知っていることと知らないこと

仲間が七、八人集まっているとする。その席で誰かが「ご飯を食べたり、お酒を飲んだり」まで言いかけて少し間を置いたときに、その中の誰かが「ラジバンダリ」と後を継ぐ確率はどのくらいあるだろうか? 「食べたり」を「タベタリ」、「飲んだり」を「ノンダリ」と、それぞれ外国人または合成音のように発音してみたら、「ラジバンダリ」が出現する確率はアップするだろうか? あるいは、このブログのここまでの書き出しを読んで、必ずしも笑ってもらう必要などないが、何かにピンときた人はどのくらいいるものだろうか?

お笑い好きにとって、自分の周囲で今が旬のお笑いネタが通じるかどうかは気になるテーマらしい。「このメンバーだと、あれは使えそうかな」という具合に場の空気を読んでギャグを使わねばならない。使いたいけれど、通じそうにないときは「こんなギャグを知ってる?」と確かめてから披露することになる。わかってもらうためだけならば、「古い!」とののしられることを覚悟で、二年くらい前に旬を過ぎたネタを使えばよい。

集まりの席に「笑いの波長の合う人間」が一人でもいたら、気分は余裕綽々。一人が反応して爆笑してくれさえすれば、披露したネタなりギャグがかろうじて滑らなかったことを示すからである。場合によっては、笑わなかったその他大勢を「無知ゆえに笑えなかった」とか「センスがないから笑えなかった」と見下すことさえできるだろう。

自分を中心として形成される人の輪にはそれぞれ独自の喜怒哀楽の波長があるように思われる。その自分が別の輪では脇役だったりする。そこではまったく別の波長が支配する。いずれにせよ、一番むずかしい波長が笑いだ。「ぼくの周囲の〈ラジバンダリ度〉はイマイチだけど、〈吟じます度〉は結構高いよ」とか、「うちの仲間うちでは、〈でもそんなの関係ねぇ度)がまだそこそこのテンションを保っている」なんて会話がありうる。ここまでの話、まだ何のことかさっぱりわからない人にわかってもらう術はない。また、わかる必要もないかもしれない。但し、輪の種類が違うことは歴然だろう。もちろん、輪が異なっているからといって村八分にされるわけではないが……。


流行、事件、話題など、毎日空恐ろしいほどの情報が発信され飛び交っている。何をどこまで知っておくことが「常識」であり、話題をどの程度共有しておくことが「輪の構成員」の条件を満たすことができるのか。「やばい」が「犯罪者が使う用語で『危ない』」という意味であることを心得ていても、「このケーキ、マジやばくない?」という輪に入れない中年男性がいる。しかし、あなたはその男性に「やばいというのは若者用語で『うまい』とか『やみつきになる』という意味です」と教えてあげるべきか悩むだろう。「マジやばの輪」に入りたいか無縁でいたいかは、その男性が決めることなのだ。

ある本を読んでいたら、テーマとは無関係にいきなり「ブリトニー・スピアーズ」の話が出てきた。「ハバネロソースは好きか?」と聞かれたりもする。「ご想像におまかせします」は聞いたことがあるけれど、「ご想像力」などという、人を小馬鹿にしたようなコトバは初耳だ。目からも耳からも知らないことがどんどん飛び込んでくる。

知らないことがどんどん増えていく時代に、人間がそれぞれの輪をつくってかろうじて生き延びているのは、お互いにほんのわずかに知っていることを共有し基本にしているからだろう。