一年前の今頃

かつて、温故知新の「ふるき昔」が一年前などということはなかっただろう。昔と言えば、「むかしむかし、あるところに……」という物語の出だしが思い浮かぶが、この昔は「ずっと昔」のことであった。どのくらい昔であるか。時代を特定するのは野暮だが、理屈抜きで何百年も前のことを語っているはずである。登場する人物は、昭和や大正や明治のおじいさんやおばあさんでないことは間違いない。

かつての昔は間延びしていた。時間はゆっくりと過ぎた。何世代にもわたって人々はまったく同じ家で育ち、同じ慣習のもとで暮らし、同じ風景を見て育った。なにしろ新聞も電話もインターネットもなかった時代だから、大半の情報はうわさ話だったろうし、仮にニュース性の高い異変が生じたとしても、知らなければ知らないで済んだのである。ところが、現代においてぼくたちが言う「昔」はそんな時間的な遠過去を意味しない。なにしろ一年前がすでにだいぶ前の過去になっている。もしかすると現代の半年や一年は中世の頃の百年に匹敵しているのかもしれないのである。

こんな思いはいつもよぎるが、ドタバタ政治劇を見ていて愛想が尽き果てたので、久しぶりに一年前のノートを繰ってみたのである。昨年64日、「異質性と多様性」と題して次のように書いた。

米国の二大政党は多民族・多文化国家の中で維持されてきた。異質性・多様性ゆえに、二項のみに集約されている。ところが、同質性の高いわが国では多様性が謳歌される。これまで評論家や政治家自身がさんざん〈自民党 vs 民主党〉の二大政党時代を予見し待望してきたが、いっこうにそんな気配はない。現代日本人は発想も思想も似たり寄ったりなのである。つまり、大同だからこそ小異を求めたがるのであり、気がつけば小党がさらに乱立する状況になっている。同一組織内にあっても派閥やグループをつくりたがる。ほんの微かな〈温度差〉だけを求めて群れをつくる。虚心坦懐とは無縁の、小心者ばかりなのである。


ついでに20105月現在のエビデンスを書き写してある。衆参合わせて、民主党423名、自由民主党188名、公明党42名、日本共産党16名、社会民主党12名、国民新党9名、みんなの党6名、新党改革6名、たちあがれ日本5名、新党日本1名、沖縄社会大衆党1名、新党大地1名、幸福実現党1名。以上。笑ってしまった。民主党が解体していれば、もっと増えることになったかもしれない。いや、一寸先は闇だ。何が起こっても不思議ではない。もしかすると、大連立の一党独裁だってありえる。そうなると、同質的で均一的な、日本人にぴったりの政党が出来上がる。名づけて「金太郎飴政党」。

昨年65日のノートにはこうある。

ぼくは変革については前向きであり好意的である。知人の誰かに変化を認めたら、「変わったね」と言ってあげるが、これは褒め言葉である。決して「変わり果てたね」を意味しない。しかし、政治家に期待するのは、〈変える〉という他動詞的行為ではなく、まずは〈変わる〉という自動詞的行為である。自分以外の対象を変えようと力まずに、軽やかに自分が変わってみるべきではないか。組織の再編の前に、己の再編をやってみるべきなのだ。

おまけ。67日のノート。

新任首相は、政治家を志すためにとにかく名簿を作らねばならなかったようで、方々を歩き回りコツコツと活動を積み重ねたという。ファーストレディ伸子夫人はこう言う。
「菅には看板も地盤もなかった。私は自分が売らねばならない〈商品〉のことをよく知らねばならなかった。他の人よりもどこが”まし”か――そのことを伝えることができなければならない」
 

嗚呼、菅直人と伸子夫人に幸あれ!

政治家は「他人よりまし」を競っているのか。これなら楽な世界だと思う。ビジネスの世界は「まし」程度なら消えてしまうのだから。ぼくだって看板が欲しい。地盤も欲しい。しかし、偽ってはいけない。売り物がナンバーワンである必要はない。しかし、「まし」で済ませてはいけない。胸を張れるレベルまで高めた売り物と巡り合って幸福になってくれる人々が必ずいる――これこそが信念である。信念とは、揺蕩たゆたえども貫くべきものである。

偽る座右の銘

信念、拠り所、目標、約束、励まし、時には戒め……これらの思いやイメージをことばに置き換えて、自分の心に刻み込んでおく。これが座右の銘だ。もしぼくたちが著名人になり色紙を頼まれたら、揮毫するような文言である。「努力」や「継続は力なり」という定番から、古今東西の箴言の引用、はては時勢を映し出す「ピンチはチャンス」や「朝の来ない夜はない」という楽観的なものに至るまで、いろいろある。ちなみに、同じ色紙でも、料理屋などに飾ってある芸能人が一筆する「○○さん江」という類は座右の銘とはちょっと違う。

座右の銘にかぎらない。理念でも信条でもスローガンでも広告の見出しでもいい。いや、もっと範疇を広げれば、書名もネーミングも決意表明などもすべて、精神のありよう、行動の方向性、約束やモノの概念などを言語化したものである。そして、見聞きしてきたところでは、これらのフレーズの大半は空回りしている。本来達成されるべき、あるいは目指すべき信念や理想や約束をことごとく裏切っている。看板に偽りあり、なのだ。

「偽る座右の銘」とタイトルを付けたが、実際に偽っているのは、座右の銘やスローガンや信条などではなく、これらを掲げている人間どもである。ことばを責めてもしかたがない。ことばの不履行に平気でいる彼らが理想に近づけていないのである。いや、正しく言えば、始めから近づけるなどと思ってすらいない。彼らはことばの欺瞞性には確信的に気づいているのであって、場合によっては、良からぬことや知られては困ることのカモフラージュ効果として使っていることさえある。


座右の銘の通りに、あるいはそれに近づこうと行動しない人々。スローガンを掲げながらいっこうに実践しない人々。口ばっかりで、約束を守らない人々。朝礼で崇高な訓示を垂れながら、本人自身がまったく別の生き方をしている人々。宗教家や道徳論者ほど背任的であったりするから厄介である。お題目は好都合に利用され、行動は遅々として実行されず、いや、それどころか、理念や目標とは正反対の方向に動いている。真なるものはいずれだろうか、掲げたことばか、それとも現実のおこないか。

フィランソロピーに注目が集まった時代、「社会に貢献します」を掲げた企業が目立った。企業として自明の精神をよくもぬけぬけと明文化するものだと呆れ返ったものである。環境コンシャスな時代に入ってからは、「地球にやさしい」。変化形としての「人にやさしい」と「顧客満足」。「社会に貢献します」だの「地球にやさしい」だのと胸を張った企業の数々の不祥事はご存知の通り。「人にやさしい」などは「オレは女性にやさしい」とほざいているようなもので、口にするようなことばではない。「顧客満足」も企業理念としては暗黙の価値指標であって、市場に向けてわざわざ公言するのは品がないのだ。

「国民の生活が第一」の荷は重そうだが、偽りかどうかはだいぶ先にならないとわからない。「第一」というのは清水の舞台から飛び降りるほどの覚悟がいる約束である。民主党も自由民主党も社会民主党も、いずれも「民主」が共通語になっているが、いつになったら実現するのだろうか。「たちあがれ日本」は、日本および日本国民への呼びかけ、鼓舞、命令にすぎず、自らが立ち上がるとは言っていない。ところで、「継続は力なり」を座右の銘にする三日坊主の男がいた。「三日坊主にサヨナラ」のほうが座右の銘にふさわしいのではないかと指摘したら、「いや、三日間でも継続なんです」とけろっと言ってのけた。何をかいわんや、である。