「時間をかける」と「時間がかかる」

「世の中は澄むと濁るで大違い」などと前置きすることば遊びが懐かしい。ここでの濁るは「濁点(゛)」のつく濁音のこと、澄むは濁点のない清音のことだ。最初に覚えたのが「刷毛はけに毛があり、禿はげに毛が無し」。あまりにもよく知られている。他に、「福に徳あり、河豚ふぐに毒あり」というのもあった。調子もあって、なかなか粋である。

たった一字の助詞をいじるだけで、全体の文意が大きく変わる。実話らしいが、ある女性に「私とA子さんとどっちがいい?」と聞かれた男性が、「お前いい」とつい言ってしまったとか。ここは「お前いい」でなければいけなかった。「お前いい」も少々場違いだし、「お前いい」となると不幸の二択に迫られて我慢している心境になってしまう。

「時間かける」と「時間かかる」も、格助詞の一字変更で意味が大きく変わる。たとえば「手料理に時間をかけた」の場合、「を」の一字によって「かける」という動作の対象に意図的に時間が置かれることになる。「手料理に時間がかかった」なら、時間を要してしまったのは成り行きという意味になる。ともかく、たった一字、「を」が「が」に変わるだけで、意図的な行為が成り行きの状態に転じてしまった。


数年前にコーヒーの苗木を一本買って帰ったことがある。あいにくぼくの自宅のベランダは北向き。「室外だとダメですが、室内の暖かい場所なら育ちますよ」と店の人。「ほんとうに育つの?」と聞けば、「上手に育てていただければ……」と言うから、どのくらいでコーヒー豆が収穫できるのかと尋ねた。コーヒーカップを口に近づけるジェスチャーをしながら、「数年くらいで、この苗木一本でコーヒー1杯分」という答えが返ってきた。ギャグか真実か判断しかねたが、苦笑いしながら買った。

茎も葉も3年間ほど大いに成長したが、ある日を境に枯れ始め、見るに耐えなくなって葬ることにした。むろんコーヒー豆の焙煎どころか、実すら見ていない。この苗木において「時間をかける」と「時間がかかる」はほとんど同義というか、完全に両立した。一人前になるのに年月がかかる。そして、それを見守り面倒見るのに年月をかける。時間がかかることには時間をかけねばならない。

桃栗三年、柿八年は自然の作用だから、果樹の成長にぼくたちも付き合う。だから、時間をかけ、時間に象徴される手間暇をかける」。しかし、このことを一般法則化するわけにはいかない。お分かりのように、時間がかかることには、自然的なものと人為的なものがあるのだ。本来3日でできそうな仕事に一週間かかったことを、時間をかけたとは言わない。下手くそゆえに時間がかかってしまったのだ。油断すると、仕事は時間を食う。つまり、「仕事に時間がかかる」。つねに自らが主体となって仕事をしていくためには、しっかりと時間をかけることができたか、それとも何となく時間がかかってしまったのかを、仕事が一段落するごとに評価しておくのがよい。

軽はずみな一言

幼少の頃の写真を見ると、ほとんどがモノクロ写真ではあるものの、ぼくが色白であったことがわかる。中学時代に少々剣道をしていたが、室内競技。だから、中学を卒業するまではたぶん褐色系の風貌とは無縁であったと思われる。高校に入ってから自分が日焼けをする体質であることがわかった。ふつう色白肌だと赤く焼けるのだが、そうはならない。真っ黒にもならないが、少しアウトドアで運動するだけでほどよい褐色に焼けた。

ある時期からやや脂性へと変態したのかもしれない。あるいは単に、わずかな陽射しですぐに焼ける潜在的な体質だったのかもしれない。いずれにしても、この歳になってもすぐに日焼けしてしまうのだ。真夏日は別として、土・日にはよく散歩するものの、長時間アウトドアスポーツをするわけではない。平日出張ではほとんど陽に当たらないし、大阪にいる時も自宅と事務所の間を往復30分弱歩くだけである。

しかし、問題はその半時間にある。あいにく朝は東の方向へと歩き、夕方に西日を受ける方角へと帰ってくる。朝夕のどちらもまともに太陽に向かって歩いているのである。日焼けしやすい体質にとって10分は褐色を重ねるのに十分な時間なのだ。この時期はだいぶ濃さを増すので、ぼくの趣味をあまり知らない人に「よく焼けてますねぇ。ゴルフですか?」と聞かれること常である。その瞬間、キッとなって「ゴルフなんか、、、しませんよ!」とつい言ってしまう。そのあと「あっ」と思うのだが、もう「なんか」と言ってしまっている。手遅れだ。


さぞかし、この「なんか」はゴルフ好きにはとても失礼に響いていることだろう。「なんか」はそれ自体大そうな意味もないただの助詞なのだが、「○○なんか」と言えば、○○が望ましくないものを漂わせる。「なんて」と言い換えればカジュアルだが、軽視の感度は同じだ。「お前なんか」も「あなたなんて」も、いずれも低い価値のものとして見下している。相手が気分を害することは想像に難くない。なぜなら、「きみもビジネススキルばかりじゃなくて、哲学の一冊でも読んだほうがいいよ」と助言して、「哲学なんか役に立たないでしょ?」と反問されたら、ぼくだって心中穏やかではない。

ぼくはゴルフをしない。大学生の頃によく練習したし模擬コースのような所も何度か回った。先輩にはセンスがいいと褒められたりもした。けれども、アマノジャクな性分なので、やみつきになって身を滅ぼすかもしれないと察知し、二十歳できっぱりとやめた。だから、未練なんか、、、まったくない。この心理が「なんか」と言わせるのか。かつてよくカラオケに通った頃はカラオケに「なんか」を付けたことなどなかったが、いま誘われたら「カラオケなんか行かない」と言ってしまいそうである。

昨日のブログのM氏に「プーケットに一緒に行こうじゃないか?」と誘われた時も、たしか「プーケットなんかに行くくらいなら、ヨーロッパを旅しますよ」と憎まれ口を叩いた。たった一つの助詞を通じて心情がありのままに吐露される。そのM氏も奥さんに「お前いい」と口を滑らせたことがある。ここは「お前いい」でなければならない(「お前いい」は相当まずい)。多弁なぼくだ、口の禍の確率が大きいから、心しておかねばならない。「なんか」なんか、もう使わない。

「問題ない」という問題

MONDAINAI(モンダイナイ)。

ローマ字・カタカナのいずれの表記も、いまや堂々たる国際語になったMOTTAINAI(モッタイナイ)と酷似している。だが、モンダイナイは世界の市民権を得るには至らなかった。

1980年頃からアメリカ人、イギリス人、オーストラリア人らと一緒に仕事をしていた。日本企業の海外向けPR担当ディレクターとして英文コピーライターチームを率いていたのである。彼らはみんな親日家であり、日本の企業で生き残ろうと自己アピールをし、自分の文章スタイルに関してはとても頑固であった。

日本語に堪能なライターもいればカタコトしか解せぬ者もいた。しかし、どういうわけか、「ノープロブレム(心配無用)」を「モンダイナイ」と言う傾向があった。これはあくまでも想像だが、彼らは「日本人が問題を水に流したり棚に上げたりするのが得意」ということを知っていて、別に解決していなくても当面問題が見えなければ良しとする習性に波長を合わせていたのではないか。

「モンダイナイ」とつぶやいておけば、とりあえず日本人は安心するだろうという一種の悪知恵であり処世訓だったかもしれない。しかし、彼らを責めることはできない。「腫れ物と問題は三日でひく」という諺があっても不思議でないほど、この国では「問題の自然解消」に期待する。さらに、小学校から慣れ親しんだマルバツ式テストのせいで、当てずっぽうでも50%の正解を得てしまう。問題がまぐれでも解けてしまうと錯覚している。


問題に対する姿勢を見るにつけ、日本人にとって問題解決は厄払いに近いと親日家たちが判断したのも無理はない。問題を水に流すなど、まさに厄払いそっくりだ。問題を棚に上げるように、祈願の札も神棚に奉る。TQCさえやれば問題なんてへっちゃらと思うのは、厄をぜんざいの中に放り込んでみんなで食べてしまうみたいだ。

こうした観察が「モンダイナイ」を生み出した。しかし、彼らは日本語の助詞が苦手である。そのため、三つの文脈すべてにおいて「モンダイナイ」を使ってしまう。正しく言えば、「モンダイナイ」は、(1) 問題(にし)ない、(2) 問題(を見)ない、(3) 問題(は解決して、もうここには)ない、というニュアンスを秘めている。

この用語の使い手の名人はアメリカ人のCだった。

ぼく 「(英文を見せながら)Cさん、これで大丈夫?」
C   「うん、それでモンダイナイ」
ぼく 「もし、誰かが文句をつけてきたら……」
C   「でも、モンダイナイから大丈夫」
ぼく 「ちょっと待ってよ、それでいいの?」
C   「そう、モンダイナイから平気」

と、まあ、会話の中にキーワードがふんだんに織り込まれるのである。これは禅問答ではない。彼は理路整然と受け答えしているのだ。上記の会話にニュアンスを足し算すると、次のようになる。

ぼく 「(英文を見せながら)Cさん、これで大丈夫?」
C   「うん、その文章の問題はすでに解決して、もうここにはない」
ぼく 「もし、誰かが文句をつけてきたら……」
C   「仮に問題があっても、それを見ないから大丈夫」
ぼく 「ちょっと待ってよ、それでいいの?」
C   「そう、問題にしないから平気」

ここまで解釈できない日本人スタッフはみんな「モンダイナイ」の三連発に安堵して、後日責任を負ってしまう。リスク管理に神経を使うぼくだが、それでも二度痛い目に合った。これは容赦できんとばかりに二度目の後に徹底的に詰問した。

Cさん、あれだけ自信をもって大丈夫だと繰り返していたくせに、問題が出たじゃないか! どういうつもりなんだ!?」とぼく。Cは身長190cmの巨体を縮め肩も狭め、小さくかすれた声でつぶやいた。「ごめん。モンダイナイ……つもりだった」。

彼はまだ素直なほうなのだ。彼以上に日本慣れしてくると、「どうしてくれるんだ!?」という怒号に対して、「じゃあ、もう一度モンダイナイようにしてあげよう」とケロリと言ってのける。そして、このときにかぎって英語で”ノープロブレム”と付け足すのだった。

「問題ない」を口癖にしている問題児、水に流し棚に上げて知らんぷりしている社員、あなたの回りにも必ずいる。たぶんそいつにオフィスの着席権を与えてはいけない。