脳と刷り込み

口も達者でアタマの回転もそこそこいい「彼」が、その日、人前で「あのう」や「ええと」を連発していた。宴席に場を変えて軽いよもやま話をしていても、なかなか固有名詞が出てこない。だいたい男性の物忘れは、「名前を忘れる→顔を忘れる→小用の後にファスナーを上げ忘れる→小用の前にファスナーを下ろし忘れる」という順で深刻度を増す。だから、名前を忘れるのは顔を忘れるよりも症状が軽い。それに、人の名前を忘れるくらい誰にだってある。

しかし、彼の場合、短時間に複数回症状が見られた。言及しようとしている人物の名前がことごとく出てこないのである。「ちょっと気をつけたほうがいいよ」とぼくはいろいろと助言した。最近、このようなケースは決して稀ではなくなった。ぼくより一回りも二十ほども年下の、働き盛りの若い連中に目立ってきているのである。幸い、ぼくは年齢以上に物覚えがいいし物忘れもしない。ただ、脳を酷使する傾向があるので、「来るとき」は一気に来るのかもしれない。

別の男性が若年性認知症ではないかと気になったので、名の知れた専門家がいる病院に診断予約を取ろうとした。ところが、「一年待ち」と告げられたらしい。一年も待っていたら、それこそ脳のヤキが回ってしまう。科学的根拠はないが、ことばからイメージ、イメージからことばを連想するトレーニングが脳の劣化を食い止めるとぼくは考えているので、そのようなアドバイスをした。簡単に言うと、ことばとイメージがつながるような覚え方・使い方である。但し、ことばとイメージのつながり方は柔軟的でなければならない。


習慣や知識を短時間に集中的に覚えこんでしまえば、その後も長い年月にわたって忘れない。動物に顕著な〈刷り込みインプリンティング〉がこれだ。偶然親鳥と別れることになったアヒルやカモなどのヒナが、世話をしてくれる人間を親と見なして習慣形成していく。人の場合もよく似ているが、刷り込みは若い時期だけに限って起こるわけでもない。たとえば、中年になってからでも外国語にどっぷりと集中的に一、二年間浸ると、基礎語彙や基本構文は終生身についてくれる(もちろん、個人差も相当あるが……)。

刷り込みはとてもありがたい学習現象である。このお陰で、ある程度習慣的な事柄をそのつど慎重に取り扱わなくても、自動的かつ反射的にこなしていくことができている。要するに、いちいち立ち止まって考えなくても、刷り込まれた情報が勝手に何とかしてくれるのだ。だが、これは功罪の「功」のほうであって、刷り込みは融通のきかない、例の四字熟語と同じ罪をもたらす。そう、〈固定観念〉である。刷り込まれたものがその後の社会適応で不都合になってくる。

あることの強い刷り込みは、別のことの空白化だということを忘れてはいけない。博学的に器用に学習できない普通人の場合、ある時期に世界史ばかり勉強すれば日本史の空白化が起こっている。昨日瞑想三昧したら今日は言語の空白化が生じる。ツボにはまれば流暢に話せる人が、別のテーマになると口をつぐむか、「あのう」と「ええと」を連発するのがこれである。どう対処すればいいか。自己否定とまでは言わないが、定期的に適度な自己批判と自己変革をおこなうしかない。

「五十歳にもなって、そんなこと今さら……」と言う人がいる。その通り。固定観念は加齢とともに強くなる。だから、ことば遣いが怪しくなり発想が滞ってきたと自覚したら、一日でも早く自己検証を始めるべきである。

速読と大量刷り込み

速読の話の続き。本をまともに読んだキャリアのない人が、一念発起して読書に向かうとする。このとき、誰かに教わって速読を試みても、ほとんど読めないだろう。何もアタマに入ってこない。文字を読んで培った知識の受容器が小さいから、文字情報を高速処理できないのである。これはコンピュータの処理能力によく似ていて、結局は容量に応じた情報量しか処理できないのである。理解と記憶の度合いは、自前の受容器の大きさにほぼ比例する。

その人が速読の訓練を積み重ねても、見開きページ上での眼球の動きが速くなるだけで、アタマがついていくようにはならない。しかも、理解しなければと焦るほどに読む速度にブレーキがかかってしまう。今さら嘆いてもしかたがないが、結局は「もっと幼少年時代に本を読んでおけばよかった」という述懐に落ち着く。「四十歳からのやり直し読書」のような本がすでに世に出ているに違いないが、四十歳からやり直すなら、「何のために本を読むのか」をしっかりと問い、じっくりと読むしかない。つまり、精読。

ところで、十代前半までの読書習慣はもっぱら環境に左右される。親自身がよく読むとか、親が物語を読んで聞かせるとか、自宅の書棚に本がたくさんあるとかだ。仮に家庭にそんな環境がなくても、友人に本好きがいたり国語の先生が読書を大いに薦めたりしてくれたら、本を読む癖がつきやすい。図書館や町内の書店なども環境要因になる。こうして、幼少年時代の読書は好奇心に突き動かされて、大きな楽しみとなる。楽しいから手当たり次第に読み、速読など意識せずとも、自然と速く読め、かつよく覚えるようになる。これは、ある意味で、脱意識的な大量刷り込みを可能とし、知識や思考の受容器を発達させてくれる。


以上のことは、ことばを覚えるプロセスと同じだ。ぼくたちは人の話を耳から大量に聴き、概念と意味を推理してことばを習得してきた。このような会話における音声と聴覚の関係が、読書では文字と視覚の関係に置き換わる。概念知識と言語体系の中で意味理解が進むのだから、このような習慣を身につけてきた人は、初めて読む内容であっても類推が働く。つまり、アタマの中に理解の手掛かりとなる知と言語がすでに備わっているのだ。密な蜘蛛の巣と疎な蜘蛛の巣とでは、前者のほうが餌となる虫を捕獲しやすいのと同じ理屈である。

読書のスピードは徐々に加速してくるものだ。決してある日突然速読できるようにはならない。幼少時から本に親しんできた人は、速読トレーニングなど積まなくても緩急自在に本を読める。やさしい本なら時速100キロメートルで飛ばすように読み、手強い本なら狭い路地をゆっくり歩くように読む。読書習慣に乏しかった人ほど速読の功を焦る。いきなり高速運転をしてもただ目的地に到着するだけで、理解し楽しむなどの余裕はない。誰もが速読上手な読書人になれるとはかぎらない。

手遅れを自認するのなら、そして義務や見栄で読書をするのではなく、必要や好奇心から読書習慣を身につけようと思うなら、急いで「読後」へと向かうのではなく、「読中」、つまり読むというプロセスそのものにじっくりと浸ることだろう。傍線を引いたり囲んだりとマーキングし、いい話だ、ためになる、おもしろいと思えばそこに付箋紙をくっつけておけばいい。このような精読を続ければ、徐々にスピードが速まっていく。やがて、広角的に文章を拾えるようになり知が起動してアタマが活性化するはずである。きついことはきついが、中年以降の読書習慣の始まりはおそらくこれしかない。