は無理だが、新メンバーも歓迎したい。


講座のほうは今年12のテーマで新たに書き下ろし語り下ろした。新作講座のための準備は大変だが、そのテーマのために新しい本を読むことはほとんどない。ぼくが参考にするのは手元にあって再読した本や、その本から要所を抜き書きしたノートやメモである。具体的な目的のために本を読むことはめったにない。そういう意味では、ぼくの読書法はエンジニアリングではなく、〈ブリコラージュbricolage〉である。ブリコラージュとは、計画的・意図的ではなく、偶然的に断片を拾ってきて念のために残しておく寄せ集めのようなものだ。

特別な目的のために情報を集めていては知の構造が限定される。知の本質にはゴールの棚上げがあると思っているので、手当たり次第に「いずれそのうちに役に立つだろう」ぐらいの気持で本を買い求め適宜読んでいる。いまここで手に入る知識を寄せ集めて試行錯誤しながら組み立てる創造や知のあり方がブリコラージュ。去る10月に百歳で亡くなったレヴィ=ストロースの構造主義の根幹の一つとなる概念だ。

究極的には、何かをするのは別の何かのためなのだろう。しかし、本を読む、考える、話をするなどの行為は何かのための前に、そのこと自体をしているのだ。本を読んでいるのである、考えているのである、話をしているのである――こうした行為が先にあって、結果的に何かのためになっているのである。ぼくは行為の向こうに何も見ないようにしている。会読会や講座のために読書をしない。読書は読書という行為以外の何物でもない。

「目的もなく、そんなことができるのか? 何かがあるんだろ?」と聞かれれば、「忘我的集中が楽しい」としか答えようがない。「そんなことに意味があるのか?」と問われれば、「うん、あるでしょうね。いずれそのうち意味が生まれるかもしれない」と答える。誰かに話してやろう、どこかで使ってやろうという魂胆を頭ごなしに否定はしないが、自分自身が楽しめないものを他人に伝えるほど厚かましい話はない。冬のために薪を集めるのではなく、ふだんから集めてきた薪が結果的に越冬に役立つ――そんな読書が気に入っている。

読書と書評の一つの試み

せっかく学びに励んで活性化したアタマを鈍らせてはいけないとの思いから、私塾の休講期限定で“Savilna!”という有志によるミニ勉強会を始める。テーマは、(1) 最近読んだ図書の書評と、(2) 形而上学的な論題の論争の二つを取り上げる。1月、2月、4月、6月に(1)の会読書評会、3月、5月に(2)ディベートを予定している。

  

 Savilna!――それは「錆びるな!」という日本語である。アタマを錆びさせない手っ取り早い方法は読書だ。できれば、読んだままにせず、抜き書きしたり自分なりにまとめるのがいい。さらに理想を言えば、自分の書評を誰かに読んでもらうか聞いてもらうのがいい。以上のような理由から、会読会を思いついた次第である。来週月曜日に第回を開くが、欠席が何名か出そうなので78人の門出になる。メンバーのうちMさんとTさんはこの勉強会をブログで取り上げるほど気合が入っている。景気づけのためにメンバーの皆さんに次のようなメッセージを送った。


ぼくはすでに書評を二週間前に書き終え、現在は「熟成」させているところです。啓発的な図書の場合、どうしても共感的に読んでしまうことが多いので、読後にしばらく寝かせるのがよろしい。寝かせているうちに、いいところは熟成が進みます。同時に、異論や批判的意見も芽生えてくるものです。

  

新聞紙上の書評は読者に読んでもらうきっかけを作ります。Savilna書評は、メンバーに読んでもらわなくてもいいようにするものです。「原書を読む以上に私の書評はおもしろいし、ためになりますよ。知らないと損ですよ』というスタンスです。

  

書評には、(1) 図書のテーマと内容を集約して紹介し、それに評論をおこなう、(2) ここぞというくだりをそのまま引用して紹介し、それに注釈またはコメントを付ける、という二つの方法があります。いずれの場合も、評者として主観的に述べることは大いに結構ですし、同時に読者サイドから見た学びどころが客観的に紹介されているとなおよしです。

  

肩肘張らずに、15分~20分で書評をしてください。大いに楽しみですし、一献傾けながら、異種書物間に知的クロスを架けるのが、これまたおもしろいのです。

 


ぼくの書評は引用を主体にしているが、引用しながらも随所に自分が触発されたり感心した事柄も紹介している。自分自身の考えを足したり、やや批判的な視線も投げ掛けたりもしている。二週間前に書き終えているのだが、大変なことを思い出した。当初のルールで、書評をレジュメにして配付する場合はA4判一枚と決めているからだ。ぼくは三枚以上書いて、のほほんとしていた。現在出張中なので、時間はある。だが、選定図書は手元にない。書評もオフィスのPCに入っている。明日の夜に帰阪するが、帰ってからの週末、書評の約70パーセントを削ぎ落とす作業が待つ。それは、読むこと・書くこと以上の試練を意味する。 

はつはるの雑感

一年前の元日の朝、冷感を求めて散歩に出た。徒歩圏内の大阪天満宮にも行ってみた。まるで福袋を求めて開店前のデパートに並ぶ客気分。参拝にも時間がかかったが境内から脱出するのにも苦労した。

今年はごく近くにある、中堅クラスだが、由緒ある神社に行ってみた。ちょうどいい具合の参拝客数。都心にもかかわらず喧騒とは無縁の正月気分。運勢や占いにあまり興味はないが、金百円也でおみくじを引く。三十六番。これは、ぼくと同年代とおぼしき男性が直前に引いたのと同じ番号であった。


初夢は超難解だった。画像がなく文字ばかり。大晦日に読んだ超難解な哲学書の影響なのだろう。「知っていることを歓迎し、知らないことを回避するのが人間」というお告げ(?)である。目が覚めてから少考。「わかっていることを学び、わかっていないことを学べないのが人間のさが。たとえば読書。ともすれば、自分の知識の範囲内に落ちてくれる内容を確認して満足している。異種の知を身につけるのは大変だ」という具合に展開してみた。


徒歩15分圏内の職住接近生活をしているので、オフィスまで年賀状を取りに行く。自分が差し出している年賀状の文字が二千字に近く、受取人に大きな負担をかける。逆の立場ならという意識を強くして、いただく年賀状は文章量の多寡にかかわらず一言一句しっかりと目を通すようにしている。

年賀状を二枚出してきた人がいる。宛名がラベルであれ印字であれ、何か一語でも一文でも直筆を加えれば誰に書いたのかはうっすらと記憶に残るものである。二枚差し出すというのはパソコンデータに重複記録されていて、そのことに気づいていないという証拠だ。そんな人が今年は二人いた。

数年前にも二枚の年賀状をくれた人がいた。その人には出していなかったので早速一文を書いて年賀状を送った。しばらくしてその人から三枚目の年賀状が届いた。「早々の賀状ありがとうございました」と書かれてあった。


景気に対して自力で抗することができない。そのことを嘆くのはやめて、しっかりと力を蓄える。一人で辛ければ仲間と精励する。今月から有志で会読会を開く。最近読んだ一冊の本を仲間相手に15分間解説する。テーマの要約でもいいし、さわりの拾い読みでもいい。口頭で書評し、そして他人の書評を聞く。すぐれた書評は読書に匹敵する。新しくて異種なる知の成果にひそかに期待している。