批判からの逃避

この話が当てはまる人々に老いも若きも男も女もない。批判からの逃避には二つの意味を込めている。一つは「批判することからの逃避」であり、もう一つは「批判されることからの逃避」である。対話にあって波風を立てないよう、批判することを避けてひたすら共感し同調する。これによって今度は批判されることを回避できる。

以前このテーマについて某所で話したときに、「批判と批評との違い」を尋ねられたことがある。即座に回答しかねる問いだが、ぼくも老獪な一面を持ち合わせているから、「非難と対比すれば、批判と批評は同じ仲間だ。この話に関しては同義と思ってもらっていい」と伝えた。後日辞書をチェックしてみたら、さほど苦し紛れの対応でもないことがわかった。批評がより価値論議に向けられるものの、批判も批評も物事の長所・短所を取り上げるという点では共通している。非難の「欠点や過失を取り上げて責めること」とは根本が違う。

批判でも批評でもいいのだが、とりあえず批判にしておく。この批判がいつの間にか「非難」と同義になってしまったかのようである。ぼくにとっては批判は改善・成長を視野に入れた、問題解決の処方箋である。問題を解決するためには問題を明らかにせねばならない。問題を明らかにするとは原因を探ることである。その原因探しと問題解決に助言をしようとするから批判するのである。どうでもいいことを取り上げて、どうでもいい人間にわざわざ改善や成長のための批判をするはずがないではないか。


批判は非難ではない。ぼくにとっては批判されることも批判することもつねに良薬である。苦くて刺々とげとげしい毒舌であっても毒ではない。ところが、「それって批判ですか?」「そう、批判」「ひどいなあ、いきなり非難するなんて」「非難じゃない、批判。全然違うものだ」「ケチをつけるんだから一緒ですよ」という類のやりとりが、嘆かわしいことに現実味を帯びてきた。

ストレートな話し方をするほうなので、辛辣な毒舌家と受け取られることが多いが、ぼくなどは穏健で温厚な「ゆるキャラ」だ。批判と非難の区別もつかない連中は、批判の中身に耳を傾けず、批判の語り口に神経を尖らせている。彼らにとってきつい表現は非難であって、助言などではないのだろう。

批判は成長の踏み台であり、非難は意見攻撃、ひいては人格否定につながる責めの行為だ。この違いがわからない者に助言しにくくなってしまった。批判から逃避する彼らはどうなるか。結局は差し障りのない関係を保ちながら、甘く低いレベルで折り合ってしまうことになる。切磋琢磨しようと思えば棘の一つや二つは刺さる。だが、そんなものは繰り返し慣れてしまえば、すぐに免疫ができる。批判というのは一種の人間関係ゲームなのである。逃げたらダメ、避けたらダメ。