旅先のリスクマネジメント(1) 街路での声掛け

凱旋門.jpg本ブログでもフェースブックでも欧州旅行時の華やかな写真をずいぶん投稿してきた。写真だけを見れば、旅の印象的な思い出がいっぱい詰まっているように映るだろう。しかし、旅先ではかき捨てる恥と並んでリスクがつきものである。ぼくのような個人旅行者にはパッケージツアー客にはない主体性と裁量があり、路地一本深く入るような経験も味わうことができる。他方、あなた任せの気楽さとはほど遠い危険や不安につねに向き合わねばならない。
 
実際にそんな経験をするのは半月の旅で一度あるかないかだろう。だが、日本ではリスクらしいリスクなどほとんど感じることはないから、それに比べればパリやローマでの身に降りかかるリスクの高頻度は尋常でない。街歩きしたりメトロやバスで一日を自由に過ごしたりできるけれども、スリ、置き引きに引ったくり、ぼったくり、詐欺などへの警戒神経はいつもピリピリしている。ちょっと珍しい経験を一つ紹介しよう。範疇としては「親切詐欺」とでも言うのだろうか。
 
その日はパリ郊外のサンジェルマン・アン・レーという小さな街に出掛ける予定でアパルトマンを出た。メトロに乗ったものの、凱旋門に昇ってみようと思い途中下車してシャンゼリゼ通りをぶらり歩いていた。視線を落とすと前方3メートルほどの溝にキラッと光る金属がある。近づいて手に取ろうとしたら、すっと大きな手が右方向から出てきて、その光る金属をつまみ上げたのである。手の先を辿ると身長190センチメートルはあろうかという大男が立っている。そして、ぼくを見てにこりと笑うのである。つまみ上げた金属は金の指輪だった。
 

 言うまでもなく、気配は不気味である。ぼくのフランス語は聴くのも話すのもカタコト程度だが、こういう状況になると危機意識からか普段聞き取れない音声が聞き取れるようになる。大男は最初はフランス語だったがカタコトの英語も交え、指輪をぼくに差し出して「これはきみが先に見つけた。拾ったのはオレだが、先に見つけたきみのものだ」と言っている。いらないというジェスチャーをして立ち去ろうとしたら、後ろから付いてくる。なにしろ大男である。腕をつかまれてねじ上げられたらひとたまりもない。受け取っても受け取らなくても面倒そうなので、手のひらに指輪を乗せさせ「オーケー、メルシー」と言って歩き出した。
 
これで終わるはずもなく、大男は付いてくる。周囲に人がほとんどいないので、まずは早足で人がいる方向へ歩いて行く。突然、大男はぼくの行く手に立ちふさがってこう言ったのである。「オレはコソボから来た。とても腹が減っているんだ」。コソボ。何とドスのきいた出身地なことか。ところで、先に書いておくが、ぼくは大枚やクレジットカードの入っている財布とパスポートはスリも手が届かないよう、上着のファスナー付き内ポケットに入れ、小銭入れはズボンのポケットに分けて入れている。そして、アパートで鞄にスナックかパンを入れて出掛ける。朝から肉や野菜をふんだんに食べるので、場合によってはランチをパンで済ませるようにしているのである。
 
大男が「腹が減っている」と言うから、鞄からパンを取り出した。当然小馬鹿にされたと思うだろう、大男は首を横に振り、「そうじゃない、マネーだ」と言う。精一杯のフランス語と英語で「マネーよりもパンのほうがすぐに食べれる」とか何とか言いながら男のほうへ差し出した。「違う、マネーだ」と大男。これも想定内なので、しかたがないという顔をして小銭入れから2ユーロ(当時で320円見当)を取り出して渡した。「足りない。もっとくれ」としつこいが、幸いなことに小銭入れには1ユーロ硬貨は入っておらず、5セントや10セントがいくつかあるだけだった。残り全部を大男の手にぶっちゃけて「後は何もないぞ、一日乗車券だけだぞ」とポケットの中まで引っ張り出して見せた。
 
後ろから殴りかかられないように、距離を開けて歩き出し、人がたむろしている近くまで急いだ。大男は付いて来てしばらく何やら叫んでいたが、あきらめて別の方向に去って行った。おそらく大男のポケットにはおもちゃの金の指輪が何個もあるのだろう。獲物を見つけた瞬間、溝に指輪を仕掛ける手口である。小銭合計で500円分もなかったので、安上がりなリスク回避だった。あの指輪、たぶん自宅のどこかの引き出しに入っているはずである。店で買う安物のキーホルダーよりはいい記念品だと思っている。

粉飾するイメージ、言い訳する言語

JRのチケットをネットで買うが、あれを通販とは呼ばないだろう。予約の時点でカード決済するものの、手元には届けてもらえない。出張時に駅で受け取るだけである。注文したものが宅配されるという意味での通販は、最近ほとんど利用していない。ただ一つ、お米だけホームページ経由で買っている。そんなぼくが、デパートに置いてあったチラシを見て、衝動的にオンラインショッピングしてしまった。お買い得そうなワインセレクションである。カード決済はすでに終わっているが、手元に届くのは一カ月以上先だ。

会員登録したついでにメルマガ購読欄にチェックを入れた。それから10日も経たないのに、あれやこれやとメルマガが送られてくる。数えてみたら9通である。読みもせずにさっさと「削除済みアイテム」に落としていったが、件名に釣られて「珍味・小魚詰合せセット」のメルマガを開いてみた。重々わかっていることだが、見出しが注意喚起の必須要件であることを「やっぱり」という思いで確認した次第である。

さて、そのメルマガ情報だ。一つずつ順番に珍味と小魚の写真と文章を追った。そして、カタログなどでよくあることだが、あらためてそのよくあることが奇異に思えてきたのである。北海道産鮭とば、北海道産函館黄金さきいか、国内産ちりめんじゃこ、ししゃも味醂干し、国内産うるめ丸干しの五品が写真で紹介され、それぞれの写真の下に注釈がある。商品個々の特徴はレイアウトの真ん中から下半分のスペースにまとめて書かれている。


個々の写真の下の注釈を見てみよう。鮭とば――「画像は200gです」、さきいか――「画像は250gです」、じゃこ――「画像はイメージです」、ししゃも――「画像はイメージです」、うるめ――「画像は150gです」。いずれも画像に関しての注意書きになっている。「実際は異なりますよ」が暗示されている。

では、実際はどうなのか。鮭とば――200gではなく100g、さきいか――250gではなく125g、じゃことししゃも――実物がイメージとどう違うのか不明、うるめ――150gではなく100g。要するに、写真は実物をカモフラージュしているのである。実際の売り物とは違う写真を見せ、しかも「これらの写真は虚偽です」と種明かしをしている。あまりいい比喩ではないが、超能力者が空中浮遊してみせ、自ら「これはインチキです」と言っているようなものだ。

パソコンやスマートフォンの画面でも「画面ははめ込み」という注がついていることがある。上記の「画像はイメージです」も不可思議で、イメージには日本語で画像という意味もあるから、「画像は画像です」または「イメージはイメージです」と言っているにすぎない。ここで言うイメージとは何なのか。「実物ではないが、実物らしきもの。実物を想像してもらうためのヒントないしは手掛かり」という意味なのだろう。では、なぜ実物通りの写真を見せないのか。これが一つ目の疑問。次に、実物とは異なる写真を掲げておいて、なぜ実物の説明をするのか、つまり、なぜ相容れない要素を同一紙面で見せるのか。これが二つ目の疑問。

一つ目の疑問への答えはこうだ。実物が貧相なのである。だから実物よりもよく見える写真や実物の倍程度増量した写真を見せるのだ。これはイメージの粉飾にほかならない。二つ目の疑問への答え。格好よく見せることはできたが、注釈不在ではクレームをつけられる。だから「本当は違います」と申し添える。次いで、「本当はこうなんです」と実際の量を明かす。嘘をついた瞬間「すみません、ウソでした。本当は……」と告白しているだらしない人間に似て滑稽である。

写真もことばも嘘をつくが、広告においてはイメージの上げ底を文章が釈明することが多い。信頼性に関しては、文章に頼らざるをえないのだ。もっとも、こんなことを指摘し始めると大半の広告は成り立たなくなってしまうのだろう。だが、自動車の広告で写真を見せておきながら、「画像はイメージです」とか「画像はタイヤが四輪です」などはありえない。実物が超小型車でタイヤが二輪だったら、それは自転車であってもよいことになる。珍味・小魚だからと言って大目に見るわけにはいかない。ぼくには、「画像はイメージです」と言われっ放しの「ちりめんじゃこ」と「ししゃも味醂干し」の実物がまったく想像できないのである。だから、そんなものを注文したりはしない。

モノクロ映画と陶芸

《五感な街・アート・スローライフ》のカテゴリに関連するテーマを三ヵ月近く取り上げていない。必ずしもアートに無縁の日々ばかりではないが、これまでそうしてきたように、このカテゴリではできれば写真を入れたいと思う。ところが、掲載したくても写真がない。カメラが壊れたわけではない。秋が深まってからは手ぶらで出掛けていることに気づいた。光景や体験をカメラに収める余裕がなくなったのか、それともしっかり即時的にマインドで取り込めるようになったのか。後者であってほしいが、単に持ち運びが億劫になっただけかもしれない。

年に四回のハッピーマンデー。正月が明けて三日ほど働いたら、いきなり最初の三連休がやってくる。新年早々にこんなに心身を緩めていいのかと一抹の不安を覚える。少なすぎると愚痴をこぼすが、大型連休や三日働いて三日休みなどというのはご褒美過剰ではないか。若い頃はきつい職場にいたので休みを歓迎した口だったが、今では休日にも少々仕事を入れる。そのほうが「衰脳化防止」には効くような気がしている。とか何とか言いながら、新年最初のせっかくのハッピーマンデーだ、遠慮なく活用することにした。現金なものである。


ドイツ映画(2009年)『白いリボン』を観た。ドイツ・オーストリア・フランス・イタリアの合作である。モノクロ映像のせいか、あるいは時代考証がよくできているせいか、20世紀初頭の、第一次世界大戦前夜のドイツの小村の空気や人間関係、階級社会の生活がよく描かれていた。生真面目だが陰湿、虚勢や強がりに生きつつも徐々に心のどこかが疲弊していく。悪しき、そして捨てがたき封建制度。禁欲的日々には誇りと鬱憤が重なり合う。随所に〈二項対立〉を見て取った。二項対立なのに、どこかで妙に折り合っているような不思議な共同体の姿……この頃からドイツの歯車が狂い始めていった。映画評論は苦手なので、これ以上立ち入らないでおこう。

Lucie Rie 図録.jpg

翌日、大阪市立東洋陶磁美術館に赴いて『ルーシー・リー陶芸展』を見た。中央公会堂のすぐそば、ぼくのお気に入り散歩コースの途上にある。自宅から歩いて半時間、少々寒い昼前だったが、会場を後にする時には気分がとても浄化されて、逆に温まって帰ってきた。

単独展になると世界に散らばっている陶芸品を一堂に集める。そんな機会はめったにあるものではない。どちらかと言うと、陶芸は疎いジャンルなのだが、とてもわかりやすい作品群であった。上品であり形状も色も清廉なセンスなのである。写真は図録の表紙。日本商工会議所会頭賞を受賞しているらしく、とてもいい出来映えのカタログだ。

妙なもので、いい器を見た直後の一週間は食事処の食器にも目が向くものである。アートは居心地の良し悪しがはっきりするものだが、遠ざけ気味の名作を時折り鑑賞しておくことは、日々の感受性に少しは役に立つものである。もちろん、仕事の仕上げにあたってもう少し凝ってみようと意識が働いてくる。さて、週末はどんなアートスポットに出掛けるか、文章を書いているうちに少々愉しみになってきた。

一枚の絵(または写真)の行間

やや蒸し暑かったが、好天に恵まれた土曜日だった。京都国立近代美術館で開催中の『ローマ追想――19世紀写真と旅』を見に行った。常時カメラを携帯するわけでもなく、携帯電話のカメラ機能をよく使うこともない。それでも、ここぞという時には思い切り写真を撮る。デジタルカメラになってからは遠慮なくシャッターを押す。上手下手はともかく、カメラと写真についてはすでに30年以上も親しんできた。

しかし、写真とカメラの歴史には疎い。今回の写真展を通じて、ダゲレオタイプなどの写真の方式について少しは知るところとなった。ダゲレオタイプとは銀板写真のことで、銅の板にヨウ化銀を乗せたもの。ダゲールという人によって1839年に発明された。展示されていた写真は19世紀中葉のローマやヴェネツィアなどの光景だった。たとえばローマのポポロ広場にしてもコロッセオにしても、一目見れば今とさほど変わらない。何しろ歴史地区だから、最新高層ビルが建ったり都市のゼネコン的近代化がおこなわれたりはしない。但し、当時の写真とぼくが最近撮り収めた写真との間に、修復や植樹・道路整備などのささやかな変化を読み取ることはできる。

ところで、写真の発明と絵画の流派――写実主義や印象派――には無視できない相関関係があるとよく指摘される。写真が発明されるまで、ほとんどの肖像画は写実的に描かれていた。国王や伯爵がたくわえた髭は一本一本精細に捉えられた。また、女王や夫人や子女の豪華絢爛な衣装の皺や襞は本物そっくりに描かれ、レースには絶妙の透かしまでが入る。まさに、油絵は写真と同等の役割を果たしていたのである。そして、写真の発明とほぼ同時期から細密な描写が廃れ始め、やがて顔の判別もできなければ姿かたちも崩れていく。実体ではなく印象が描き出される。絵具が乱れ毛筆の跡が残る。絵画は写真でできる技法を捨てて、写真でできない世界へと入っていった。


写真展の後、御所近くの相国寺の承天閣美術館へと足を向けた。『柴田是真の漆×絵』なる展示会の招待券を持っていたからである。翌日曜日が最終日だったので、何とか滑り込みセーフ。若冲の襖絵も展示されているとあって、鑑賞に臨んだ次第だが、初めて見る是真の漆絵や盆、印籠、紙箱などに凝らされた細工の見事さに息を飲んだ。名作の大半が海外コレクションになっているので、ほとんどすべてが里帰りだ。その道の職人だろうか、単眼鏡を手に熱心に作品を鑑賞する人もいた。

「絵や写真の行間」と表現するとき、「行間」はもちろん比喩である。ここでの行間は、描かれていない心象や、描かれていても空間部分を感じ取らせる構図を意味する。動画はテーマや対象の仔細を順序制御的に映し出してくれるから、鑑賞する者はある程度受身で構えることができる。流せるという気楽さがどこかにある。しかし、一枚の絵もしくは一枚の写真は、本来の線的な動きのどこかを一瞬切り取って見せる。したがって、作者が描いたり撮ったりした作品の文脈はよくわからない。よくわからないからしばらく作品の前で佇むことになる。その佇んでいる時間は、行間を読み取って綜合的に鑑賞しようとする時間である。

とても疲れるのである。しかし、疲れると同時に、そのように感じ入ろうとする時間と空間に在ることが、絵を鑑賞する愉しみの大部分なのに違いない。呆れるほど感じ入って満悦する。あるいは、結局は何とも言えぬ「不明」に陥ってその場を去ることもある。ふと、陶淵明のことばを連想した。

「好讀書 不求甚解 毎有會意 欣然忘食」
(書をむを好めど、甚だしくは解するを求めず、意にかなふこと有る毎に、欣然きんぜんとして食を忘る)

「読書は好むものの、深くわかろうとせずに大雑把な理解で済ます。しかし、たまたま意に合った文章があれば、食事を忘れるほどに大いに楽しむ」という意味である。これは読書の様子だが、絵画鑑賞にもそのまま通じるように思われる。