サッチャー元首相とディベート

討論.jpgジョークにもなっているように、サッチャー元英国首相の傑出したディベート能力は神をも泣かせてしまうと誉めそやされた。首相在位期間は1979年~1990年、11年という長きに及んだ。この間のわが国の首相は、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹の六人の顔ぶれであった。

四半世紀近く前のサッチャー・海部の両首脳の会談は印象的だった。企業や行政でディベートに注目が集まり始めた頃であり、その数年後からひっきりなしに研修依頼を受けて全国を飛び回ることになった。会談の要旨をぼくなりにまとめたものをディベートの教材として使った時期もある。亡くなったサッチャー女史を偲ぶと同時に、わが国のリーダーの論拠不足を肝に銘じるために紹介しておこうと思う。
 

 その会談は海部首相が二つの論点を切り出して始まった(傍線は岡野)。
 
〈論点Ⅰ〉 戦後日本の基本は自由と民主主義であった。われわれは英国を手本としていろいろと努力してきた。これは世界の流れの中で正しい選択である。
〈論点Ⅱ〉 サミットでも協議は経済面・政治面で重要であった。われわれは今後とも協力し、いろんな問題を処理していきたい。
 
傍線部のような、現象や事実の上位概念把握だけでは世界を相手に説得不十分である。論拠はどこにも出てこず、ただ「思い」を語っているにすぎない。二つの論点に接合してサッチャー首相が語る。
 
〈論点Ⅰに対して〉 日本の技術は優秀である。なぜなら、日本企業は消費者の需要動向を洞察し、新しい技術を生産に直結しているからである。英国はこうした日本企業の進出を歓迎する。
〈論点Ⅱに対して〉 保護主義の圧力がある中で、サミットは自由貿易体制の維持に有益であった。
 
意見に論拠が内蔵されている。海部の上位概念ないしは総論を、下位へと落として具体的である。海部の二つの論点に物足りないサッチャーは三つのポイントから成る論点Ⅲ「日英関係」を持ち出す。
 
〈論点Ⅲ‐1〉 酒税の改正に感謝するものの、ウイスキーの類似品を懸念している。
〈論点Ⅲ‐2〉 東京証券取引所の会員権解放の早期解決を要請したい。
〈論点Ⅲ‐3〉 航空問題は人的交流を増やすため規制緩和が望ましい。
 
自分が言及しなかった論点に海部は逐一対応しなければならない。さあ、どう言ったか。
 
1〉 懸念される必要がないよう努力したい。
2〉 できるだけ早期に解決するよう引き続き努力したい。
3〉 解消の方向に向かっていると思う。
 
嘆かわしいと言うほかない。〈1〉と〈2〉のいずれも努力という逃げ。努力で解決するなら話は簡単だ。努力ということばは肩すかしである。〈3〉などはまるで天気予報士のようではないか。ぶち切れたくなるほどの無責任ぶりなのだが、サッチャーは冷静であり、英国流のシニカルなトーンで切り返した。
 
2〉 今回で四人目の首相になるので、早期結論を期待する。
3〉 一般的な規制緩和について、さらに事務レベルで話し合いたい。
「あなたの前任者三人にも同じようなことを要求してきたが、進展しなかった。何人替われば気がすむの?」という声が聞こえてくる。「事務レベルでの話し合い」とは、「あなたではダメ。もっと具体的に解決策を出してもらわないと」という意味なのだろう。
 

 結局、海部のせいで期待したような論戦には到らなかった。それはわが国の弁論術スピーチチャンピオンと鉄の女の論争ディベート能力の格の違いによるものだった。打てど響かぬどころか、のれんに腕押しの会談ではさぞかし物足りなかっただろう。まるで他人事のような海部首相の情けなさだけがクローズアップされたのである。やれスピーチだやれ感性だとほざく前に、世界に通じる言語理性を鍛えなければ日本人の生きる道はない。グローバル化した現在でも、世界に通じるディベート能力はいまだ道険しだ。

対話論雑感

二日連続対話について論じたので、ついでに湧き上がるまま雑感を並べ書きしてみることにする。ぼくが対話と言うときのテーマは命題形式を前提としている(ディベートではその命題を「論題」と呼ぶ)。対話にはディベートや二者間論争が含まれる。しかし、話題を拾って語り合う会話、演題について一方通行で話す弁論、議題についてさまざまな意見を出す会議などは対話に含めていない。


先の『防災・社会貢献ディベート大会』は「無差別級」でおこなわれた。高校生、大学生、社会人が総当り的に対戦するのは珍しいケースである。ディベートの本来の姿は老若男女が入り混じることだと思っているので、あの大会を大いに評価している。


肯定側は論題で記述された内容を肯定する立場にあり、否定側は論題で記述された内容を否定するのではなく、当面の肯定側が論題を支持する論点を否定する。ちょっと混乱しそうな表現だが、検証者としての否定側は、「はじめに論題否定ありき」ではなく、肯定側の立論に対する否定の任に当たらねばならない、ということを意味している。

肯定側が評価に値する立証責任を果たしているにもかかわらず、否定側が肯定側の論点にまったく争点接合せずに論題のみを否定しているかぎり、反駁責任を果たしているとは見なさない。


ディベートの質を高めるのは肯定側の立証力にほかならない。他方、ディベートをスリリングな議論にするのは否定側の切り返しによるところが大きい。両者拮抗した場合は、即興性を求められる否定側に分がある。


論題には複数の解釈がありうる。ある一つの解釈によって立論の方向性を打ち出すとき、その方向性にはしかるべき正当性あるいは共通感覚(または通念)へのアピールが求められる。これを基本哲学と呼び、立論の冒頭でしっかりと提示するのが望ましい。

定義には辞書から引用する「辞書的定義」と、論題に充当する範囲で自ら手を加える「操作的定義」とがある。後者の定義をおこなう場合は、基本哲学と連動しなければならない。


否定とは「何か」の否定である。否定や反論は、何がしかの主張に対しておこなわれ、その主張と自論の見解が異なっていることを前提としている。見解の相違がなければ、誰も反駁しようとはしない。また、語られもしていないことを否定したり、不在の主張に反論することはできない。


ディベートの議論の評価は、肯定側立論の評価を基準としておこなわれる。


肯定側が二つの論点を提示したとしよう。そのうちの一つが反駁され、しかも最終弁論まで修復されないとき、立証責任は果たされなかったと見なす。すなわち、否定側は論点のすべてを否定する必要はなく、部分の否定だけで反駁責任を果たすことができる。

肯定側が「Aはすぐれている」と主張するだけで、いっさい証拠も論拠も示さなければ、否定側は「Aはすぐれていない」と反論するだけで十分である。

「なぜAがすぐれているのか?」と尋問するのが否定側の役割であるとする見方もあるが、肯定側は主張と同時に証拠と論拠を示す義務を背負っているから、言いっ放しの主張の面倒を見ることはない。但し、それではあまりにも不親切で人情味に欠けるように見えるから、否定側がカウンセリング的に振る舞っておいて損はない。

肯定側が「Aはすぐれている。それは次の二つの理由による」と主張するとき、否定側は主張への反論だけでは反駁責任を果たせない。二つの理由または少なくともいずれか一つの理由に効果的な検証反駁ができてはじめて主張を否定したことになる。


検証する側が一般的には優位に立ちやすいのは確かである。こう言うと、否定側がずいぶん楽そうに思われるかもしれないが、肯定側立論で想定外の論点が提示されたときは当意即妙で対応しなければならないので、力量互角ならまずまず拮抗するようになっている。

議論を拮抗させるためには、論題の記述に細心の注意を払わねばならない。一言一句の違いが議論の方向性を大きく変える。退屈な定義論争や詭弁の応酬が目立つディベートになるのは、たいてい論題記述の拙さに起因している。