断片メモの拾い読み

okano note web.jpgのサムネール画像愛読書は何か、どのジャンルの本をよく読むのかと若い人たちに訊かれることがある。意地悪する気はないが、「ない!」と即答する。「ない!」と答えた上で、「本ではないけれども、ノートならよく読む」と付け加える。きょとんとした顔に向かって「ぼく自身のノート。それが愛読帳」と追い打ちをかけると、たいていきょとん顔が怪訝な顔に変化する。

自分で書き綴ったノートを自分で読むのはナルシズムだろうか。無論ノーである。そこには自己耽溺する余裕などは微塵もなく、それどころか、眉間にしわ寄せるほど必死な作業なのである。過去の自分と今の自分が対峙する真剣勝負だ。何を大げさなと思われるかもしれないが、他人が書いた文章を読む気楽さに比べると重苦しく、かつ気恥ずかしいものである。
記憶力には自信があるほうだが、記憶を確かにする前に記録がある。ノートは脳の出張所みたいなものだから、そこに記録してページを繰って掻き混ぜてやると、こなれてきて相互参照がうまくいくようになる。これは加齢に伴う脳の劣化という、自然の摂理にあらがう有力な対処法だと思う。一つの話題やテーマについて少なくとも400字ほど書くようにしている。これを「線のメモ」と呼んでおく。

同時に、二、三行の断片メモを巻末にあれこれと書いていて、時々拾い読みしてヒントを探す。こちらは「点のメモ」である。線のメモには主題らしきものがあって筋も通っている。しかし、いざという時にはなかなか想起できない。メモを書く時点で思考の輪郭や表現の工夫には役立っているものの、即座に役立つ類のものではない。これに対して、点のメモは見出しプラスアルファ程度で、大したコンテンツがあるわけではない。けれども、これがインデックス効果を発揮してくれる。思い浮かべやすいのは、数語や一行の文章のほうなのだ。
ふと目にし耳にしたことをメモする。思いついたことをメモする。ジョークなどの創作ネタもある。たとえばこんな調子である。
 
・ メロディは思い浮かばないが題名を知っていれば曲を検索できる。メロディを口ずさめても題名を知らなければ検索はできない。
・ 「今度いっぺん飲みに行きましょう。近いうちに電話します」と言ったくせに電話をしてくる人間は十人に一人もいない。
・ 週末だけ農業に従事する女性を「農L(ノーエル)」と呼ぶらしい。
・ 友達が増えると顧客が減る。
・ ブランドとは余計なことを言ったり示したりしなくてもいい「力」である。
・ 牛肉ステーキに見立てた豆腐ステーキを食べることを「ベジタリアンのやせ我慢」と言う。
BS放送でトナカイ料理が紹介されていた。レシピが尋常ではないほど詳しかった。トナカイの肉はどこで買えるのだろうか。
AKB48AKO47(赤穂四十七義士)のパロディだという説がある。
外部情報とぼくの脳と手による合作だから、ページを隔てて点のメモと線のメモはどこかでつながっている。ノートを書き、それを読む。それは面倒で決して楽ではないが、こうしているかぎり、知は一敗地にまみれるようには劣化しないはずである。

超人的なものの人間味

スペースシャトル.jpg

血生臭い事件が報道されバカらしい芸能ニュースばかりが流れる今日この頃。本来腰を据えて考えるべきことがおろそかになり、まったくどうでもいいことが取りざたされる。自分の日々の熟慮や行動を棚上げしているかもしれないが、この国のインテリジェンスの劣化を嘆く。
今週ぼくの関心を引き、考察の機会を与えてくれたのがエンデバーだ。ご存じ、ロサンゼルス市街地から展示場へ陸路輸送された話である。
彼は超人さながらあっという間に大気圏の外に出て宇宙に達する。まさにスーパーマンという形容にふさわしい。その彼がロサンゼルス空港からカリフォルニア科学センターに到着するのに、滑稽なほど手間取った。わずか19キロメートルの道のりを毎時3.2キロメートルという、ぼくよりも遅い歩み。しかも、曲がり角で悪戦苦闘しつつ、二日半近くかかってやっとのことで「任務」を完了した。

 いくつもの難題をいとも簡単に克服してきた超人が、舞台を変えてまるで亀のように見えた。宇宙を意のままにした雄姿の微塵もそこにはなく、もがき立ち往生した。ほほう、超人も四苦八苦するのか、所詮超人も「人」だったのかと、泥臭い人間味を感じてしまったのである。
論理の飛躍を恐れずに書くことにしよう。勝手知らない宇宙で何事かを成す前に、やらねばならぬこと、考えねばならぬことがこの地球上にあることを思い知る。究極の問題解決力は地球上でこそ、いや、自分にもっとも近い所でまずは発揮されねばならないのだろう。
もっと能力を伸ばそう、未知なるものにチャレンジしようという意気軒昂に水を差すつもりはない。だが、どうやら問題解決によって実現しようとする幸福のありかは己自身もしくは己のすぐそばにありそうだ。深慮遠謀して時間をかけた結果、巧遅こうち、俗に「ウマオソ」であっては旬を逃す。むしろ、少々ぎこちなくても、身近で小さな問題を人間らしくコツコツと解いていくべきなのではないか。しかも、地上のエンデバーと違って急がねばならない。拙速せっそくという泥臭さにぼくはとても魅力を感じている。これは別名「ヘタハヤ」である。

知者と愚者―どちらが生き残る?

今年最初の会読会を来週金曜日に主宰する。年末から昨日までいろんなジャンルにわたって10数冊ほど「軽読」していて、何を書評すべきか迷っている。ちなみに軽読とは、文字通り軽くざっと読むこと(その後、これぞという本をしっかりと再読する)。今年も雑多に読むつもりではあるが、大きなテーマとして「人、人間、人類」を見据えていて、そこから派生する「力、技、術、法」なども絡めていきたいと思っている。

昨年最後の会読会では「宇宙と地球」の本を取り上げた。このテーマを継承するなら、「人類700万年の歴史」を拾える。もちろん「ことばと芸術」も範疇に入る。「日本人がどこから来たか」も興味をそそる主題だし、うんと時代を駆け下りてきて幕末、あるいは流行の「龍馬」を語るのもよい。タイトルに惹かれて古本屋で買った『かたり』(坂部恵)は、「う~ん、難解」と反応されるかもしれないが、知を刺激するだろうし新しい発見も多いはずだ。

この他に、イタリア人ジャーナリストの手になる「バカ」をテーマにした一冊の文庫本がある。書き出しが動物行動学者のコンラート・ローレンツとの出会い。本章に入ると、オーストリアの「ある学者」との往復書簡的論争が繰り広げられ、人類の進化を「知性 vs バカ」の対立で描き出してみる。イタリア語の原題は『愚者礼讃』。どうやらエラスムスの『痴愚神礼讃』の書名をもじっているようだ。アイロニーであり、逆説的に読まねばならないのは言うまでもないが、真に受けたくなる説も多々ある。この本を取り上げるかどうかはまだ決めていないが、愚者と知恵に関して再考する機会を得ることはできた。


愚か者やバカということばの何と強いこと。知恵者などひとたまりもない。ところで、先祖であるホモ・サピエンスの出現以来とても賢くなってきたように思える一方で、ぼくたちはサピエンス(知恵・賢さ)とはほど遠い愚かな行動を繰り返したりする。家庭と暮らし、組織と仕事、社会と文明などによく目を凝らしてみれば、知の進化と同時に、知の退化や劣化という現象をも認めざるをえない。大木がある高さ以上に成長しないように、知性にも成長の限界があって、もしかすると進化が止まって劣化へと向かっているのかもしれない。

ITどころか、紙と筆記具と本を手に入れるのさえ困難な時代に、先人たちはさまざまな命題に挑んだ。彼らの知の足跡を辿ってみると、ここ数百年、いや二千数百年にわたって思考力が飛躍的に高まってきたと証明する勇気が湧いてこない。たしかに現代に近い人々ほど知識は豊富だし、おびただしい難題を解決してきただろう。しかし、解決策には新たな弊害も含まれ、問題は山積するばかりである。

周囲だけでなく、広く社会を見渡してみると、知者もいれば愚者もいる。知者が先導してすぐれたチームを形成していることもあれば、他方、こんな愚か者が大勢の知者を率いていていいのだろうかと泣きたくなる組織も存在している。時代はやや愚者有利に差し掛かったとぼくは見ている。集団化は便利と効率を追求する一方で高度な知を必要としないから、人材はみんなならされてしまう。当然没個性が当たり前になるので、みんな普通になってしまう。集団的普通は、いくら頑張っても歴史上の一人の天才には適わないだろう。知者の敵は集団なのだ。知を生かしたければ、少数精鋭しかない。いや、そもそも精鋭は小集団でしか成り立たないのである。

《続く》