自問自答という方法

十代でディベートを体験してから、「問いと答え」は最大関心事の一つになっている。8月の私塾でこのテーマを取り上げるので、ここしばらく意識がそこに向かざるをえない。この暑いさなか、決してすがすがしい主題ではないが、仕事である。仕事を前にして不機嫌な顔をしてはいけない。

一般的に問いはクエスチョンマークを伴うが、広く考えれば、前提や条件や原因などにも問いの機能がぶら下がっている。ところで、ぼくは問いが求める答えを自分なりに二つに大別している。じっくりと構想できる、猶予のある答え(a)と、挑発されて即興性を求められる答え(b)である。(a)はスタミナとロングショット。(b)は瞬発力とクローズアップ。他者から問われて答えるときは(b)が、自問自答の場合は(a)が重要になる。

不審に思われて「名前と職業は?」と聞かれ、「ええっと……」と遅疑逡巡していてはますます怪しまれる。考える余地のない、たった一つの答えしかなければ、さっさと言ってしまえばよい。ディベートが難儀なのは、答えが見当たりもせず思い浮かびもせずという状況で、相手のきつい尋問に応じなければならない点である。「そんなことは神に聞いてくれ!」と苛立つのを我慢して、笑みを浮かべて「そうですね、実は」と即時即答しなければならない。しかも、具体的に。「うやむや世界」に逃げ込むのは、政治家を見ていてお分かりの通り、潔くないし、カッコ悪い。


どういうわけか、学校教育は「問答」や「尋問」にあまり関心を寄せない。それどころか、「つまらん質問をするな!」という教師がいたりもする。学生はいつも問われる側にいる。そして、条件反射のように「問われれば答えようとする」(答えないとテストで点数が取れないから)。では、彼らは問われなくても「答えることができるか?」 おそらくノーである。なぜなら、答える前に問わなければならないからだ。この問いは自分への問いにほかならない。実社会では質問すらしてくれないことがある。自問自答できない人間には生きづらい環境だ。

「下線部の意味に近いものを次の中から選べ」というテスト問題がある。また、「次の文章を読んで、考えを四百字以内で書け」という問題もある。これらの設問はタイプが違うとされていて、後者を論文問題と呼んだりする。しかし、ぼくから見れば、これらの問いは同じである。「誰かに問われてから答える」という意味で同じである。もし問いがなければ、あることばに近い意味の用語を考えようとしないだろうし、文章について感想を書こうとしないだろう。外部からの刺激を待つ「反応型人間」はこうして生まれる。

問いを待ってはいけないのである。他者からの問いがあろうがなかろうが、つねにテーマや課題に対して問いかける。問わなければ、ソリューションも工夫も考えつかない。必ずしも明快で満足できる答えが編み出せるとはかぎらないが、「問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる」(ウィトゲンシュタイン)を拠り所にしようではないか。但し、自問自答という方法には偏見が宿りやすいので気をつけねばならない。

何々主義はすべて「ご都合主義」

「この店の焼肉は大阪一ですよ」などとうそぶく人がいる。まるで大阪にある焼肉店をすべて食べ歩いた結果のミシュラン認定かのようだ。まずありえない。行きつけのいくつかの店の味を比較して「ここが一番うまい」と言っているにすぎないのである。だが、ひとり彼のみを槍玉にあげるわけにはいかないだろう。ぼくもあなたも、限られた経験を大風呂敷にして、何事かを確定的であるかのように主張する癖をもつはずだ。事は食べ物だけにかぎらない。

変なことば遣いになるが、安定した推論はむずかしい。ぼくたちの推論は不安定に偏っているのが常で、おおむね自らが望むように推論しているのである。「こうあってほしい」という期待が推論する方向を決めてしまっている。「この店の焼肉が大阪一であってほしい」が先にあって、その主張が導けるように推論していくのだ。情報収集の段階から、ぼくたちは自分の考えに合っていて自分の都合によい情報を選ぶ傾向を示す。都合の悪い情報からは目線を逸らす。

おいしいところを中心に推論するように人は縛られている。その縛りを解きほどこうとするのが脱偏見努力なのだが、どんなに頑張っても何らかの偏見は残る。長年にわたる思考や経験によって培われたものの見方がそうやすやすと変わることはない。偏りや歪みを正したいと思っても、そもそも何が偏りで何が歪みかすら認識できないだろう。「正しい見方」と考えているイメージそのものが、すでに偏っていて歪んでいるかもしれない。都合のよい情報と不都合な情報に等距離で接するのは至難の業なのである。


すべての何々主義は偏している。思考であれ思想であれ、主義は不利情報に対して見て見ぬ振りをし、理解可能で自分にとってありがたい情報を中心に論を組み立てる。おもしろいことに、何がしかの主義に強く染まっている人間ほど、不利情報が増えれば増えるほど躍起になって主義を貫くことだ。彼らは有利情報・不利情報100の状況に直面しても動じない。すべての何々主義は「ご都合主義」ということばで一括りにできる。

コップに水が半分入っている。これを「まだ半分ある」と構えるのが楽観主義者、「もう半分しかない」と嘆くのが悲観主義者。よくご存知の、オプチミストとペシミストを比較する名言だ。両者ともに同じコップの中の同じ量の水を見ているにもかかわらず、見方が正反対になるのは眼前の情報以外の「ものの見方」に縛られているからにほかならない。

楽観的状況にあって楽観主義者になるのではなく、悲観的状況にあって悲観主義者になるのでもない。何々主義者だから何々のようにものを見るのである。それが証拠に、主義とは無縁の犬や猫にとっては水は水であり、水量の多寡に一喜一憂するとは思えない。

これだけで終わるなら、わざわざ有名なコップの水の話を持ち出さない。実は、楽観主義者と悲観主義者以外に第三の男がいたのである。二人のコメントを聞いた彼はつぶやいた。「いずれにしても、水の量はコップの体積の半分ということだね」。主義に囚われない冷静な男? いや、そうではない。彼のことを「合理主義者」または「科学主義者」と呼ぶのである。彼もまた、ある種のご都合主義者にすぎない。