旅先のリスクマネジメント(7) その他もろもろ

料理関係に著書の多い玉村豊男が、ある本でトルコ人の親切な男に抱いた心情を書いている。

数日間をともに過ごしたその男について最後まで疑念を払拭できなかったとしても、それは止むを得ないことだ、と自己弁護したくなるのだけれど、やはり胸を開いて接してくれたあのホスピタリティーに対してはこちらも全幅の信頼でこたえるべきだった。悪いことをしたと思う。 

こう書いた後に、「他人を信用し過ぎると失敗することがある。他人を信用しなければ友人はつくれない」と結んでいる。

イタリアの似顔絵.jpgフィレンツェで寄付を求められ、署名して少額だけ渡したことがある。広場に大きなテーブルを並べて数人で大々的にやっていた。結論を書くと、公式の団体だった。しかし、いつまでも騙された気分を引きずっていた。

カフェに入って店員やお客の似顔絵をスケッチしていたら、みんな悪徳的な魂胆の持ち主に見えてきた。信用するかしないかの二者択一でないことは承知している。信用度にはグラデーションがあって80とか30などの評定をするべきだ。だが、数日間の長い付き合いなどは稀だから、初対面の相手には信よりも疑から入っておくのが自己責任の取り方なのだろう。

バルセロナで遭遇した署名運動グループは明らかに詐欺集団だった。「この施設は階段しかない。年寄りや障がい者のためにエスカレーター設置運動をしている」というような調子で署名を求めてくる。記帳させると寄付金を要求するというお決まりのコース。「ノー」と突っ張ってもしばらくは数人が付きまとってくる。身の危険を感じることもあるだろう。面倒だと思うのなら、署名の時点で拒否しておくべきである。要するに、見知らぬ者とは接点と時間をいたずらに増やさないことだ。これに比べれば、メトロやバスで遭遇するスリ集団は明らかにその方面の連中だとわかるから、きちんと用心をしていれば被害を防げる。特にパリでは十代半ばの可愛い女子三人組が多いので、すぐにわかる。近づいてきたら突き飛ばせばいい。場合によっては叫べばいい。


日本でタバコを喫わなくても、旅に出るとちょっと一服したくなる時がある。パリの街角で一本喫っていたら、移民系の黒人男性が近づいてきて「火を貸してくれ」と言う。ライターで点けてやると、尋常ではないほど感謝され、「お礼のしるしだ」と言ってバッグからワインのボトルを取り出して手渡そうとする。受け取ると金をせがまれる。いや、もしかすると、ほんとうに善意なのかもしれない。だが、受け取ってはいけない。「ありがとう、でもワインは飲まないんだ」と言い捨てて場を去る。もし気持ち悪ければライターの一つでもくれてやればいい。

公共交通についてはいくつか紹介してきたが、ほとんどのリスクやストレスは異文化への無知に起因する。メトロに時刻表などない。冷静に考えれば、分刻みで発着する地下鉄に時刻表を用意しないほうが理にかなっている。扉は勝手に開閉しない。地下鉄の駅工事をしていてもアナウンスはない。お目当ての駅に停まらず通過してしまう。自ら問いを発しなければ、地上でバスの代行運転があることを知りえない。日曜日にバス停に行って初めて日・祝日が運休であることを知る。途中乗り換えのある長距離バスでは、降りたのはいいが次のバスに乗る停留所が見つからない。うんと離れていたりする。何人もの人に聞いてやっと見つかるといった調子である。とにかく、利用者や旅行客に提供される情報量が圧倒的に少ないのである。

バッグを引ったくられて警察へ届出に行けば長時間待たされる。語学ができなければさらに待たされる。置き引きの被害に保険は下りない。ぼくはミラノのホテルで置き引きに近い盗難に遭い、時間がなかったのでローマに移動してから警察で手続きをした。今だから書くが、置き引きを引ったくりに、ミラノをローマに脚色して申請したのである。

待合室は旅行者で溢れかえっている。自分のことを棚に上げて、よくもこれだけ大勢が被害に遭うものだと驚いた。半時間ほど待ってやっと警察官が入ってくる。「イタリア語または英語のできる人?」と聞くから、一番に手を挙げた。そして、一番に対応された。イタリア語で説明し書類の該当箇所を埋めたり書いたりして、スタンプをもらっておしまい。遅くやって来て一番最初に申請できたという次第。黙っていてはいけない。


危ない思い出は他にももろもろあるが、旅先のリスクマネジメントの話は今日で最終回としたい。いろいろと困り事を書いてきたが、機嫌よく旅に出ようと思い立った人を脅すつもりなどさらさらない。体験してみれば、ユニークなエピソード、しかも笑い話で振り返ることができるものばかりだ。日本にいてもどこにいても、自分の思い通りに事が運ぶことは稀である。社会にはそれぞれの文化的風習的構造というものがある。そして、真に危ういのは旅先のほうではなくて、自分中心の安全安心感覚のほうなのである。
己の無知に気づき苦笑しよう。そうして人は成長する。パッケージツアーに慣れ親しめば、人任せで楽には違いない。だが、個人旅行は酸いも甘いも見える貴重な機会を授けてくれる。何よりも自分のシナリオを四苦八苦しながらも一つ一つ実現していく旅程になることは間違いない。

揺らぐ「信」

信.jpg

ぼくたちは「信じる」ということばをよく使う。「信頼」や「信用」も頻度が高い。他には「信念」や「自信」がある。その「信」が危うくも揺らいでいる。
「私はAを信じる」というのは「Aには信がある」というのにほぼ等しい。このときのAは人でも話でも事物でもいい。信とは「真実であり偽りのないこと」である。ぼくたちがAを信じるのは、Aが真実であり偽りがないと思うからである。「まず信じよ」というだらしない教えがあって困るのだが、信じることと信じたいことは違う。検証もそっちのけで信じたいのなら、自己責任の元におこなうべきだ。
 
何でも疑うことに感心もしないが、何でも信じることにはそれ以上に感心しない。かと言って、デカルトのように徹底的に懐疑して、これ以上疑えないという域に達しようとするのは現実的ではない。つまり、どんなに懐疑したり検証したりするにしても、どこかで手を打たねばならない。完全な信が得られる前に「信じてもいいだろう」で折り合うのである。繰り返すが、最初から無防備に信じることなどあってはいけない。
 

 ブランドやのれんによって真贋を識別することが難しくなった。では、看板と実体が同じかどうかを見分ける手立てが消費者にあるのだろうか。わざわざテーブル席でステーキ肉を見せられ、「これが国産黒毛和牛です」と告げられても、厨房に持ち帰ったら別の肉を焼くかもしれない。では、目の前で焼いてもらおうか。それでもなお、その肉が正真正銘のブランド牛という証明にはならない。ぼくがよく通った焼肉店では血統書のコピーがコース料理の前に提示された。何々産の雌の何歳とあって名前までついている。だが、その血統書の和牛の肉が本日のメニューとして実際に出されるかどうかを確認することはできない。
 
堂々巡りになってしまうが、結局は信じるしかなさそうである。但し、品は勝手に偽らない。偽装を仕組むのは人であり、ひいては人が集団化する組織である。だから、人と組織を注視するのだ。欲だけで生きていない人や組織が他人を欺くことは少なく、おおむね誠実である。他方、利得のみを人生や仕事の礎に置く人や組織は信に背を向ける可能性がある。食品関係に偽装問題が頻発するのは、食材が見分けにくく、消費者が騙されやすいからにほかならない。
 
やっぱり人間の清澄な心次第? いや、そんなメンタルな話に転嫁する気はない。賢慮良識を働かせれば、人や店の信頼度はその場で「経験科学的に」ある程度は感知できるはずである。レストランなら、ブランド価値などはひとまず棚上げする。接待であっても恰好をつけない。「安全でリーズナブルでそこそこ美味である」を基準にする。繰り返すが、食材がウソをついているのではない。これは何々ですと人が偽っているのだ。だから、人を見る。人の立ち居振る舞いと話し方を見る。この人たちに委託してもいいのかどうかを見極める。
 
逆説的だが、社会に蔓延する不信感を拭うためには――つまり、信を基本とした関係性を取り戻すためには――利用者が眼力を養うべく懐疑してみることだ。イタリアに「信じるのはよいことだ。だが、信じないのはもっとよいことだ」という諺がある。イエスに到る過程にはいくつものノーがある。ぼくたちが信用し、安全かつ快適に利用できているものは、厳しく懐疑され検証されてきたはずである。